シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年04月21日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 少々脱線することを覚悟の上で、せっかくのコメントを戴いたことを生かしたいために、シュタイナーが説いている人智学での「月紀」を再掲したい。ついでに、意訳も改善したい。
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シュタイナーの月紀その1

 人智学徒は、人類の宇宙観に対する困難な側面に関して、ある程度だが、 外的、感覚的な世界の顕現の背後に横たわる精神的な真実を追求してきた。兎角、人間は、感覚的な世界の中で見る対象の背後に精神的な存在が特徴的な形態をもって実際に立っている、という本当の事実は、外見だけでは理解できないということを、生活の中で頻繁に経験する。

 しかし、人智学を学べば、外観の背後には、本当に、精神的な活動や精神的な性質や特徴が存在している、という事実を認識するようになる。例えば、通常の生活のなかの暖かさや、熱、或いは火というような性質をもって現れる対象は、人智学(霊)的にいえば、精神(霊)的な存在の「犠牲」の表現である、という事実を理解している。

 また、空気(大気)として遭遇する対象が、本質的には、それが精神(霊)的な存在であるという事実は、現代人の概念の中では、理解できないが、空気(大気)の中には、人智学徒が、特定の宇宙的な存在により与えられた「徳」が認められる。

 更に、水の中に認められる精神(霊)的な表現は、人智学徒が、「諦め、拒絶」である。

 (精神的な存在の「犠牲」が、火になり、「徳」が空気もしくは風になり、「諦め、拒絶」が水になる。)



 人智学者は、「スピリット」よりも、むしろ「スピリッチュアル(精神的存在)」と言うが、外的な感覚世界の人間は、「スピリッチュアル」という言葉を、精神(霊)的な事実、もしくは超感覚的存在にはほとんど適用しない。

 例えば、ミュンヘンの「精神(スピリット)主義者協会」に宛てられた手紙が、「精神主義者協会」があまり知られてなかった為に、「スピリット」のせいで、「アルコール飲料協会」本部に届けられたことがあった。

 今回は、地球という惑星の進化が、「太陽」から「月」まで進展したときに生じた重要な変容を霊視していくことで、現代とは全く別の種類の精神(霊)的な発達に関して考察する。

 以前の太陽紀の講義で取りあげた「拒絶という行為」から始める。以前、精神的存在たちが「拒絶」あるいは「差し控える」という行為の中で、「犠牲」を意志という精神的存在、つまり「意志霊」たちの捧げる行為として認識し、その「犠牲」を受け取る機会を「諦める」精神(霊)的な現象を見た。

 ある精神的存在(意志霊)たちが、意志を生む精神的実体を捧げたいと望む一方で、その存在たちよりも、高次の精神的存在たちが、受け取るのを「差し控える」という行為により、この意志受容の拒否を霊視すれば、人智学徒は、意志霊が、自らを、自分たちよりも、高次の精神的な存在たちに捧げたいと望んだが、拒絶され、捧げたいと望んだ自分のままに留まるを得なかった、という概念に容易に上昇できる。

 従って、宇宙史的な文脈では、いわゆる自分たちの最奥の存在の中に安らいでいる意志を、献身的に捧げる準備ができているにも関わらず、許されないため、自分たちの内に、意志を留め置かなければならない精神的存在たちがいる。

 あるいは、別の表現をするなら、意志霊たちは、犠牲が拒絶されたことで、もし犠牲を捧げることが許されていたなら、生じていた高次の存在たちとの、ある種の結びつきを確立できなかった。

 聖書の中で、カインがアベルに立ち向かう場面は、この「拒絶された犠牲」の意味を幾分強調した形だが、擬人化し、歴史的な象徴となっている。

 意志霊と同様に、カインも、犠牲を神に捧げたかったが、神の喜ぶものとはならず、拒絶された。一方で、アベルの犠牲は、神に受け取られた。

 ここで注目すべき点は、犠牲が拒絶されたことを知ったときのカインの内的な経験である。この出来事に対する最高度の理解へと至るには、通常の生活の中だけで意味を持つ概念を、いま述べているような高次の領域に持ち込むべきではない、という事実をはっきりさせておくことである。

