シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年07月29日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 古代人の経験は宇宙に関連していた。古代人にとっての地球は、現代人にとっての地球のような確固とした一貫性をもたなかった。

 古代人が、特別好ましい条件下、例えば、火星に住む精神的存在との親しい交流の中で生きるとき、秘儀参入者が第2の人間の(銅の)意識から知覚できるような存在(死者)たちを伴って、月から、ある存在たちが訪れる瞬間があった。

 (かぐや姫を彷彿とさせるような話である。古代カルディア人は、火星の霊的な存在と良好な交流をしている際に、死者を伴って、月の霊的な存在がやってきて、出会っていた、というのである。

 この出会いは、現代人では、睡眠意識に相当し、現代人も夢のなかで恐らく出会っているのだが、秘儀参入者のように眠らずに覚醒できれば死者との遭遇を意識できるが、その分、苦痛を伴うわけである。このような話に似たものが、カールセーガン監修の映画「コンタクト」にあった。)

 古代カルディア人たちは、死後の生活に関する崇高な真実を、このような間接的な形で知った。つまり、古代人は、これらの真実に関する教唆を、外なる宇宙から受け取った。

 仲介者の援助なしに死者を追及できる今日(1924年)の秘儀参入者にとって、古代の火星との関係は、もはや必要ではない。秘儀参入者は、死者の経験を遡って順番に、それぞれの経験を逆方向に辿ることができる。

 しかし、秘儀参入者が、第2の人間と同化するとき、現象世界よりも遥かに現実的な世界に自分が置かれているのを見出すことが不思議に思えてくる。この現象世界(この世)と、この現象世界での経験の総計が、秘儀参入者が参入する堅固で厳格な事実の世界に比べると、まるで実体がないように見えるからである。

 今述べたような方法で、死者に同伴するとき、秘儀参入者は、あらゆる事柄を増幅したスケールで経験する。すなわち、あらゆることがより強烈に現実的な出来事として現れる。その世界に比較すると、現象世界は、漠然とした印象を残す。

 秘儀に参入した意識を通して、死者の世界に関係する者には、現象世界は色のついた仮面舞踏会のようなものである。瞑想を通して秘儀に参入し、死者と、上記のように、密接な関係を持った者は次のように言うだろう。

「お前たちは皆、色のついた仮面だ! お前たちに現実性はない。ただ色のついた仮面が椅子の上に座っているのだ!」

 真の現実は、物質的な存在領域を超えた処だけに見つけられるが、そのような現実を、私(シュタイナー)の神秘劇で経験できる。その神秘劇に登場するストラーダという役柄は、実在の人物に基づいている。

 ストラーダは19世紀の最後の3分の1から20世紀にかけて生きた人物の詩的で非現実的な側面を表現している。ストラーダのモデルは、実際の人生において非常に興味深い男だった。彼の人生の出発点はカプチン修道士会の見習いだったが、哲学のためにその職業を捨て、しばらくの間ドルナッハの修道院に滞在した。

 私(シュタイナー)は、彼を神秘劇の中でストラーダに仕立てた。それは彼を忠実に再現したものではないが、ある程度似たところがある。覚えている人もいるだろうが、神秘劇第4番でストラーダは死ぬ。

 彼のキャラクターを、更に展開する可能性全てを使い果たした為に、彼を死なせるより他になかった。もし、彼を生かし続けるように試みたなら、続けてペンを取ることができなかっただろう。神秘劇の第5番に彼が再び登場する可能性がなかっただろう。

 では、何故そうなったのか? 

 僧から哲学者へと役割を変えていたストラーダの当の人物が、その間に亡くなったのである。私(シュタイナー)は、その人物に対して深い興味を抱いていたために、(死後も)彼の旅路を、精神世界を通して追求できた。

 死後の彼の人物像によりもたらされる印象は遥かに現実的だった。彼の地上での生活と活動は、彼の死後の生活での経験に与ることができる今となっては、もはや興味を起こさせるものではなかった。

 そのとき、奇妙な出来事が起こった。人智学徒の何人かが、ストラーダのモデルの顛末に気づいた。彼らは、ストラーダが、おおよそ、ある歴史上の人物の横顔であることを手際よく見つけた。

 その探求の過程で彼の未公開の原稿や彼が書き残していた、あらゆる種類の興味深い書類を発見したので、その発見に大喜びするものと思って、それを持ってきたが、そのときには、ほとんど興味のないものだった、というわけである。



 それほど骨を折って集めた情報だったが、私(シュタイナー)がほとんど興味を示さなかったので、人智学徒たちはかえって驚いた。そのとき、本当にそれを必要としていなかったからである。今(1924年)も勿論、必要ない。

 この世の現実とは、秘儀参入者が、死の門を通った魂を追求していくときに明らかになる崇高な現実に比べれば、空虚なものである、というのは本当である。

 死者の魂が、死の門の向こう側で滞在する世界は、秘儀参入者が、肉体を捨て去り、第2の人間と同化するときの短い間とはいえ、その短時間の間に、多くを経験できる。

 現象世界に直接に境を接する、あの世の存在は全く疑いのないものである。そこは、死者たちがより豊かに生きる世界である。肉体の放棄による第2の人間を通して、死者を理解するが、それは、意識を喪失したというよりも、むしろ、意識がより深く融合したことを意味する。

 もし、意識を心臓の中心よりも上に上昇させるなら、意識は曖昧になり、無意識の状態に近くなる。もし、心臓の中心よりも下に下げるなら、意識は強められる。そのとき、真の世界に参入するが、その結果として必然的に生じる痛みや苦しみに耐えることを学ばなければならない。

 とはいえ、もし、この世を取り囲む壁を、勇気と決意を持って突破するなら、死後の世界への参入は確かなものになるだろう。 

 通常の日常的な覚醒意識から、喉頭にある第2の意識(鉄)、両目の眉間にある第3の意識(錫)、頭頂部にある宇宙に達する第4の意識(鉛)、そして、空間世界とは関係を持たず、時間の世界に連れ戻す心臓より下部の腹部にある第5の意識(銅)に関する理解へと到達した。

 この第5の意識レベルを達成するとき、死者たちと同じ逆向きの時間軸(時間が過去に進む世界)を共有し、時間の中を旅することになる。秘儀参入者は空間から出て、時間の中へと足を踏み入れる。

 従って、新しい世界を、眼前に開示する別の意識状態の中に、自身を移せるかどうかに、全てがかかっている。地上の人間はいわば1つの隔離された世界の囚人である。

 何故なら、たった1つの意識状態しか知らず、他の全ての意識において、睡眠状態にあるからである。もし、それらを覚醒させ、発達できたなら、別の世界を経験できる。

 人間は、意識を変化させることで、自身を変化できる、というのが精神的な探求における秘密である。現在行われている通俗の方法による探求や研究により、この世とは異なる別世界へは参入できない。自身が変容を遂げ、意識を、これまでの通常とは異なる別の新しい形態へと変化させなければならない。

 (秘儀参入法の名残りが、ヨガともいえる。ヨガは古代の意識の変革方法なのであろう。人間の肉体は日々変化していっているので、現代人が、古代人と同じようなヨガをしても、意識を変えることはできないだろう。

 シュタイナーは、太古には、宗教は存在しなかったと述べている。宗教はずっと後になってできたもので、中国人や古代の日本人やインド人は無宗教だったと述べている。

 それは、真実を霊能力で直接捉えることができたので、シュタイナーは、イメージ思考と呼んでいるが、宗教のようなまわりくどいものが必要なかったからである。

 例えば、老子の出典の「真実を知る者は語らず」のようである。

 シュタイナーは古代人の方が精神的に高度で、人間は、次第に堕落してきたと述べている。その代わり、肉体は、古代よりも進化し、悟性が発達し、覚醒意識が生まれたとも述べている。

 覚醒意識のお陰で、自他の比較ができるようになり、具象から一般へと抽象的な概念思考が可能になり、法律ができたと述べている。古代人には法律がなく、あの世から命令されるままに、行動したという。

 つまり、イメージが現れ、イメージは、神々の命令として理解され、その通りに行動できたわけである。宇宙の秩序がそのまま人間の秩序に置き換わったわけである。

 例えば、古代人の言葉には、神々の名が頻繁に出てくるが、それはイメージ思考、つまり命令を意味していたのである。詩などは、その名残りである。

 現代風に直訳すれば、例えば、座禅が、「仏陀」等になるわけである。ある意味で「ネット検索する」を「ググる」と言う感覚に近い。

 「検索」という抽象言葉よりも、「グーグルで検索する」というイメージが沸くので、具象に近い。電子レンジで「チン」するという言葉なども、古代人の具象的なイメージ思考に近い。ただし、古代人のイメージはもっと具象的で正確である。

 しかし、イメージのまま行動するので、逆に、自由意志がなかった。神々の命令に背くことができなかったわけである。勿論、戦うのも、命令である。だから、戦いは神々の代理戦争になる。

 それが堕落し、いまでは利己主義者の聖戦という自己宣伝に使われる。抽象概念のせいで、利己心と一体化し、悪魔に堕落したのである。聖書の知恵の実とは、悟性の抽象概念のことであろう。

 逆に、神に逆らう自由を人間は得た。しかし、古代人ならわかるが、概念思考を用いる現代人が神の名を語るのは偽りとなる。現代人は神の名を語れないからである。このことをニーチェは、「神は死んだ!」と表現するわけである。

 古代ギリシア時代辺りから、古代人の霊能力によるイメージ思考ができなくなり、ソクラテスが「神々との対話」として語るように、いわば秘儀参入が当たり前でなくなった頃から、哲学という、まわりくどい秘儀参入法や、宗教が生まれたというわけである。

 考えてみれば、戦争ばかりしている現代人の精神性が高いわけなかろう。土地を奪い合い、人間同士で戦い、競争し、所詮、皆同じ人間なのに、自分たちの優越性を誇示する幼稚性は、高度の知性からみれば、猿に近いものである。

 私は、最近、海水魚を飼育しているのだが、海水魚は縄張り意識が強く、特にケンカばかりする海水魚は、水槽を分離するしかなくなる。地球上の国境や国が、このような水槽分離の状況にある。

 海水魚にとっては死活問題なのだろうが、飼育者としては、余計な配慮である。

 つまり、人間も海水魚に似てきつつあり、精神性を問題にするなら、人間は猿から進化したのではなく、猿に退化しつつあるといえる。

 特に昨今の子供虐待や無差別殺人事件等などをみると、猿に近い存在になりつつあるような気がする。実際、加害者の部屋をTVでみたが、とても人間が生活しているとは思えない、掃除を知らない獣の飼育部屋のようであった。

 精神が退廃すると動物と似てくるようである。シュタイナーによれば、現代の動物も、高度な精神性を持っていた動物のなれの果てだという。動物は人間より後から発生し、徐々に堕落し、いまの動物となったという。

 例えば、ヨハネの黙示録は、かつて高度の精神文化をもつ人類のなれの果てが猿のような獣になることを警告している。

 そろそろ、抽象的な概念思考を使い、他者を愚弄するのは止めにすべきであろう。要するに、自分たちの優越性を誇示したい欲求に囚われているだけのものに思える。

 そのような思考こそ、幼稚な思考であろう。抽象概念から、具象イメージに向かうべきであろう。お互い理解しあい、共存共栄の道を目指すべきだろう。)





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Last updated  2010年08月05日 16時53分11秒
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