シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月08日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品集から、現代のサムライのイメージがいかに虚構だったかがわかるが、更に、そのイメージを崩すために、続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介するが、それは、かの上杉謙信は、実は女性だった、というものである。

 いまでこそ、表面上は、女性は弱いもの、とされているが、それこそ作られたイメージだったことがわかるからである。

 ☆  ☆  ☆

赤だし謙信

 さて、「謙信は男か」を連載小説とし読売新聞夕刊にかきだしたとき、これは大変だった。
「これが男か、ああアア」といった演歌調に早とちりした方が多かったらしく、「謙信公博覧会開催につき講演にこい」などと地元からいってきて断っている内に、あっという間に謙信ブームになった。

 ところが私の解明していたのは、「吉良上野の伜が上杉家へ養子に入ったところ、赤穂浪士が本所松坂町へ乱入したあおりをくって、十五万石に減封されたので、なんとか会津百万石の頃の半分なり三分の一にでも戻してほしいと、江戸時代に高野山へ祈願をたてる時に想像でかかせた画の、ぶしょう髯のおっさんの謙信」ではなかったのである。

 生前に画工をよんで「後影」とよばれた肖像画をかかせるとき、自分の姿や形はこれを拒み、直系1mもある赤い木盃だけを、「おのが姿を影とみて‥‥」とかかした。それはあまりにも悲しく寂しい人物である。

 十六、七歳から四十二歳までの間は、いくら激戦中でも、毎月十日になると、「腹がやむ」「馬にのれぬ」と停戦し、静かにひきこもってしまった一人の人間である。



 だから、ぴったり毎月十日からはそれにひっかかった。つまり世にいう永承四年九月十日の川中島合戦を、「血ぞめ合戦」と特にいうのも、その血に意味があるからである。

 武田信玄が、やがて謙信が腹痛だ馬からおりたいといいだすだろうと見当をつけ、前半は悪戦したが持ちこたえ、後半においてもり返して勝ったのである。

 その証拠に上杉史料では、(アンネのため甲斐勢に裏をかかれ、せっかく信玄の弟をうちとり、信玄やその長子まで傷つけした大勝を無にされた)とは書きにくいから、この大激戦は「川中島五度戦記」からも削除され、無かったことになっている。これは周知の事実である。

 さて、昔は回虫が多く体内から出る長虫をみて、「生きとる、動いとる」とびっくりした人たちは、それが寄生虫とは思わず、人間を操るエンジンとでも考えたらしい。そこで、「腹の虫がおさまらぬ」とか「虫が好かぬ」から始まって、ついに子供のひきつけを、「小虫」とよび、女性のあれは「大虫」の仕業ときめつけた。そこで福井には今も、婦人病の道の神さまとして官幣小社の大虫神社もある。

 さて大虫とはアンネ、つまり「赤」という連想から、ショウユを紫というごとく、「赤ミソを大虫」といういいかたもある。

 式亭三馬の「浮世床」にも、「おめえんちの雑煮は大虫かい」などとでている。今では、「赤だし」と、そのものずばりに大虫をよぶからして、知らずに呑んでいる男が多いようだ。

 だから、伊勢亀山城主松平忠明のつけていたという当時の日記の「当代記」にも、越後景虎つまり後にいう謙信は「大虫で死んだ」つまり婦人病で死んだのだと明記されている。

 常識で考えても、男が婦人病で死ぬのは変だからと「謙信は男か」を書いたのだが、それがブームになると、「なんで石原祐次郎や石坂浩二の謙信が女なのか」、「よくNHKのテレビをみろ」といった文句がまいこんできて、本当に泣かされてしまった。

 ・・というのは、いつかは自分の誰かにテストされ試されるであろうかと山周理論の考察で心配のあまり、私はくる手紙や葉書に対して、忙しい時は口授筆記にしているが、神経質になって全部返事をだすたてまえをとっていたので、忍術と謙信の二つで、カナエの軽重をとわれてどんどん投書を貰うと、この返事におわれ小説をかいている暇のなくなったのである。

 がこの頃の世の中は慌しく、テレビの放映が終ると、もう上杉謙信のことも忘れられてしまう。だから謙信女人説もこれで消え去ってしまいそうなので、私の打ち明け話をつけ加えておくと、これに気づいたのはスペインへ行き、マドリッドの先のトレドへ行った時、そこのスペイン革命時代に城砦になっていた司書館の中の十五世紀から十六世紀の舟乗りや宣教師の報告書の綴りの中に、「上杉景勝の伯母」として政虎のことが、佐渡金山に関して書かれているのに目がつき、後述するが「政虎=伯母」とは、世に伝えられる上杉謙信は女人ではなかったかと驚き、それからせっせと裏付けをとって調べたところ、明治二十二年からの史学会雑誌が入手できたり、越後長岡の「山本ごい文書」が見つかって、はっきり女人だったと判ったからであるが、そんなことにせっせと骨を折っても誰からも賞められはしない。かえって眉ツバ視され、「彼奴はバカだ」の一言で片づけられるような羽目にもなった。

 つまり賢い人間のやることではないのを、せっせとスペインまで往復してやるごときは「われ愚かなりせば」の一言しかないようである。



 続けて、戦国時代の女は強かったことが、あの武田軍に「家康に過ぎたるもの2つあり、鹿の角に本多平八」といわれた本多忠勝の言にあるので、これまた、八切止夫作品集から抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

戦国ウーマン・リブ

 「江戸時代の司法が女性を避けるような傾向があったのは、これは戦国時代に女武者が陣頭に現れると、勇士とか大将といわれた者は、相手にするのを恥じたものであるから、その名残りで女子供が相手にせずといった心持ちが、江戸の法律にも有ったようである」という説がある。

 それからして戦国時代の女は哀れだったなどと、臆面もなく書く連中が多くて困ったものである。



 なにしろ徳川四天王の一人で、天文十七年(1548)から慶長十五年(1610)まで生きていた、その当時の人間である本多平八郎忠勝は、

 「わしの若い頃は、まだ人手不足で共に戦にでていた戦国の名残りで、武家の女房は、みな、いざという時に顔を強くみせるよう太い描き眉をつける関係上、眉はすり落し、口中も敵を威嚇するため、人間をくらってきたようにおはぐろというもので歯を染めていた。

 もちろん今でも武家の女房は古式を守って眉を落し口を染めているが、近頃は美布や化粧品などが弘まり軟弱化してきたから、昔程かどうか判らん‥‥しかし戦国時代の女武者の働きというは、今どきの男共など足許へもよれぬ程のものがあったのだ」

 という回想談をかき残している。これが徳川中期に見つかり、原文は内閣総理府図書館に保存されているが、明治時代には、「稀有な戦国史料」として活字本にもなっている。非売品だったし数も僅かなので初めにその説を引用させて貰った故三田村鳶魚は見ていなかったらしい模様だが、こんなに両極端に意見が違うと、どちらが真実か迷わざるをえない。

 しかし世のおおかたの女性は、「強かった」といわれるよりは、「哀れであった」と伝えられる方が、被害者意識的でお涙頂戴と思うのか、あまりこれに意見はのべず、今の時代の方が増しなんだろうと満足しているのか、「涙にあけくれした戦国女性」といったのが、どうもよく読まれているらしい。

 もちろん男のひとも、女が強かったなどというのは聞く耳持たぬ、といった風潮が残っているせいなのか、「戦後の女性は強くなった。されど昔の女性は清く美しく、それなりに哀れでありしか」といった感慨のもとに、そうしたでたらめなものに眼をそむけようともしないのである。

 とはいえアメリカ模倣のウーマン・リブの時代では、「はたして昔は弱く悲しく哀れだったのか、どうか」を改めて解明する必要もあるのではなかろうか。

 なにしろ真実というものは一つである。楯の両面みたいに極端に分かれていてはいけないのである。

 さて、「講釈師みてきたような嘘をいい」というが、明治大正の頃の人間の書いたものより、その当時の天文生まれの本多平八郎の方が正しいのではなかろうか。

 三田村鳶魚は江戸の刑法が、女人を避けるような設定の仕方がされているからと、その点から遡って、そうした舞文曲筆をしたものらしいが、江戸の法律の根本をなす処の、「武家法度」の改正から諸政令が一斉に発布されたのは、寛永六年(1629)から十年の間で将軍家光の時に当たる。

 そして、その時代というのは、「寛永通宝の鋳造を下命された鳴海屋平蔵が、ときの老中筆頭の大老職土井甚三郎利勝をさして<春日御局(おんつぼね)ご家老土井大炊頭(おおいのかみ)>と、その鋳銭受け書の公文書にかいているような世の中」なのである。

 この春日局が何故それ程までに権勢をふるっていたかは、後述するが、寛永六年からは恐れ多くも主上も女帝の明正さまであらせられる。だから東西ともに女上位の時代だったのだから、その間に制定公布された法律で女人を敬遠し、なるべく処罰の対象から外したのは、これまた当然なことである。

 なにしろ一口に、江戸時代といっても三百年にわたっているのである。

 元禄期以降からの、「女は三界に家なし」とか「女三従の教え」といった、女権が落ちてしまった男尊時代の考えで、戦国から江戸初期を判断するのは三田村鳶魚の誤りであろう。

 『フロイス日本史』をみても、「城主の夫に金を貸し高利をつけ、支払い不能とみるや己れの家臣をもって、強制執行してその城や領地をとりあげ女城主になる例」も当時は珍しくなかったと、青い目の彼がもの珍しげに、日本における女上位を、他にも例をあげ本国へ報告している程である。フロイスといえばイエズス派の彼の先輩の修道士らが、「上杉謙信」と今日、その死後の戒名で名を伝えられている政虎(まんとら)が、「勇猛なる女城主であったこと」を報告しているのは、私の『魔女拷問』にも紹介しておいたが、それを裏書する当時の舟乗りの書簡も残されている。

 それはスペインのトレドの司書館に1571~80年の報告書として保管されている。日本でも、『豊薩軍記』にでてくる高尾城の十七歳の女城主の勇戦敢闘ぶり。

 『当代記』にある、信州高遠城の祝女の大奮戦記。

 『備中兵乱記』の、常山城主三村高徳の妻の激闘。

 『今川家記』の、引馬城主飯尾豊前の妻が、米ぬかで血止めした大薙刀で敵二十余騎を倒し、傷つきた夫を庇って死んで行った話。

 数えだしたら切りがない位に、板額や巴御前以降でも、女武者の奮闘ぶりは残されている。

 これは白人の女などは、すぐキャアッと叫んで失神するが、ヤマドナデシコは火事などの際にも、男は周章狼狽しきっても、そこは落着き払って重たい物でも、「よいこらしょ」と抱えだして持ち出してしまう例が多いから、かつての彼女らも、夫のため吾が子のため勇ましく戦ったのだろう。

 『アーニーパイル戦記』によれば、オキナワ戦では伊江島の比嘉姉妹は、十八歳と十六歳の少女二人だが火薬箱を抱き、アメリカ軍戦車のキャタピラに飛びこんで玉砕しながら擱坐*(かくざ)させてしまい、「日本の女性は強い」と彼に書かせている。にもかかわらず、「女は哀れだった」というのは男の自己満足なのか、またはそういって欲しい女の甘えなのか、そのどちらかだろう。

*かく‐ざ【擱坐・擱座】
 船が浅瀬に乗りあげること。戦車などがこわれて動けなくなることにもいう。(『EB広辞苑第四版』‥‥影丸)

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 文字数制限を超えるので次回に譲る。





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Last updated  2013年03月08日 10時31分09秒
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