シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年02月09日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 獅子は消化(器官)を霊的存在にまで導けない。鳥にあっては尚更である。鳥では消化の営みはほとんど完全に物質的存在に止まる。鳥にもエーテル体の消化器官が存在するのは勿論だが、鳥の消化器官のなかにアストラル性が見られることは非常に稀で、ほとんど見つけ出せない。

 これに対して、雌牛において、消化器官をアストラル的に見ると、非常に崇高な存在で、1つの宇宙を形成する。

 そこで、今度は人間のなかに雌牛に似た言語を見つけ、更に雌牛が一面的に形成している「照応」というべき、ある種のアストラル的な肉化を見るなら、人間では、それが消化器官のなかと消化機構の継続、つまり四肢のなかに調和的に付加され組み込まれている。

宇宙言語;崇高な宇宙→雌牛の消化→人間の消化器官と四肢

 従って、高い上空の鷲のなかに見る言語と、直接空気(大気)を享受する獅子(ライオン)のような動物のなかに見る言語と、牛のような動物が、その消化器官のなかで作用を継続し、地下の地の力と結びつくとき、つまり、人間が上空を見る代わりに、地下深い場所を見下ろし、それに対する充分な理解をもって、雌牛の本質に迫るときに見れる言語の、以上の、鷲、獅子、雌牛の3つの言語が、人間のなかで統合されて1つの調和(ハーモニー)を形成し、それらは互いに調停し合う3つの形態をなす。

 つまり、人間の頭部における鳥の変容(メタモルフォーゼ)と、人間の胸部における獅子(ライオン)の変容と、人間の消化器官及び四肢機構、そして四肢機構においては更に大規模な変容がなされるのは勿論だが、この消化器官と四肢機構における雌牛の変容の3つの言語をもつのが人間である。

 今回、このような事実を見て、本質的に人間は自然全体から生まれ、しかも自らのなかに全自然を担っている事実、いま示したように、鳥の領域、獅子の領域、雌牛の本性を自らのなかに担っているという事実に辿りつくなら、人間は小宇宙(ミクロコスモス)である、という様々な抽象説が記述する内容を成立させている個々の要素(言語)を獲得できる。

 人間は確かに小宇宙(ミクロコスモス)であり、そして大宇宙(マクロコスモス)も人間のうちにある。空中に生息する動物、地球の周囲を循環する空気(大気)のなかに、主要な生息要素(エレメント)を持つ動物、そして大地の下の重力のなかに、主要な生息要素(エレメント)を持つ動物、これらの動物は全て、人間において調和した全体性を成立させ、共同的に作用している。

 なので、人間は、鷲、獅子(ライオン)、雄牛または雌牛の統合であると、霊的(宇宙)言語で解釈される。



 例えば、互いに調和し相応しながら1つの全体として人間を形成する鷲や、獅子(ライオン)や、雌牛もしくは雄牛から、人間が成立する事実に関する力強い像(イメージ)に対して、大いに尊敬の念が湧いてくるだろう。

 だが、個々の衝動、つまり例えば、鷲の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動や、獅子(ライオン)の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動や、雌牛の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動について論じる(この議論は次回にもできるが)前に、内的-人間的な言語と外の宇宙のなかに存在する言語との、もう1つ別の照応(コレスポンデンツ)に関して述べる。

 さて、今では、既知の知見に従いイメージできる。人間の頭部を、その性質に従ってイメージすると、つまり人間の頭部は、鳥類を観察することで、また人間の胸部、つまり心臓の鼓動、呼吸は、自然のなかの秘密として理解するなら、獅子(ライオン)を観察することで、また人間の新陳代謝機構は、牛の身体構造と生体機構を観察することで理解できることがわかる。

 (ここでいう観察とは、霊視的観察であるのはいうまでもない)

 なので、人間は、頭のなかには思考(鳥の翼)を担うもの、胸のなかには感情(獅子の口)を担うもの、新陳代謝機構のなかには意志を担うものをもっているといえる。

 なので、鳥類と共に宇宙を織りなし、鳥の翼に現われているイメージ、地球のまわりを巡り、獅子(ライオン)において心臓の鼓動と呼吸との内的均衡の生になかに見つけられる感情世界、これは人間では幾分和らげられてはいるが、内(精神)的な大胆さ(ギリシア語は、「大胆な」という言葉を心臓や胸の特性を表わすために作り上げた)を示すが、人間は魂的にも、このイメージと感情世界の模像である。

 そして人間の主に新陳代謝機構のなかに占める意志衝動を見つけ出し、これを外的に形態化すれば、雌牛のなかに肉として形態化されている霊的(宇宙)言語が出現する。

 今日グロテスクで逆説的に聞こえる話や、宇宙における霊的な関連に関して、もはや全く、理解が失われてしまった時代にとっては、狂気の沙汰と思われるような話でも、古くからの風習が示唆する、ある秘めたる真実を含んでいる。

 あのマハトマ・ガンジー(ロマン・ロランが、ドキュメンタリー的な書物において、あまり芳しくない記述をした(4))の活動は確かに外に向かうものだったが、その当事のインド民族の内部では、彼はインドへと伝播し、進出した、いわば古いヒンズー教に対峙する、18世紀の啓蒙主義者のようであり、彼のその啓蒙主義的なインド主義においてもなお牛の崇拝だけは守った、ということはやはり注目に価する現象である。



 牛に対する崇拝を捨てることはできない、とマハトマ・ガンジーは述べている。周知のように、インドでの政治活動のためにイギリス人から6年の重禁固刑を負わされた彼が、牛の崇拝を捨てなかったのである。

 まだ比較的霊的な文化のなかに強固に維持されている、このような事実を理解できるのは、上述の秘教的関連を知るときだけである。



 このような事実から、ヒンズー教における雌牛に対する宗教的崇拝というものが理解できる。秘教的な理解とは逆に、合理的、主知主義的に錯綜した概念を、この崇拝の解釈に加えても、このような事実は決して理解できない。





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Last updated  2010年02月10日 16時56分02秒
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