シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年05月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 地球紀の講義は、当初、幻想(マーヤ)の物質世界の中に幻でない真実があるのか? という問いと、また、その内部には、真実に相応するものがあるのか? という問いから始めた。

 自らの魂のなかへの参入に際して、これまで提示してきた概念を深く考察してみる。

 最初に述べた内容は、今回の講義で取り上げる概念は複雑なものである、ということだった。従って、講義の内容を、知的に受容するのではなく、瞑想すべきである。

 瞑想したときにはじめて、自らの魂により明らかになる。

 「死」の概念、すなわち土(固体、鉱物)に関係する精神的な特徴を取り上げる。その特徴は実に注目すべき側面を示している。人間が人生でみつける「死」以外の他の概念に対しては、人間の周囲に広がるマーヤ(幻想)の物質世界の中には、いかなる真実も発見できず、ただ真実は、根本的に精神的な存在の中にだけ発見できる。

 しかし、いま確認できたことは、マーヤ(幻想)の領域において、自らを「死」として特徴づける精神的存在がある、という事実だった。その存在は、宇宙的目的から分離され、本当は精神的な領域の中に存在すべきものだった。

 つまり、本来の目的や意味から、切り離され、マーヤ(幻想)の中に閉じこめられた。その存在は、本当はマーヤ(幻想)の物質世界にあるべきではなかった。マーヤという広大な幻想の領域全てを通して発見できるものは偽りと錯誤だけである。

 しかし、マーヤの中でも、真実に相応する何か、つまり、真実としての意味づけを行う精神的存在から、切り離された瞬間、切り離されたものが、「破壊」と「死」を被る現象を霊視できる。まさにここに、大いなる真実がある。

 すなわち、 「死は、マーヤ(幻)の世界の中で、唯一、真実として自らを現している。」



 すなわち、 マーヤ(幻)の領域全体を通じて、「死」だけが真実である。

 従って、もし、至る領域に広がる普遍的なマーヤ(幻)の中から、偉大な宇宙の原理へと向かうなら、人智学にとって最重要かつ最適切な帰結とは次のような命題である。

 すなわち、 マーヤ(幻)の世界において、真実として存在するのは「死」だけである。

 上記の命題は、別の面からもアプローチできる。例えば、人間の周囲を取り囲む別の領域に属する存在たちに関して考察する。次のように問うことができる。例えば、鉱物は死ぬのか?

 「鉱物が死ぬ」と言うのは、人智学者にとっては意味がない。なぜなら、「切り取られた爪は死んだ」、と言うのと同じだからである。爪は、爪だけで正当性をもつ存在ではなく、爪は身体の一部であり、爪を切れば、爪は身体から切り離され、身体と共にあった生命から引き離される。

 身体が死ぬのは、人間自身が死ぬときだけである。同じ意味で、人智学からいえば、鉱物は死なない。なぜなら、鉱物は、爪が身体の構成要素であるように、大きな宇宙の構成要素に過ぎないからである。鉱物が破壊されたように見えても、それは爪が身体から切り取られ、切り離されるのと同じように、大いなる宇宙の身体から引き離されているに過ぎない。

 鉱物の破壊は死ではない。なぜなら、鉱物は、鉱物だけで生きる存在ではなく、むしろ、鉱物を1つの構成要素とする大きな身体内に生きているからである。

 もし、ここで植物の本性に関する講義を思い出すなら、植物もまた独立の存在ではない、ということがわかる。植物もまた地球の構成要素だが、鉱物が大きな宇宙の身体の一部であるのと同じ形ではない。

 人智学的な観点から言えば、個々の植物の生命について語ることには意味がなく、むしろ、地球という身体から、植物について語るべきであるが、それは、植物が、地球の身体の一部になっているからである。植物の死に関しては、指の爪を切るのと似ている。

 指の爪が死ぬ、と言うことはできない。植物についても同様である。何故なら、植物は、地球全体に等しい大きな身体に属しているからである。地球は1つの生命体である。地球は春になると眠りにつき、植物という器官を太陽に向けて送り出す。秋には、再び目覚め、植物の種子を、地球内部に受容することで、精神的に植物を地球のなかに取り戻す。

 従って、植物を、個々別々の存在として見るのは無意味である。たとえ個々の植物が枯れても、総体としての地球生命体が死んだわけではない。同様に、髪が白くなっても、人間は死なない。白い髪を、何らかの自然的な方法で、たとえ黒く(有色に)できなくても、人間は死なない。



 動物もまた、人間の死と同じ形で死ぬのではない。なぜなら、個々の動物は真の意味では存在しないからで、動物の自我である集合魂が、超感覚的な世界の内部に存在する。動物の真の本質、すなわち真の存在は、アストラル上において、集合魂として存在する。個々の動物は、その集合魂から濃縮されて現れる。動物が死ぬと、それは集合魂の構成要素として、別の動物に置き換えられる。

 従って、鉱物、植物、動物界において、遭遇する「死」は、見かけ上のもので、「死」の幻想に過ぎない。人間だけが真の意味で死ぬ。それは、人間(の魂)が個別性を発達させ、肉体の中に下降するまで進化しているからである。

 人間は、肉体の中で、地上的な存在性を担うことにより、真実になろうとしている。死に意味があるのは、地上に存在している間の人間だけである。

 上記の意味を把握すると、「人間だけが実際に死を経験できる」といえる。更に言えば、人智学的な探求から学べるように、人間だけが、本当に死を克服できる。死に対する真の勝利が可能なのは、人間だけである。

 なぜなら、他全ての存在たちにとっては、死は見かけ上に過ぎないからで、本当に存在していないからである。もし、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するなら、高次の存在たちも、人間的な意味において、死を知らない、ということがわかる。






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Last updated  2011年05月12日 09時19分57秒
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