 「犠牲の拒絶」は、(カインの)欠陥や悪行によるもの、とするなら、間違いとなる。高次の領域では、通常の生活において知るような罪や贖いには言及できない。すなわち、犠牲を拒絶した高次の存在たちの観点から見なければならない。言い換えれば、高次の存在たちは、犠牲の受容を差し控えただけでなく、犠牲を譲り渡した。



 従って、上記の反発の気分が、例えば、カインのように、後の時代になって、人類の前に提示されるときは、増幅された表現で提示される。カインの中に見つけられるような全く同じ(反発の)気分を、「太陽」から「月」への移行(変容)期に発展した存在たちの中に見つけることはない。

 犠牲を拒否された存在たちの間に、反発の気分が生じるといっても、カインに比べれば微々たる程度にすぎない。

 信頼できる方法により、この気分に参入するには、太陽紀の講義でも行ったように、自身の魂の中に参入し、自分の魂の中の、どこに、そのような気分を見つけられるか、そして、どのような魂の状態がそのような気分、つまり、犠牲が拒絶された者たちの中に醸し出された気分に気づかせてくれるのか、と問う場合である。

 自分の中にある、上記の(反発の)気分は、すなわち、地上的な人間の生に次第に近づくことになるが、実際、その気分の不確かさや、同時に、苦しみ、もしくは苦痛として、どの魂にも馴染み深いが、この気分に関しては、公開講演「魂の隠れた深み」の中でも取りあげるつもりである。

シュタイナー著書「魂の隠れた深み」
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/430924159X.html

 どの魂にも馴染みがある上記の気分、もしくは態度は、魂の隠れた深みを支配し、恐らく、その気分があまり苦しみを生じさせないときは、表面に向かって現れてくるが、人間はしばしば、この気分の周囲を巡っているだけである。

 高次の意識の中では、人間は、この気分を、そのまま気づくことなく担っている。「ただ憧れを知る者だけが、私の苦しみを知る」という詩人(ゲーテ「ウィルヘルム・マイスター」)の詩を思い起こさせる。

Nur wer die Sehnsucht Kennt,Weiss,was ich leide
 (ただ憧れを知る者だけが、私の苦しみを知るのです)
http://blog.goo.ne.jp/kayachalle55/e/aa1b6cd316b43ea5df3fd47ca738336c
http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/mig.htm

 上記の詩は、漠然としているが執拗な魂の苦痛、同時に苦しみの感情を伴う苦悩をよく捉えている。この詩は、上記の魂の気分が「憧れ」を意味することを表現している。その詩は、魂が何かを熱望し、それに向かって苦闘するだけでなく、人間の魂の中に、絶えず「憧れ」を生む要因として、既にその気分が存在している事実を指摘している。

 「土星紀」と「太陽紀」の進化期において、精神的に生じた出来事の中に(秘儀)参入するならば、現代人は、魂の特別な状態、すなわち、人間の魂が、高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始める際に現れる魂の状態に着目する必要がある。

 以前、太陽紀の講義の中で、「諦め」や「犠牲」の本性を、自身の魂への(秘儀)参入により描くことで明らかにした。「喜んで与えること」或いは「自身の自我を進んで諦めること」とでも呼べるような精神状態へと発展し、その状態から生じるような叡智から、人間が何を達成できるか、を見てきた。

 太古の状態から、進化してきた地球の状況に近づくほど、現代人でもまだ経験できるような魂の状態に似た状態に遭遇するようになるが、魂が地上的な肉体の中に挿入されることで、魂の表面下深くに流れる隠れた魂の領域上に、最上層のように、通常生活の魂全体の営みが横たわる、という事実を明確にする必要がある。

 この隠れた魂の領域がある、という事実に気づかない人がいるだろうか?

 人生は、隠れた魂の領域が存在している、ということを充分に教えてくれるはずである。





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Last updated  2011年04月21日 16時57分21秒
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