シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの続き

 ☆  ☆  ☆

 火消しの連中にしてみれば、父親の小吉の時から厄介になっているので、海舟が借金を背負って男を下げては可哀相だと、「他の家など皆ぶち壊しても、勝先生に頼まれた所は守ってやろう」となったわけである。

 当時の消火とは酷いもので、一軒を守る為には周囲の他の家をみなぶち壊してしまう破壊消防なのである。

 そんなわけで他の組へも「・・・ここと、ここの屋敷はよろしゅう願います」と、伝達をつけて依頼を出した。

 用心に用心して手を打ったのだろうが、浅草新門の「お」組にも回状はまわった。所が、まずい事に、新門辰五郎の娘が当時、徳川慶喜の気に入りの側室だった。だから寝物語にでも、その話しは筒抜けに慶喜の耳へそのまま入ったらしい。

 なにしろ慶喜の立場からでは、全く怪しからん話しであるから、唾を吐き出すように「鳥羽伏見の合戦の前に、硝石の事を幕臣なら告げに来るべきなのに、彼奴は頬かむりしくさって、まるで野良犬のごとく薩長の奴らと仲良おしくさって・・・又も己の私利私欲のみにこだわって、火消し共まで動員させようとは呆れかえった奴だ」と罵った。

 この硝石の事は、日本史では隠されているので詳細を記しておく。日本史に島原の乱がある。

 カトリックといえば、天草における叛乱も後水尾帝の院宣による勤皇の一揆であって、それを日本史では切支丹の宗教一揆とするのは間違いである。



 真相は、「フロイス日本史」にあるように、原城はイエズス派の本拠地であった。戦国時代から彼らは日本に来ていたが、布教費用調達の為日本では一粒も産出せぬ火薬の原料の硝石を持ってきていて、横文字の教義も読めず説教を聞いても何も判らぬ者達が、硝石欲しさにドリチェナキリシタンとだけ唱え、それが切支丹大名と呼ばれていた。

 さて口の津は、硝石と交換にイエズス派が入手していた彼らの治外法権の場所。だから一揆は硝石入手のため襲撃して、口の津の原の古城の倉庫番の白人やその奴隷を殺したので、オランダのカピタンは神の名において仕返しをするため協力したいとなった。この話しの裏書きは、「山田右衛門なる画師一人のみが投降して助命されたが、その者が城内で見てきた旗というのを描かせた」とする証拠が・・・・誠に可笑しな話しだが、カトリックとプロテスタントの二種の旗が混じっているからである。

 ヨーロッパでは共に天を戴かざる仇敵どうしとして、互いに国をあげて殺戮しあっていたのが、いくら東洋の九州の片隅であれ、双方の旗を立てて、両者が力を合わせて抗戦することなど有り得ないし、又今日伝わるように、三万七千から五万にも及ぶ女子供までが「主のおんため」にとみんな死んだものならば、世界中他に例のない話しゆえローマ法王庁の記録にも残っているべきなのにぜんぜんその記載が見つからぬ事実、島原の乱に関しては一行も出ていない不可思議さも、これなら謎解き出来る。

 つまり松平伊豆守が、局地解決として他へ叛乱を波及させぬよう、一部だけの者に限られる切支丹を巧く利用し、政治的発表をなしたのだろう。五万からの女子供を一人残らず虐殺したのも、殉教の為でなく、口封じ政策の犠牲と見るべきだろう。

 後の鎖国も、なにも切支丹伴天連の魔法を恐れたのではない。幕末の長州奇兵隊が、(木こりや百姓でも鉄砲と硝石さえ持たせれば、結構みな一ちょう前の兵士に使える)となったように、硝石さえ入手したら女子供でも銃は扱えて強敵になるからと、徳川家だけが硝石を独占して一手に輸入し、他の大名に渡らぬようにした政策である。いわゆる「抜け荷買い」つまり密貿易も、テレビや小説みたいに、絹や珊瑚を買い求めるのへの取締ではない。

 鉱石として日本では一片も産出されない硝石を、他の大名が入手しては叛乱するので用心の為の治安維持法なのである。つまり幕末になって長州や薩摩が下関や鹿児島を焼け野原にされたものの、上海やフランスから新硝石を仕入れるまでは徳川三百年の泰平は保てたのである。

 勝海舟は初めから、長崎出島輸入の火薬の硝石は古くて湿気をもっていて使い物にならぬと、徳丸ガ原の実験を見て知っていた。だから、「そうかい下関や鹿児島でも、南蛮船の弾丸が当たれば皆爆発するのに、此方から撃つやつは火薬の硝石が駄目で、十発に一発ぐらいしか音もたてずかえ、そいつはいけないねぇ」と、合点。



 これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞になるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。しかし慶喜は虫が好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。

 慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の状態で、「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用をなしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って城外へ脱出し、沖の軍艦で逃げてしまったのである。

 つまり政治的発表の<恭順謹慎>の実体はこれである。



 だから海舟も忌み嫌って、慶喜をその後三十年も静岡住まいさせ東京に戻さなかったのである。さて、世の中で何が一番儲かるかといって、破産会社の管財人くらい儲かるものはない。腐っても鯛というが、徳川六百万石の後始末というか、その管財人にまんまとなっていたのが、これまた勝海舟その人である。

 何しろ非常に土地に対する目が肥えていたのか、それとも地租を自分で決めていたせいか彼の財産は全部土地で儲けたものである。だから儲かって仕方が無く金をばらまき、貧困に虐げられていた旧幕臣にはすこぶる人気があった。だが初手から慶喜は勝を全然信用しなかった。

 「官軍が入ってきて、勝の家を荒らした」という話を聞いても、「打ち合わせずみの芝居ゆえ、勝は大方妹のお順の所へでも行っていたんだろう」とせせら笑っていたと言うし、そんなわけで、徳川家管理財産支配人の勝だが、慶喜は自分の財産は管理させなかった。

 別にして管理させたのが渋沢栄一で、後に渋沢財閥として発展した。ところが勝も死ぬ時にはやはり後ろめたい思いに駆られたのか、自分の長男の小鹿(ころく)の娘に徳川慶喜の十一番目の息子を婿にとっている。

 そして徳川家から預かった金は、そっくり何十万両でありましたと言って帳簿と付け合わせで返金している。



 しかし幕末と明治三十年との間では、一文銭が一厘となって十枚で一銭に貨幣価値も変わり、物価は二十倍から三十倍になっている。

 なのにその間に勝手気儘に運用して、三十年前の金額を返して済ませたのが、はたして美談と言えるだろうか。

 勝の運用預り金に比べて十分の一以下と云われる慶喜の管財人の渋沢栄一の方が、一大財閥になれたのに海舟は<氷川情話>その他の本しか残していない。

 ☆  ☆  ☆

 というように、英雄なんてものは、つくられた幻想にすぎないわけである。噂でも、勝の子孫があれでは、勝海舟も俗物以下の存在といえる。しかし情けないね。日本史を教えられないわけだね。とにかく、歴史上の人物の偶像崇拝をやめないといけない。





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Last updated  2013年03月29日 09時03分14秒
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