シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年02月25日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回は、日本にその影響をもたらしたサンヘドリンの支店長代理ともいえる信長について、その実像に近いと思われる八切止夫作品集から、戦国時代の日本人の実像を紹介した。

 八切止夫作品集からわかるように、当時の日本人の考え方は、仏教に負うところが大きかったようだ。

 「信長殺しは秀吉か」に記述されているように、例えば、関ヶ原の戦いの東西に分かれる背景に、東の薬師系と西の門徒系に仏教の宗派が分かれていたことが関係するそうである。以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 「三河で若い頃、儂は一向門徒と戦をしたが、今度もそれと同じくりかえしじゃ」と、武蔵小山で旗上げした家康は、そんな言い方をしたそうだが、全く門徒派と薬師派の戦の様相を呈してきた。

 薬師派の系統は、もともと白山様や八幡様の神徒系なので、源平の昔から、だいたい姓の上の発音で区別されている。

 つまり、アカサナタハマヤラワとオコソトノホモヨロが始めについている。

 家康はこの二つの系統を握るために、アカサのマのつく「松平」とオコソの列のトの「徳川」の両姓を用いていたから、この二列の姓の呼び名を持つ者は、みなこぞって家康側に加担した。<八切・姓の法則>

 文臣派といわれる中でも、<豊鑑>の著者で、その父竹中半兵衛は秀吉の無二の腹心とも云われたし、美濃岩手の城主竹中重門をはじめ、文臣武臣の区別なく、秀吉子飼いの加藤清正、加藤嘉明、田中吉政、山内一豊、中村一栄、有馬豊氏、加賀の前田利長、飛騨の金森長近。甚だしきにいたっては、秀吉の妻の妹婿の浅野長吉から、藤吉郎の頃からの家老だった蜂須賀彦右まで、アカサナタの母音のつく家柄の者は、一人残らず東軍である家康の側にはせ参じた。



 中には、信州の真田のように、長男は宗旨に従って東軍へ、父と次男は万一を慮って、永代回向料を寺へ納めて家名を存続させる為に西軍へと二股かけて分離した者もいたが、殆どの者は従来のゆきがかりよりも、(人間は死んでも何度も生まれ変わって出てくる)という、当時の輪廻の説を誰もが信じていたから、来世を心配し、(死んでからのほうが未知なだけに、やはり不安で気掛かり)とみえて、みな宗派によって、その態度を決めたようである。

 つまり、東方光明を信じている薬師派の者が、もし誤って西軍に加担し、異教徒である一向門徒と共に討死したら西方の極楽浄土とやらに生れ変わって一緒に出てしまう心配がある。もし、そうなったら、東光の者としては、そこでは、にっちもさっちもいかなくなり、<場違い>だから、とても浮かぶ瀬もない。

 もし「場違い」になったら、それこそ「ばちあたり」で、そうなったらば、どんな事があっても現世へは蘇って戻れない。無限地獄の暗黒の裡に、未来永劫さ迷わねばならぬと、この時代は固く信じて疑う者もなかった。

 だから、今の現世でたとえ五万石や十万石増やしてもらったとて、死んでから阿鼻叫喚地獄で苦悶する事を考えると、とても名利の沙汰では宗旨は変えられず、これまでの義理人情や旧恩をすっぱりと棄て、東光宗徒はみな徳川家康についたのである。

 ところが、大坂方は、これまたややこしかった。

 秀頼の母にあたる澱殿は門徒。秀吉の後家殿の北の政所は、これは根っからの正真正銘のお薬師様。だから、西軍であるべき筈の北の政所の寧子殿が、あろう事か、徳川へ味方したとも伝わった。もちろん信心からいって事実であろう。この関ヶ原の役の手柄として、秀吉の後家殿は、新しく一万六千石の褒美を家康から貰っている。

 ☆  ☆  ☆

 このような思想的な背景を知らないと、戦国時代の意味がわからないばかりか、信長暗殺を巡って、当時の人間の心境が、現代のサラリーマンの心境にも通じることがよくわからない。信長が天下統一までに出世できたのも、「信長殺しは秀吉か」に記述されているように、父信秀のお蔭であることもよくわかる。その部分を以下に抜粋し紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 織田一門。つまり弾正忠(だんじょうすけ)から備後守になって死ぬまで、父信秀は四十二歳の生涯に、男十二人、女十一人の子供を残したが、細川昭元に嫁いでいた於犬御前(おいぬごぜ)も最後に亡くなり、今や生き残りは男の有楽一人きりである。

 そのせいなのか、近頃は面と向かって父信秀の事を、「天文二十年(1551)三月三日にそのご生涯を終えられるまで、二十三人もお子様を作られたとは、さてさて大仕事。十八歳ぐらいから次々を年児で拵えられた勘定ゆえ、さだめし人並み優れた女ご好きの方でござりましたろうな」などと、からかい気味に、兄信長の死後は、いらぬ詮索をする者もいる。



 だが、父信秀の女嫌いは本当である。

 織田家といっても、信秀の生れた家は尾張の守護代斯波の奉行職織田本家のまた分家で、尾張八郡のうちの一郡の四分の一ぐらいな所領しかない勝幡(しょうはた)の城だった。

 今の前田利家の伯父与十郎が尾張海東郡荒子城で三千貫の身代だった頃、父信秀は、その十分の一もない身上だったらしい。

 大きな領主なら、首名(おとな)衆と呼ばれる重役どもに任せて、己れは印判(かおう)だけ捺していればすみもしようが、父のような中小勢力では、戦をするにも自分が真っ先に槍をふるい、駒かけて先頭に立って奮闘するしか途はない。そして、身辺を固めてくれる者も同族だけである。

 ところが、一門、親族といった同族は、少しでも勢力を伸ばしてくると、やっかむのか、えてして協力はあまりしなくなる。



 大領主なら、それ相応の隣国の大名からでも嫁取り・婿取りをして、その里方と協力しあって国境を守り、他国へ攻め込めもするが、父信秀のような小城主では、そんな大層な所からなど嫁のきてがない。

 といって、釣り合いのとれた所から妻を迎えてしまっては、それ相応の合力が得られるだけで、あまり先行きの発展も望めない。そこで父信秀は正妻を決めずに、たとえ二百でも三百でも兵力の集められる国内の土豪を探し、片っ端からその娘や妹を借り、己が子を産ませるようにした。

 自分の娘や妹が信秀の子を作り、「お腹様」になっては、その親や兄達はどうしても織田の同族となって一緒に頑張って戦わざるを得ないから、見る間に父信秀の勢力は拡張されていった。

 前田与十郎も、娘が女児を産んで合力し、青山与三も娘が二郎(後の三郎五郎)をもうけたから味方し、平手中務(なかつかさ)は、末の娘が三郎(後の信長)を作ったから、これも仕方なく同族になった。

 林新五郎兄弟みたいに、己れらの姉が嫁入った土田久安の娘が産んだ四郎(後の信行)を立てようと、謀叛しかけた者もいたが、これらの新しい同族を作ったおかげで、父信秀はついに尾張八郡の名主にまで成り上がれたのである。

 とはいえ、好きな女、綺麗な女を選んだのではなく、ただ、その父兄の兵力にだけ目をつけ、婚閥を作るために次々と種馬のような苦労をしたのだから、父信秀も並大抵の事ではなかったらしい。

 朝倉浅井勢と宇佐山で戦った時、森乱丸の父三左と共に討死した三人上の兄の織田九郎の母御前などは、有楽はその顔を今でも覚えているが、市江[現在の愛知県海部郡(あまぐん)佐屋町のあたり]の豪族後東の娘で、蜂に刺されたように痘瘡の痕がひどく、鼻のひしゃげた凄い面相で、子供心にも恐かった。

 だが、女たちの器量のよしあしで依怙贔屓(えこひいき)などすると、その親兄弟がうるさいから、父信秀は公平に「一腹一子」という家憲をこさえ、女が身ごもると、その岳父を生れる子の御守役のように扱って家臣の列に加えてしまい、そして次の女を物色したらしい。だから兄弟二十三人、みな異腹である。

 幸い父信秀は色白な偉丈夫で、女に好かれる型だったから、何十人もの女が喜んで、その子を産んだのであろうが、気張って子種を出す方は、そこは腕や脚みたいに思い通りに動くところではないだけに、相当無理をして、さぞ大変だったろうと思われる。

 三河安祥攻めの時、長陣になり月余にわたったから、見かねて近臣が伽ぎの娘をすすめたところ、父信秀は手を振って、「わしは、女ごは好きじゃない」と憮然とした面持ちで泣き面を見せたと伝わっている。

 人は三十人も妻を持った父信秀が、「女嫌い」というとおかしがるが、普通の者なら一人持っても持て余す妻を、それだけ次々と抱えたら厭になるのも、これは当り前であろう。

 その数多い女の中で、一人でも気に入った者がいれば、その産んだ子を跡目にするように、そっと遺言でも書いていたろうが、父信秀は死んだ時、てんで何もしていなかった。つまり生涯、好きな女は一人もいなかったらしい。

 三男の信長が跡目をとったのも、妻の実家の父が近隣に鳴り響いた美濃の斎藤道三で、その財力と兵力がものをいったのである。

 (もし、おりゃが、もっと早う生れおって、当時のことゆえ、駿河の今川の娘でも妻にしていたら、跡目がこちらに廻り、その後の天下の形勢も全く変わっていたろうに‥‥)

 と有楽は、今でも時々そんな空想をする。

 ☆  ☆  ☆

 というように、信秀の一番下の子(信長の弟)の織田有楽を主人公とした、この作品は、信長と自分の違いは、生まれた日の違いでしかないことを本人に告白させている。

 世間に出回る信長のイメージを払拭するために、この作品から、その如何わしい実像に、続けて迫りたい。当時の日本人を知るには、つくられた信長のイメージを払拭することが先決だからでもある。 





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Last updated  2013年02月25日 13時33分13秒
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Re:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
忠武飛龍  さん
九鬼水軍の九鬼氏は、東西に分かれて西側になった嘉隆が、腹を切って、東軍の息子守隆の所領が安堵されました。

九鬼氏は、熊野出身で、転封先の三田市には、熊野神社を勧請してます。

熊野は、阿弥陀如来・薬師如来・千手観音が本地仏で、熊野本宮大社で、一遍上人が、宗教的確信を得て、時宗を開くことになります。

時宗は、蓮如登場までは、一番人気があった浄土教で、「門徒」のように見えますが、少し違います。

続きます。
(2013年02月25日 20時26分20秒)

Re:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
忠武飛龍  さん
日本の浄土教は「排他性」というか「純一性」を求める傾向が強く、最晩年まで法然すら「念仏以外の修行は、成仏の妨げになる」と他の信仰を疑い、純一性を求める傾向が強いです。
それは親鸞さんの浄土真宗になるともっと強くなります。長男の善鸞が、義絶されたのは、善鸞は念仏に専念しながらも他の信仰を融和していた信仰をしていたのが強いです。

法然は最晩年に、四国に島流しにあったのちに「白木の念仏」という「念仏を至上とする他の信仰とも融和的な信仰」を出しますが、その信仰の継承者は長らく「異端」とされてました。

ところが、一遍さんは、念仏・阿弥陀さんを最高とする信仰ながら、お不動さんや観音さんも大事にしてました。四国の不動明王で有名な「岩屋寺」で長らく修行し、高野山にも上ってますし、禅家の大家とも親交はありました。

続きます。
(2013年02月25日 20時33分02秒)

Re:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
忠武飛龍  さん
一遍さんと最晩年の法然さんが、「融和的多神教的念仏」で、通説の法然さんと親鸞さんが「排他的一神教的念仏」と強引に分けれます。

門徒は「排他的一神教的信仰」、薬師光明を「融和的多神教的信仰」と言い得ますが、家康は浄土宗でありながら、先祖は高野聖の末裔の時宗聖であります。家康が尊敬していた祖父の清康が、高野山に葬られてます。

一遍さんは、他宗旨や他の信仰とは融和的というか「念仏さえ唱えていたら好きにしたら」という傾向です。


思うことは、なぜに「融和的多神教的念仏」の一遍さんの宗旨が急速に衰えて、「排他的一神教的念仏」の親鸞さんの門流が、あまりに強くなったってことに、なにかあるのかもしれません。

あと排他的傾向もあった法然が四国から帰ってきたら、融和的な志向に代わり、一遍は熱心な念仏行者ながら、四国出身で四国でも修行・生活をしていた。ってことはなにかあるのかな?と。

何となく思ったことを書きました。

再見! (2013年02月25日 20時43分27秒)

Re[1]:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
5dolphin  さん
どうも忠武飛龍さま

熊野というと、元は神道かもしれませんね。八切止夫氏の調査によると、戦国時代は、仏教と神道は明確に分かれていたそうで、神仏習合は、江戸時代の綱吉の時代に行われたそうで、それは綱吉が済州島出身で、当時貴種とされていた血脈だったので、公武合体の意味もあったようです。現代の日本の風習はほとんど江戸時代にできたもので、当時の幕府が流布したもので、戦国時代の歴史はほとんどが嘘のようです。 (2013年02月26日 08時46分58秒)

Re[1]:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
5dolphin  さん
>法然は最晩年に、四国に島流しにあったのちに「白木の念仏」という「念仏を至上とする他の信仰とも融和的な信仰」を出しますが、その信仰の継承者は長らく「異端」とされてました。

八切止夫氏の調査によると、「白木」は新羅=源氏で、騎馬民族を意味するようです。白は、源氏で、赤は平氏で、海人=海賊を意味します。

戦国時代の人たちが、生まれ変わりを信じ、生まれ変わりを取り次ぐ仲介者の役割を仏教僧がしていたことは、家柄=血筋により宗教が異なって当然ですから、仏教は、いわゆる現代の戸籍管理でもあったというわけです。恐らく、法然は、四国で密教や神道を知ったのでしょう。密教を用いて、神道系の血筋を取り込もうと考えたのでしょう。 (2013年02月26日 08時56分37秒)

Re[1]:ネット情報の活用法 その148(02/25)  
5dolphin  さん
>門徒は「排他的一神教的信仰」、薬師光明を「融和的多神教的信仰」と言い得ますが、家康は浄土宗でありながら、先祖は高野聖の末裔の時宗聖であります。家康が尊敬していた祖父の清康が、高野山に葬られてます。

いま八切止夫氏の家康を読んでいますが、どうやら家康と元康は別人で、徳川家康は2人いたようです。家康は部落の出身で、部落解放を目指したようです。祖父の清康というのは、元康の父の系列かと思います。

>一遍さんは、他宗旨や他の信仰とは融和的というか「念仏さえ唱えていたら好きにしたら」という傾向です。
>
本来、秘儀参入者でなければ坊主ではないので、念仏がどうのこうのというよりも、霊界がみれるかどうかですから、一遍が、そのような能力をもっていたかが重要です。空海は遺した業績から、明らかに能力をもっていたようです。最澄は怪しいです。最澄以降の僧はほとんどが俗物僧でしょう。

>思うことは、なぜに「融和的多神教的念仏」の一遍さんの宗旨が急速に衰えて、「排他的一神教的念仏」の親鸞さんの門流が、あまりに強くなったってことに、なにかあるのかもしれません。

恐らく、仏教勢力が他宗に脅威を感じたのでしょう。戦国時代も、宗教戦争ですから。生まれ変わりを信じていた時代の人々にとっては、宗教の教理は深刻な問題です。現代人でも、マスコミに洗脳されたB層をみればわかります。

>あと排他的傾向もあった法然が四国から帰ってきたら、融和的な志向に代わり、一遍は熱心な念仏行者ながら、四国出身で四国でも修行・生活をしていた。ってことはなにかあるのかな?と。
>

四国には剣山があって、空海さんの遺した行跡があるようですから、恐らく密教を知ったのでしょう。 (2013年02月26日 09時15分34秒)

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