シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月13日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品集を読むと、過去も現代も、その中身において同じことがわかる。つまり、現代の問題も、煎じ詰めれば、過去にあった出来事に還元できる。

 いまからみれば約300年も続いた江戸時代が、いかにも平穏無事な時代のようにみえるが、それが幻想にすぎないことが、現代の日本の表明上の平和からも明らかである。

 確かに徳川幕府体制は変わらなかったが、討幕の危機は、幕末といわれる時代だけではなかったことが、例えば、八切止夫作品集の島原の乱の話からわかるので、抜粋紹介する。

 八切止夫作品集によれば、島原の乱は、キリスト教とはほとんど無関係な討幕の出来事であったそうである。

 ☆  ☆  ☆

島原の乱は切支丹か

 「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知らず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。同心松田兵右衛門に侍八人相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたてるときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」

 というのが発端で、島原城の松倉勝家の家来と、鉄砲で装備された一揆が衝突し、島原の一衣帯水の天草島では、益田四郎をもりたてた一隊が蜂起し、合計一万二千が唐津の富岡城へ押し寄せた。そこで江戸表から板倉重昌に目付石谷十蔵をそえた征討軍が送られてきた。

 しかし一揆は、島原半島の端にある原城へたてこもってしまい、その数も二万を越し、寛永十五年[1638]正月元旦の二度目の総攻撃で、板倉重昌は銃弾に当って即死[というのは表向きの発表で、一揆側の落とした大石に潰されて即死という記録も残っている]。当日だけでも討手の損害は、討死手負い四千余名、城の一揆方は九十人と、『徳川実紀』にでている。



 もし、そんな事をしたら、ニコラスだけでなくライプ号の乗組員一同、みな故国へ戻ればその教会から破門されてしまうは眼にみえている。

 現在と違い宗門の権勢の強かった中世では、キングと名のつく人でさえ、破門とか脅かされれば雪中で一晩中憐れみを乞うて侘立していなければならなかったというから、ニコラス以下もし如何に利をもって誘われたにしろ、異邦人の国へきていて、徳川家の為に、もし島原城に天帝の旗がはためいていたものなら、半月もの間に亘って連日これを砲撃などするわけはなかろうと想われる。

 しかし日本史では、益田四郎時貞が、天草四郎と名のって信徒を集め、賛美歌を高らかに斉唱しつつ抗戦したというのだから、てんで辻つまが合わんのである。

 それにいくら徹底抗戦といっても限度があるし、攻める側にしろ殺人鬼でもない限り、同胞なのだから女子供まで殺掠すべき筈はなかろうと思うのだが、この島原の乱にあっては前もって降参して裏切りをしていたとされる山田右衛作一人の他は、嬰児まで皆殺しにしている。

 もちろん日本史では、彼ら篭城者は自分から殉難の道を選び、一人と雖も降人する者はなく、みなみずからの命を絶ったといわれている。

 しかし百人や千人ではない三万人からの人間がいたのである。

 人間は十人いれば十色という。どうして三万からの人間が各個撃破の落城時において、みな同じように揃って自決という単一行動がとれたものか、疑わしいと思うのは、それは僻みだろうか。

 玉砕と伝えられた激戦地でも、サイパンや沖縄でも、死のうとして死ねずに助かってしまい生き延びるのを余儀なくされた多くの人がいた。それを思うと手榴弾のように叩きつけたら、即死できる可能性のものを渡されていなかった筈の何万かの老若男女が、自分らから一人残らず潔く死についたという記録には信じがたいものがある。

 つまりこれは、みな死んでいたとは、‥‥命令で皆殺しにされたものとして思えない。

 本来ならばこうした叛乱事件は最終的には殺してしまうものでも、初めは生存者はみな押さえ、背後関係とか色々よく調査をし、そしてそれから処分するのが常道である。なのに何故か、初めから皆殺しというのは、一人でも生かしておいては、何かそれらの口から洩れては困ることが攻撃側の体制軍にあったのではあるまいか。

 さて、事件勃発に遡って、この島原の乱で見逃され、そして誤られている点が二つある。



 信長の存世中はマカオ・堺間に年一回の定期航路があったが、彼の爆死後イエズス派が追われる形で、フランシスコ派がそれに代りつつあったから、秀吉の代には口の津がその港であった。これは『フロイス日本史』などにも、「口の津発」とでてくる地名である。そして、そこの津にあったのが原の城で、そこは輸入硝石の集積所だったのである。

 だからして其処を押さえた一揆方は、緒戦から火器を多く揃えて、現地の侍の討伐隊を手もなく追い払い撃退していた。

 つまり彼らが強かったのは、熱狂的な宗教心の為ではなく、火薬庫を押さえていたせいなのである。

 次に、口の津は、当時の外人の溜り場だったから、そこにはフランシスコ派にしろイエズス派にしろ、必ずや青い目の宣教師やその他の南蛮人がいた筈である。

 だったら彼らは、天草四郎時貞といった少年を担ぎ出すより、その異邦人達をこそ主将として、「キリシタン一揆」ならば立てるべきだったろう。その方が篭城している者の士気を鼓舞したろうし、また、日本人より外人の方が、「神の御名は讃えんかな」と扇動するにしても効果的だった筈である。なのに一揆はそれをしていない。何故だろうか。



 しかし、おかしなことにその絵旗は、イエズス派やフランシスコ派というったカトリックの物ではなく、プロテスタントつまり新教の、「カルヴィン派」の、それは旗なのである。

 カトリックが種をまいた地方で、神の御教えを守って彼らが殉教のために、三万余が玉砕したものなら話も通じるが、プロテスタントの旗をたてて戦ったというのでは辻つまが合わない。例えていえば、「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の旗をたてて、本願寺派の門徒が戦をしたようなものだから、てんで変てこなのである。

 だからして日本の、「長崎二十六聖人処刑」というのは有名で、海外でも取上げられているのに、その千倍以上も殉死したことになっている島原一揆が、まったく無視されているというのも、その理由はこれである。

 もし伝えられているようなキリシタン一揆なら、せめて、「十字架を首にかけ捧げもっていた事になっている天草四郎」一人だけにでも、ヴァチカン法王方より、「聖人(セイント)」の称号ぐらいは出されてもよい筈なのに、放っておかれているのは、やはり理屈に合わず殉教とは認め難いからであろう。

 これは宗教問題であるから、日本史よりもローマ法王庁の見解に従えば、「島原の乱はキリシタン一揆ではない事になる」のである。

 だから、その当時も、キリスト教国オランダのニコラス・クーケバッケル艦長は、ライプ号に砲弾をあるだけ積んで、平戸から島原を攻撃しにゆき、二週間にわたって撃ちまくっている。

 もしキリスト教徒が異教徒の迫害に対し、レジスタンスをしていたものなら、クーケルバッケル艦長は、一揆の応援をして徳川勢へ弾丸を飛ばさなければ、本国へ帰ってから教会より破門をうけて、「悪魔に味方したサバトの一味」として処刑されたろうことは間違いない。

 またライプ号の乗組員一同も、一揆の連中がデウスの御為に戦っているものなら、それを半月も腰を落ち着けドカパン撃っていられたろうか。

 つまりこの真相たるや、「一揆側は、口の津へ乱入して、その当時は硝石の輸入業者をかねていた青い目の宣教師を、みな殺しにして火薬庫を奪取した」のに起因していまいか。だからこそ、その仇討ちに、ライプ号も攻撃側に協力したのだろう。

 しかしである。徳川方では、こうした騒動が各地に波及しては困るから、局地解決をして他へ伝播しないように、後に切支丹くずれも加入しにいっているのに眼をつけ、これを一緒くたにして、「キリシタン一揆」としてしまい、その裏づけのため、クーケルバッケルから借りた
聖旗を、山田右衛門作に、模写させたのだろうが、その際、「キリスト教に新教と旧教の別のあること」まで、さすがの智慧伊豆も気づかず、オランダのカルヴィン派のものを今に残してしまったのだろう。

 さて松平伊豆守が、なぜ、そのような窮余の手をうち、『島原文書』として残されている当時の公文書に、みなキリスト教徒の叛乱のような扱いをさせねばならなかったかというと、それにはそれなりの理由がある。

 表面は紫下賜事件だが、その実は櫛笥(くしげ)中将の姫を寵愛なさり、御子を設けられたのが、徳川秀忠の娘和子の悋気にふれ、退位を余儀なくされていた後水尾上皇に、そのとき、「討幕の院宣を出される」という動きがあったからである。

 もちろん徳川家は素早く数万の兵を京へ送り込み、用心して御所を取り囲んだ。この時、それら兵の慰安所として、それまで大角にあった廓が丹波口へ拡張されて移転。奈良本辻や大坂ひょうたん町の遊里からも女をよびよせ、でき上がったのが、今でも、「島原」とよばれる廓のあった地である。

 さて、伊豆守の手腕により、島原騒動は局地的解決でかたがつき、上皇の院宣はとうとう出ずじまいで済んだ。

 しかしそのうちに上皇と櫛笥中将の姫の間に誕生された良仁(よしひと)親王が、やがて後西天皇さまになられた。

 さて、その頃、中将の末姫(見[貝?]姫)が仙台へ売られてゆき、そこで生んだ巳之助が成人し、「伊達綱宗」となっていたので、伝奏園地中納言をもって、帝は討幕の策をめぐらさ
れた。

 しかしそれも事前に洩れてしまい、「綱宗は二十二歳で若隠居を命ぜられ」やがて、帝も、そのとき十歳の霊元天皇さまに御即位となるのである。

 しかし綱宗の志をつぎ原田会らは討幕に志すが、伊達家の佐幕派伊達安芸に訴えられ、「寛文十年事件となって、原田甲斐の伜や孫まで斬刑、母は餓死」という悲惨な結末をみるが、俗に、「伊達騒動は、島原一揆の後日譚」といわれる謎も、このことによるとみるのは誤りであろうか。

 が、そうなると徳川家の立場では、島原の古城へ立て篭った輩は反体制の暴徒にすぎなかろうが、日本全体からみれば、彼らはかつて金剛や千早の天嶮によって後醍醐帝の御為に旗上げした楠木一族となんら変りがないことになる。

 なのに皆殺しにされてしまって、もはや証拠がないからとはいえ、「切支丹一揆」といった扱いだけで葬り去られてしまうのは、余りにも哀れではなかろうか。

 歴史というものは、その時の権力者によって、如何ようにもなるものだとはいいながら、島原で殺された三万の同胞が、時の天朝さまの御為に散華していったものなら、合掌してその冥福を心から祈らずにはいられないのである。 

 ☆  ☆  ☆

 八切止夫作品集によると、島原の乱が起こる前に、ときの朝廷が、家光に、朝廷の取り分を増やすことを嘆願し、家光があっさりと許可したのを、幕閣連中が問題視し、朝廷側を無視し続けたところ、島原の乱が起こり、あわてて鎮圧すると、今度は、家光を密室に閉じ込め、捨て殺しにしたという。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年03月13日 10時53分11秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: