シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年07月06日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 さて、三番目の例として、植物学者や動物学者はあらゆる植物の形態に関する素晴らしく詳細な知識、入手可能な知識を得ることができる、ということを挙げる。

 生化学者は植物の中で生じるプロセスを記述でき、人間の新陳代謝の中でいかに食物が消化され、血管によって栄養が運ばれ、組織の壁の中へと吸収され、更に血液によって神経系へと運ばれるか、をも述べることもできる。

 優秀な解剖学者、生理学者、生物学者、或いは地質学者はマーヤ(幻想)の世界を広い範囲に渡り網羅できる。

 しかし、もし、科学者たちが、その知識を人間の治療や医療の目的に使うなら、或いは、もし、人間の外見、もしくは内的な構成から、人間の本質的な存在へと探究を進めるなら、それは不可能で、決して到達できない壁にぶつかるだろう。

 (ソクラテスは、この壁のことを「無知」の壁と呼んだという。神々との対話ができる真の賢者「秘儀参入者」でなければ、この「無知」の壁にぶつかることを、無知の知と呼んだという。)

 しかし、次のように反論する人もいるだろう。

 「けれども、精神世界には何の興味も持たない唯物論者の医師も沢山いる。それでも、医師たちは自然科学の方法に従って、患者を処置し、結果を出しているではないか。」

 確かに、医師たちは結果を出しているが、実は、医師に治療が可能なのは、医師もまた(伝統に基づいた)古い世界観の上に立っているからである。太古、治療法は秘儀から導き出された。

 そして、太古の治療法全ては、顕著な特徴をもっていた。もし、現代人が、太古の処方箋を見たなら、大変複雑であることが分かるだろう。太古の伝統により規定された特定の目的のために、太古の処方を用いる人には、かなりの能力が要求される。



 太古の医師には、逆に現代のような処方は思いもよらぬものだろう。太古の時代は、どのような能力や状況が卓越していたのか、に関するいかなる考えも、現代人は持ち合わせていない。当時の医師は次のように答えただろう。

 「私は、秘儀の教えに基づいて設置された実験室(と呼べるかどうかは分からないが)に住んでいる。私が処方を思いつくときには、その処方は、神に負っている。」

 太古の医師の立場は、実験室のなかに醸し出された雰囲気全体を通して、精神世界と密接に交流している、という点に関しては、全く明確だった。

 太古の医師にとって、精神的な存在が、実験室に居る、ということは、科学者が実験室に居るのを現代人が確認できるのと同じくらい明確なことだった。

 太古の医師は、精神的な存在の影響を通して、高次元に到達し、他の方法で可能な治療よりも多くの治療を達成できる、ということを知っていた。そして、太古の医師は、自然認識からではなく、神の口述に従って、複雑な処方箋の作成へと進んだ。

 秘儀の学院では、人間の理解には、マーヤ(幻)の世界と自分とを同一視するのではなく、神界の真実へと参入できなければならない、ということが知られていた。

 外界に関するあらゆる知識をもっているとはいえ、今日の人間は秘儀から導き出された知識をもっていた太古の人々に比べて、神界の真実から、遥かにかけ離れた処にいる。再び、神界への真実に戻る道を見つけ出さなければならない。

 三番目の例から明らかなのは、現代人が、治療法を追求するとき、たとえ可能な限り幅広い自然に関する知識(つまり、マーヤ「幻」の世界に関する知識だが)をもっていたとしても、再び、人間の生と運命に関する未解決の問題に直面することになる、ということである。

 現代人が、いくらマーヤ、いわゆる大いなる幻想の立場から人間を理解しようとしても、或いは、治療目的のために要求される「汝自身を知れ」の立場から理解しようとしても、人間の理解において一歩も先には進めないだろう。

 (シュタイナーによると、ソクラテスの「無知の知」とは、人間が、秘儀により神から叡智を伝授されない限り、どんなに知識を得ようとも、人間の理解は進展しないということを主張したものだという。

 シュタイナーは、秘儀による神からの叡智の伝授は、神界に参入することで、得られると説いているが、神界は、日常世界、つまり物質界にも混じり込んでいるので、特別な修行など必要なく、いわば日常生活を通した精神的鍛錬で、神界に到達できるとも説く。



 神界の基本的性質は、自己犠牲にあるという。神界では、もはや自己がないので、犠牲のみ、無償の愛があるという感じなのだろう。

 聖人といわれる人たちは、神界から、その才能を受け継ぎ転生してきた教師と、神秘学では、いわれる由縁なのだろう。自己を捨てるとは、禅では無我の境地に喩えるが、日本の古来からの思想には、神秘的要素が豊富である。

 例えば、武士道も、自己を捨て、天に仕えることを目的としているし、武士が、身体を鍛えるのは、身体の悪「居つく」を克服するためと思われる。切腹は、ある意味、身体に犯された精神を解放するためともとれるし、天に対して、身体を捨てる犠牲でもある。) 

 従って、以上の例に照らして、次のような結論に至る。

 マーヤ(幻)の世界と「汝自身を知れ」の間にある隔たりに橋を架けようとする人が、たとえ宗教的な感情、もしくは創造的な芸術家として、或いは治療家や医師として、人間にアプローチしても、唯一の出発点が幻想の世界であるなら、その瞬間、自分が無の前に立たされている事実に気づく。



 (ソクラテスの「無知の知」の真の意味。)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2010年07月14日 11時59分07秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: