シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの続き。

 ☆  ☆  ☆

 さて、俘囚の裔の原住系の中には武士となっている者が多いから、「暴動、一揆、叛乱」という心配をしたのだろう。それまで知行所に住まうことも、その行ききは自由だったのが、この元禄年間から禁止されてしまったのである。

 やがて、この結果名主とか庄屋が、自分の宰領で年貢を出すようになったからして、武士を軽視しだし、天誅組の吉村寅太郎のような庄屋の伜が、「天皇さまの下に大百姓が揃って政務をとり、武士階級をなしにする時代」を夢みて旗あげするようにもなるのだが、これは後の物語である。

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 というように、生類哀れみの令は、弾圧されていた仏教徒の勢力巻き返しで生まれたようである。現代でいえば、さながら、「鯨を食べるな」の捕鯨禁止と同じものと考えられる。連中は牛肉を売りたいがために、偽善を振りかざしている。その証拠に、牛の生命は無視している。

 連中の言い分は、「牛は沢山いる」というものだが、沢山いればいいのだろうか? それなら、金持ちは沢山カネをもっているので、カネを奪われても文句はいえない論理になる。偽善である。いつの世も、偽善者が悪法をつくるものである。

 また「牛の知能は低い」という理由を持ち出すアホもいるが、それこそアホのいうことだと思うので、そいつの主張どおりに、そいつから抹殺すべきだろう。

 つまり、生類憐みの令は偽善で、偽善が罷り通ると、弱者が割を食うので、やがて英雄待望論が一人歩きして、水戸光圀が水戸黄門になり、ついには討幕思想となった。



 徳川幕府は、出自が神道ということを誤魔化すために仏教徒に扮したが、仏教権力に阿りすぎて、かえって神道系の多くの庶民の不評をかってしまった。それら神道系の庶民が幕府を偶像崇拝しだして、水戸黄門が生まれ、幕府側なのに、水戸家が討幕の中心になっていく。

 歴史を正そうとした御三家の尾張藩は、仏教権力に阿る連中から阻害され、御三家から外されてしまう話が、八切止夫作品集の大岡越前の話として載っているので、抜粋紹介する。

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虚像大岡越前

 たしか『丹下左膳』にも、『大岡政談』というサブタイトルがついていた。そこで大岡越前というのは、自分から聞きこみに、こつこつ歩き廻ったり、危うい目に逢いながらも庶民のために正義の味方となってくれた名奉行、というイメージを今も一般に与えている。

 処が、先年なくなった田村栄太郎の著では、「すべての出版物に弾圧を加えたのは、講談で馴染みの大岡越前であって、一般庶民の歴史常識、知識をまったくゼロにさせ、小説、演劇、講談といった出たらめな作りごとを、さながら史実のようにも誤認させた張本人は彼であって、

 そうした徳川時代の愚民政策は、施政上都合がよいせいか今も続けられ、まったく噴飯ものである嘘八百の芝居や講談に、歴史の方が折り曲げられ合せられている。バカバカしい話だが有知識人と自負する人でも日本では講談常識の範囲でしかなく、それで頭がこりかたまっている。これも大岡のせいだ」と前置きがされてから、

 「どんな書物であっても作者版元の住所実名を、奥書につけ奉行所へ差し出すこと。これまで通りのことは良いが、新説異説を唱える者は厳罰に処せられること。権現さまや徳川家を扱った場合は、直ちに重き刑にあう。やむをえぬ場合は前もって奉行所に伺い出てその差図を受くべく候」と、事前検閲制までとっていたと説明し、

 「大岡越前を名奉行扱いしたのは、その後の出版業者が奉行所のミコをよくしようと、中国ものの翻案で大岡政談を作ったせいだ」としているが、さて、本当はどちらなのかということになってくる。

 大岡越前守に対照されるごとく、やはり劇映画やテレビに引張り出される形の、遠山桜の金四郎こと遠山左衛門尉景元とは、彼の有り方はまったく違うのである。

 勘定方上りだった遠山は、経済取締りをかねたが、その方針は、やはり司法警察だったろうが、大岡の方は徹底した行政警察なのである。



 「武士は主があるを知って、主に主あるを知らず」とする封建時代にあっては、大岡は徳川家の御為だけを考え治安維持に万全を尽せばそれで良かったのだろう。彼の施政方針によって、日本の歴史が判らなくなったり、それが歪められてしまったとしても、それは関知せざる所であったに違いない。

 とはいうものの、町奉行という文字面の観念で、そうした行政方面の辣腕より、もっと庶民的なものをと、今の人は感じたがるらしい。だからして、朱房の十手を腰にさして歩くような大岡の虚像を瞼に描きたいもののようだが、町奉行という職は、町のため住む人の為にと作られたものではなく、江戸時代にあってもそれは取締まるために、おかみが作ったものである。

 だから今日のように、「税金で人件費を払っているから公僕」といった考えで、「大岡さまは江戸の町の守り本尊」と、マンガ式にみてはならない。

 彼が名奉行だった一つは、中国でも秦の始皇帝しかやれなかった焚書を、彼は日本でも堂々とやっていること。

 そして、まだ十八世紀の初頭の1717年(享保二年)に登用されると、すぐ今日の警察国家の形態を考え出した点であろう。



 「泥棒、人さらい、掻払い」といった町民のための司法警察は、「主権在民」などといわなかった江戸時代の事ゆえ、放っておかれたので、日本駄右衛門の白浪五人男の台辞のように、「盗みはすれど、非道はせず」と、大岡越前は泥棒などは非道とはみず大目にみて、行政警察にのみ専心。

 やがて彼は、「前の奥州梁川三万石城主にして、その兄継友の死後、尾張へ戻って御三家六十二万石第七代目名古屋城主となり、それまでの通春」の名を「徳川宗春」とかえた文学青年を、「不都合のかどこれあり候」と閉門にしてしまうと、すぐさま、室鳩巣序文、堀杏庵作となっている『石ガ瀬戦記』の二冊に、尾張宗春自身の名で出された、『温故知要』まで一括没取し、これを江戸表へ送らせ、ことごとく焼いてしまう弾圧ぶりを見事やってのけた。

 何故かというと、これは、徳川の世も七代(八代)吉宗と、ようやくおさまり大磐石の安きに落着いてきた処へもってきて、「三河松平元康が家康さまというが、そちらは長顔で、尾張徳川家始祖義直公のため名古屋城が築かれたとき、実地検分にこられた権現さまは丸顔であらせられた」とか、「三河の家康さま[松平元康のこと]と浜松の家康さまが同一人のわけがない。何故かなれば石ガ瀬と和田山で二度まで対戦しておられる」

 「三河の方はプロの兵だから強かったが、権現さまの方は伊勢の薬売り榊原小平太とか、遠州井伊谷の神官くずれや、渥美半島の木こりの大久保党、駿府の修験者酒井らの寄せ集めの者ゆえ、二度ともあっさり権現さま方は負けてしまわれたのである」

 といった土地の故老たちの懐旧談を、いやしくも権現さまの玄孫にあたる御三家の当主、宗春の手で版木にされ、「徳川家康は二人だった」では、どうも公安上差支えたからであろう。

 そこで御家御安泰のために、その版木は没取され、木はみな灰とし、宗春処分後も、尾張へはそれから代々養子をもって継がせるという、抜本根源策を越前守はたてたのである。

 ついで大岡越前守が名奉行ぶりを発揮したのは、アメリカでFBIが創設されるより、百年も前にそれを日本で始めたことによる。

 大名領、天領と分かれていたその頃の日本は、法律も各国ごとに違っていた。それを越前守は、街道という点と点をつなぐ線上において、全国を一つに結びつけ、これに公儀直轄の探索逮捕の網をはることにした。

 享保二十年(1735)十一月十六日付で、大岡越前守は、街道筋を遊芸物売りで行商して歩く、昔の原住系で大道商いの、「道の者」とよばれていた連中の主だった者を集め、彼らに、「道中で怪しい者を見つけたら捕え、取調べ方を命ずる」

 朱鞘の公刀に十手取縄を渡し、従来の地方警察制の上へ、新しく国家警察を設けたのである。しかし当人らは、十手を腰にさして、「ええ飴だ、飴だよ、金太郎さんの飴だよ」と太鼓を叩いて廻っても売れはしない。

 それに捕物をするのには人手がいるが、飴屋や薬売りでは、その人件費の捻出は不可能である。

 だから街道のやし[香具師]はいつしか縄張りをきめ合って定着し、現地の地方都市が競輪競馬のギャンブルで資金を作り、それが地方警察の建物をたてたり給料を払ったりするみたいに、賭場をひらく事にした。その方が儲かるし、子分を賭場では、「ええ寄ってらっしゃい、お手なぐさみに如何さまで‥‥」と客引きにつかい、御用の節には鉢巻をさせて、「やいやい神妙にしろ」と、くり出すことができ、一石二鳥にうまくゆくからである。

 つまり映画や三文小説では、「二足草鞋の親分」という悪い奴の代名詞みたいにするが、あれは間違いで御用の十手を握るやくざの親分の方こそ、大岡越前守から命ぜられた国家公務員のFBIの子孫なので、いわば正統派なのである。

 天保から幕末にかけて物価高と飢饉で浮浪人がふえ、もぐりのやくざが旅から旅へと渡り歩いたが、あれは半可打ちといわれた者で、「仁義」をきらせ、その生国や親分の名を、まっ先にいわせるのも、筋目正しい大岡越前守さま御免許の渡世人の流れか、もぐりかの鑑別をする必要上、うまれたものなのである。

 さて、幕末文久二年(1862)になって、それまで朱鞘をさし、御上御用をやりながら賭場をしていたやしの親分が、抜刀が横行しだしたのに手をやき、昔ながらの、「神農さま」をまつる高市(たかまち)稼業一筋に戻ってしまうと、もう半可打ちも本可打ちもなくなり、博徒らは血みどろになって縄張りを守り拡張しようと斬り合いにあけくれするようになった。

 天保あたりまでまあ波静かにおさまっていたのは、大岡越前守のFBI制で、博徒が御用聞を兼務していた賜物であったから、明治新政府も、「清水の次郎長に十手取縄」といったように初めはその真似をしたものである。

 つまり俗に名奉行といわれる遠山桜の金四郎のごとき、町民に媚をうるようなげすとは違い、なんでもかでも権力で押しきってしまい、後年の模範ともなっている彼こそ、「能吏」中の能吏、徳川家にとっては他に比肩をみない名奉行であったといえよう。 

 ☆  ☆  ☆

 というように大岡越前は、秘密警察や、やくざの産みの親ということになるので悪党の親玉が実像ということになる。





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Last updated  2013年03月13日 10時04分37秒
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