シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年08月01日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 ロンドンオリンピックをみていて、現代のオリンピックの唯物化、物質主義、商業主義化が著しいことに改めて気付かされる。

 金メダルが欲しいとばかりに、商業主義に走るのは、かえって精神の腐敗や堕落を招くだけだろう。

 「オリンピックは参加することに意義がある」というのは、私の単なる思い違いなのだろうか?

 柔道をみていると、金メダルでないと価値がないといわんばかりの発言に少々嫌気を覚える。本来の柔道は、精神性を重んじるものではなかったのか? 

 「4年間、金メダルをとるためにやってきた」というような発言から、並大抵ではない苦労はわかるが、それは皆同じわけで、負け惜しみにも聞こえる。負けた後にインタビューに答えなければいけない大変さには同情するが、メダルをとれただけでも、よいではないか。

 私的には、柔道は金メダリストが不祥事を起こした時点で、もはや死んだと思っている。日本の武道の精神からすれば、金メダルを卑しめたということになる。

 米国では金メダリストが多いので、あまり注目もされないそうである。金メダルをとってもそれほど注目されないというのも、スポーツ大国ならではの光景だが、そもそも注目されるためにやるわけではない。

 ましてや勝ってガッツポーズをするなどは、柔道家の精神にあるまじき行為なのではなかったのか?

 「勝って兜の緒を締めよ! 勝敗は時の運で、糾える縄の如しなのだから、思い上がるな!」というのが日本古来からの精神の伝統だろう。



 闘いに勝つだけでいいのなら、人間の代わりに、ヒグマでも代表にすればいい!

 武道というのは、本来は、精神鍛錬にあるのではなかったのか。私的には、立派な負け方というのがあってもよいと思う。負けるが勝ち、ともいうではないか。

 私は、沖正弘著「実践瞑想ヨガ 生活篇」をバイブルのようにしているが、この本の著者は、ヨガを極めると、相手の肉体の硬さや癖や、欠点がみえ、精神などが読み取れるようになるということが書かれている。

 「健全な肉体に健全な精神が宿る。」というのは、古代ローマの詩人から生まれた諺であるが、本当は、古代ギリシア人の次のような叡智が由来である。

 魂が、善きイメージをもてば、その善きイメージから善き肉体が形成されるので、「健全な肉体は健全な精神から形作られる」と、古代ギリシア人は言っていたという。

 だから、善き精神、善きイメージをもつことが先決なのだ!

 シュタイナーの人智学の進化論では、大まかにいって、肉体の進化にあわせて、精神も進化しないと、精神が肉体を制御できなくなり、病気になる。その状態が腫瘍化である。逆に、精神の進化に、肉体がついていけないと、炎症状態になる。だから、肉体と、精神の調和が、健康をもたらすという考え方をとる。 

 これと似たようなことは、先に挙げたヨガの書にも書かれている。

 だから、勝って喜ぶなどは、幼稚な精神の何者でもなかろう。勝負に勝つには、相手の欠点がみえていないと嘘になる。だから、勝って当たり前となるわけで、喜ぶのは偶々勝ったのか、自分を酷使するほど厳しい練習から開放される喜びかのどちらかだろう。

 あるプロ野球監督が、「勝ちに理由なし、負けに理由あり」といったが、集団スポーツなので、そのような不可思議な面もあるだろうが、本当の勝ちとは、勝つ理由があるものだと思う。

 また負けて悔しいのもわかるが、言い訳する前に、勝った相手を認めるべきだろう。



 負けて、自分の欠点を改めて実感することが、なによりも大切だと思う。

 オリンピックが商業主義に走り、もはや勝ち負けでしか捉えられないとするのなら、人間の代わりに、獣を参加させて競うのと同じで、死んだも同然である。

 かつての古代のオリンピックは、哲学の場だったという。オリンピックの舞台では哲学が行われていた。

 いまでは、哲学というと、ディベートか、弁論かと間違われるが、古代ギリシア人の哲学は、全身全霊で、神である愛を表現したものが、哲学だったのである。段々と形骸化して、口先しか使わなくなり、弁論やディベートになり、いまでは頭しか使わないクイズみたいな問答になってしまった。

 代わりに、オリンピックは肉体の披露(疲労?)の場となり、精神と肉体は次第に分離するようになっていき、人間は二極的に分かれていき、益々皮相的な馬鹿になったわけだ!



 哲学が単なる知識の披露という、悪魔が唆してアダムに食べさせた知恵の実に堕落してしまったので、肉体との分離が進み、もはや、生命の樹がみえなくなってしまった。

 生命の樹といえば、マラソンの優勝者に与えられる月桂樹を連想させる。月桂樹は、太陽神アポロンの徴でもあり、キリストが十字架刑に処されたときの茨の冠でもある。

 それは、「高い意識へ推移する前、いばらの冠をかぶっているように辛く痛いという喩えで、実は、その痛みこそが、叡智や愛の気づきへの勝利の道ということ」だという。

 だから、マラソンとは、地球上を走ることだけを意味していない、人生や、輪廻転生のことをも意味しているわけだ!

 また、オリンピックといえば聖火リレーだが、聖火は、神々により与えられた人間の自我のことである。「我はあるものなり」という意識のことだ!

 この自我の意識をどれだけ高め、神々に近づけることができるか、が哲学、つまり本来のオリンピックの目的である。

 だから、勝敗主義の目指すところの金、銀、銅が本来、何を意味するのかは、もはや現代人には理解できないだろう。現代人が失った錬金術の叡智から解き明かさないといけないからだ。

 古代人にとっては、金は太陽で、銀は水星、銅は金星を意味する。更に水銀が加われば、水銀は、月を意味するので、天動説でいうところの、太陽を含む内惑星群を意味する。

 古代では、水星、金星、月は、鉱物(結晶)化に寄与しているといわれていた。鉱物化といえば、見た者を石に変えるというギリシャ神話のメドゥーサを連想する。

 鉱物化と相反するのが、いわゆる生物(生命)化で、天動説でいうところの太陽の外惑星の土星、木星、火星が寄与している。これらは錬金術でいえば、鉛、錫、鉄で、メダルにしても、誰も欲しいと思わないだろう。しかし、生物には必須の金属である。血には鉄が必須である。

 この鉱物化と生物化に均衡をもたらしているのが、天の太陽で、地では金になる。人体でいえば、心臓となる。実際、心臓が進化すれば、金のような輝きを発するという。だから、仏像は金で表現される。

 人体にも当然、7つの惑星があり、それぞれ器官に対応し、その名残が、漢方で表現されている。

 この7つの惑星は、7つのチャクラとして象徴化され、瞑想の基本となっている。

 月を開発すると、人間は月の世界にいけるというが、勿論、宇宙にある月ではない、宇宙にある月は、月の領域の一部にすぎなく、いわゆる黄泉の国のことである。

 死んだら、誰でも黄泉の世界にいけるので、月の金属である水銀の意識は、それほど重宝されたように思えないが、遺伝の象徴とされ、物質と霊魂を調整するのに、古代医術において用いられてきた。

 というよりも、月の意識をもてば死者と会話できるので、迷いの魔の領域に参入することにもなる。

 瞑想により、月の意識を超えると、金星の銅の意識が現れ、銅の意識まで達した瞑想者には、古代オリンピックでは、象徴的に銅のメダルが与えられたのだろう。

 銅の意識を超えると、銀の水星の意識で、仏陀が覚醒した意識とも呼ばれている。仏陀が、水星人と表現されるのは、その意味である。

 そして、金の太陽の意識に達すると、救世主キリストの意識となるわけだ。まさに天国の調和の意識で、精神と物質を調停する存在ともいえる。

 古代オリンピックでは、神殿で、実際に、神界までの瞑想参入が行われていたが、太陽まで参入できた者がいなかったので、銀メダルからはじまったのだろうと思われる。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012年08月01日 17時01分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: