シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年05月06日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 では、次のように、まるで自分が体験したかのように想像してみる。

 「犠牲」を捧げられるべき高次の存在たちがいるが、「犠牲」を送り返す。犠牲行為を行おうとした精神的存在たちの中に「憧れ」が生じ、次のように感じる。

「もし、私が犠牲を与えられたら、私の中の最良の犠牲が、捧げた存在たちの中で生きただろう。実際、私自身が、あの存在たちの中に生きていただろう。けれども、私は、あの存在たちにより排除された。私はここにいる、そして、高次の存在たちは向こう側に立っている!」

 しかし、犠牲を拒否された存在たちの中では拒絶された犠牲から生じる「憧れ」が、高次の存在たちに向かって煌めくが、犠牲を拒否された存在たちは、運動霊によって、高次の存在たちに近づけるような地点へと、多くの異なった側面から、変化を与えられる。

 そして、犠牲を拒絶された存在たちを取り巻く、高次の存在たちから受け取る豊かな像(イメージ)により、その存在たちの中に留まる拒絶された「犠牲」(エゴイズム)に、均衡と補償が与えられる。

 以上のように、犠牲を捧げようとした存在たちと、犠牲を拒絶した高次の存在たちとの間に1つの関係が創出される。その新たな関係により、捧げた犠牲が差し返された為に満たされなかった「憧れ」が、あたかも「犠牲」が受け取られたかのように補償される。

 もし、高次の存在たちを象徴的に太陽として視覚化し、そして、犠牲を捧げようとした存在たちを、ある1つの惑星の集合体として視覚化するなら、上述した意味を明確にできる。

 いま、その惑星の存在たちが、犠牲を高次の天体、つまり太陽に捧げることを仮定する。しかし、太陽はその犠牲を差し返し、犠牲は、捧げた存在たちのなかに留まる。これらの存在たちは、その孤独と隔離の中で憧れに満たされ、運動霊が、その惑星を、高次の存在たち、つまり太陽の周りを巡る周回へともたらす。

 運動霊により、犠牲を自身の中に保持する存在たちにとって、高次の存在たちに向けた犠牲の直接的な流出の代わりに、太陽の周りを巡る動きへと、犠牲を間接的にもたらすことで、高次の存在たちとの犠牲の新しい関係が可能になった。



 月紀の講義で、以上のことを非常に正確に記述した。高次の存在たちとの内的な絆を感じられない精神的存在に、外から来る像(イメージ)が代替物として生じる現象を霊視してきた。これら代替物による満足は、そのような精神的な存在が、部分的な満足を獲得していく方法を示している。

 しかし、捧げられるように意図された犠牲が、高次の存在たちの中では、低次の存在たちの中に留まったときに取る形態とは異なる形態を取ったという事実は否定できない。なぜなら、高次の存在たちが、実際に、形態に対する必要条件を意図するからである。

 上記を、イメージ的に想像できる。もし、ある惑星全体が、「太陽」の中に流れ込み、「太陽」が拒絶しなかったら、この惑星には、「太陽」がその惑星の流入を拒絶していたら生じていた条件とは異なる条件が「太陽」として、生じていただろう。

 すなわち、犠牲内容の変容は、起源から犠牲を除外する犠牲の拒絶を通して生じる。

 また次のような精神的現象を考察する。

 喜んで犠牲を捧げようとした存在たちが、真の目的を達成するには、捧げた犠牲が受容されることで、本来、その受容を感じることだったが、拒絶されたので、自身の内に保持せざるを得なくなった。

 もし、上記の存在たちの経験を、自らの魂のなかで、甦らせることができたなら、「宇宙的存在から、ある一部が、自らの本質的な意味により、また偉大な宇宙の目的から、除外された出来事」と呼ぶ現象を経験するはずである。

 上記の現象を、絵画的なイメージで語るなら、犠牲を拒絶された存在たちは、実際、別の場所で目的を達成できた犠牲を自身の内に保持した結果、その犠牲は、宇宙進化の過程から、排除される。

 もし、以上に表現した出来事を、上記のような現象に関して、知性では理解できないので、知性ではなく、感情で把握するなら、普遍的な宇宙の進化プロセスから引き離される、という事実が、どういうことなのかが経験できる。

 犠牲を拒絶した高次の存在たちにとっては、自身から遠ざけた、というだけに過ぎないが、別の存在たち、つまり犠牲を拒絶され、自身の中に留まる存在たちにとっては、宇宙的な起源からの逸脱という刻印を、自身が担う。

 (故郷を失った異邦人のような気持ちか?)



 宇宙における「死」とは、犠牲を拒絶されたために、自身の内に保持せざるを得なかった存在たちの内部で生じた現象に他ならない。

 以上のように、進化の第3段階で見つけた「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶された犠牲が、「死」となる現象へと進んで来た。そして、「死」の真の意味とは、本来の場所に存在せず、本来の場所から排除され、逸脱した状態である、という事実に他ならない。

 人生において「死」が具体的に発生する際にも同じ原則が当てはまる。

 幻想(マーヤー)の物質世界に取り残される死体を見れば、死体になった肉体が、「死」に直面することで、死という自身の唯一の真の意義を、他の高次の自我やアストラル体やエーテル体に付与するが、その肉体だけは、(霊界から)拒絶され、自我や、アストラル体や、エーテル体から引き離され、排除され、物質世界に置き去りにされる物質だけから構成されるのがわかる。

 すなわち、人間の肉体は、高次の存在であるエーテル体や、アストラル体や、自我なしには意味をもたない。



 なぜなら、「死」とは宇宙的な実存、もしくは宇宙的な存在の真の目的から、除外される、という現象だからである。

 (つまり、物質からつくられるエゴイズムは「死」を免れないものとなった。エゴイズムは宇宙には受け入れられないために、人間は、地球紀において、エゴイズムを解消しないといけない。前世のエゴイズムを、来世の自我として持ち越し、解消することが、人生の目的である。

 ちなみに、死後、人生の審判をうける。そこで、エゴイズムを吟味される。エゴイズムが大きいほど、宇宙には受け取られないので、自身で処理しなければならずに、苦悩は大きくなる。つまり地獄にいくことになる。

 これは、人生において他者に対して行ったことが、死後、自分に返ってくる。人生の主観と客観が、死後、逆転し、例えば、人生で、誰かに迷惑をかけたら、死後、宇宙に拒絶されるから、その迷惑が自分にかえってくる。

 簡単な喩えでいうなら、宇宙には清掃屋はなく、地球で処分するしかない。自分で出したゴミは、自分で処理するしかないわけで、前世のゴミは、来世で処分しないといけない。そのための地球である。)

 以上のように、宇宙における第4の要素と呼べる「死」に到達した。もし、純粋な意味において、火が、「犠牲」であるなら、火、もしくは熱が生じる背後には(第1の要素の)「犠牲」が横たわっている。

 地球の周囲に空気(大気)として広がっている背後に、(第2の要素として)「贈与」、もしくは「徳の付与」を霊視できる。

 次に「流れる水」、すなわち「流体」という第3の要素を、精神的な「諦め」もしくは「拒絶」として特徴づけるなら、第4の土(固体)の要素は、「拒絶」を通して、本来の意味から排除された「死」として特徴づけられる。

 もし、土(固体)の要素がなければ、死はなかった。「死」は、具体的な形態において、流体から固体が生じる過程を示す。それはまた、ある意味、精神的な過程をも反映する。

 例えば、池に氷が張る際の、水が固体になる過程を想像する。水から氷への転移が生じるのは、水としての意味を、実際に水に与えている実体を、水から引き離すことによる。この過程の中には、固体になる、つまり、土になる、という精神的な表現がある。

 (水は死んで、氷になる。)

 4大元素の特徴に関して言うなら、実際、氷は土(固体)である。水は、液体の特質をもつからである。自らの目的や意味から分離されることは、「死」と呼ぶべき第4の要素であり、「死」は土という第4の要素の中で自らを開示する。





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Last updated  2011年05月06日 16時52分16秒
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