シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月29日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの続き。

 ☆  ☆  ☆

 (信長も堺とマカオ間に火薬輸入のため、航路をもっていた)「吾が足利のことを向こうへ知らせ、助力の兵が来ては大変だ」と、この時義満は狼狽しただろう。そして自分が先陣に立って全軍を指揮して一気に落とした。

 九州の南朝方を討伐するときでも自分は行かず、今川貞世を名代に出している。山名一族叛乱の明徳の乱の時も河野通義を派遣して、自分では戦争に行ったことがない義満が、堺まで出かけて指揮を執って攻めたのだから、如何に彼が大陸を恐れていたかが判る。さて、である。

 いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。

 今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していないが、八切史観の一連の著書では、これも詳細に解明されている。

 鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。

 黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。足利氏御用の日銀であり、大蔵省でもあった蜷川家の手で、現在の常識では考えられぬが、次々と送り出されていたらしい。

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「北京の宮廷で夥しい山金の塊りや袋入りの砂金をみて、何処からと聞けば東方の島国からと言う。そこはまだ開発途上国で材質柔らかく、装飾用にしかならぬ黄金の需要など全くなく、鉄や銅のごとき硬質の物のみ求めている黄金で輝く島があり、道にも岩金がゴロゴロしていて、全く無価値と言われる」と言った意味のレポートが出ている。だが日本ではまさかと従来は誇張の如くとられている。



 つまりジャン・パルジャンが教会から盗み出した燭台の如く、それまでのヨーロッパは銀だけが貴金属だった。所が植民地確保の競合に突入すると、白人には銀が似合うが、有色人種は金を好むゆえ各国が競って金を求めて当時ポルトガルのエンリケ航海王によって発見された、海流航海法を利用するため急ぎ大型船建造を始めた。もしヨーロッパで昔から金が貴金属視されていたものなら、錬金術といったまやかしものが堂々と各宮廷に突如として出てくる筈はない。

 王や貴族が何処でも錬金術師を歓待したのは、それまで金を軽視していた証拠である。慌てていたのであろう。それが証拠に大英博物館やロンドン塔、ルーブル美術館へ行っても、ルネッサンス以前の物で金を用いた装飾品やコップの類は少ない。つまり金と銀の評価が現在と中世では、まるっきり違っていたことが判らねばならない。

 そして『東方見聞録』の内容は各国で評判になったらしい。彼らにとって喉から手の出る程欲しい金がゴロゴロしている島国が東方洋上にあるというので、各国で建造した大型帆船を皆東洋向け出帆させた。

 当時魔女狩り旋風の吹き荒れる欧州各国から、一斉に日本向け船が来たのは、何もキリスト教布教の為でなく、黄金の宝島探しのためであった。幕末のペルリの来航が、当時のアメリカの捕鯨船団の給水補給基地に日本を当てるため、黒船を率いて浦賀へ来たように、15~16世紀の南蛮船の来航目的は黄金探しが真相である。当時の日本の国情が詳細に欧州にレポートされ、今も保存されているのも、このおかげである。

 つまり日本からの物を向こうへ渡して儲けていた明国では、黄金の値打ちが判っていて、バーター制で同量の金を運ばせようと、ビタ銭をどんどん鋳造して日本へ送っていたのである。

 つまり縄文期の銅器時代が終わり、武器や農耕機具に銅より硬い鉄が必要なのに日本では鉄の産出が少なく、金だけはごろごろしていたのが中世の日本だったと言えよう。金時計や金歯、金指輪も無かった時代なので、牛若丸を奥州へ連れて行った者も「金はいらんかね、安くしとくよ」と、当時は日本一の消費都市の京へ平泉の有り余っている金のセールスに来ていた<金売り吉次>(きんうり)の名で今では偲ぶだけである。

 金が未だ貨幣でなかった頃。金は叩いて延ばせば広がるが実用的なスキ、クワも出来ぬし、釘や鋸にもならない。京へ持っていっても、金屏風の箔位にしか買ってもらえない。あまり売れないので吉次は牛若丸を営利誘拐したか、甘言で騙して奥州へ連れていったのかもしれない。

 何しろ余り売れないので、平泉では金色堂といった金の延べ板の堂や、箱や壺等作っていたらしい。現在でこそ貨幣が金本位制になり、発行する紙幣に見合うた゜けの量が無いから、インフレ対策に金の延べ棒や板が財産保全にと大切にされている。未だ住民の殆どが穴居生活をしていた当時の奥州でも、装飾品にしかならぬ金は益無き代物ゆえ、堂の壁板や瓶に細工しやすいから使っただけの話し。

 それなのに、現代では勘違いされて、今日的価値判断で見て間違い、金がふんだんに惜しみなく派手に使われているのは、さぞ文化水準が高かったのだろうと「藤原三代の栄華」とか「平泉文化」と帰納してしまう。これはおかしい。

 足利末期の関白一条兼良が、応仁の乱の時避難していた奈良興福寺大乗院の院主は兼良の三男だが「黄金は明国人へ進物にすれば歓ばれると、京の各寺にては鋳物の下人に命じて鋳型にて黄金板を作らしめている」と、今に残る「大乗院寺社雑事記」に書き残されている。

 活字本でも読める。つまり足利末期でさえ金は進物品としか見られていなかったのを尋尊大僧正が自筆で書き残した程ゆえ、その一世紀前の義満やマルコ・ポーロの頃には「こんなもので宜しければ、どんどん持たせます」と、明へ進上していたのも判る。何しろビタ銭に鋳られてくる鉄銭は溶かせば刀や槍にする事もできる。だが足利末期の応仁の乱では、双方共矢種が尽きてしまい、鉄銭で矢じりまで作った。



 つまり儲かる黄金を自発的にどんどん積み出してくるので「テンホウである」と、足利氏の素性が海洋民族であっても一向に構わんと、進攻等しなかっただけと見るべきで、この点義満の対明政策は成功といえよう。

 そして対明用に集結した金の延べ板の余ったので今のプレハブ住宅なみに、応永四年四月一日に北山に金閣寺を作らせ、僅か半月で完成させ、十六日に検分している。しかし対比上、銀の方も建てようとしたものの、材料入手難で計画倒れとなり、八十七年後の足利義政の代になってようやく銀閣寺は完成している。この一例をもってしても、銀は金に比すべくもない貴金属だった明白な証拠といえる。

 金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋むほ程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。

 大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。

 高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。



 当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。

 しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を影で操った黒幕が家康だが、これは八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に詳細)
 次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、日本最初の金貨である天正大判小判なのである。

 だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。

 やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。

 だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。又大阪城の幹部連中も京阪では蜷川の目が光っていて金は価値なしと判っては、集まった浪人共の士気が阻喪するだろうと、遠隔地から集めてきた女達で、大阪城三の曲輪に大慰安所を設けた。落城の際、女が二万人の余も居たと伝わるのは、淀君付きの侍女や腰元だけでなく、慰安婦が一万五千余も居たからである。

 つまり大阪城では浪人共が外部へ出なくてもすむように、城内で酒と女をふんだんに当てがって、これも黄金の力なりと信じ込ませて奮戦させたものらしい。そして、次の国家主権者の徳川家康でさえ、銀本位制の変革はせぬと伏見城内で鋳造させた金の小判は関東へ移し、金を貨幣として通用させるのは箱根の山から東だけと限定した。

 二十世紀の現代でも「一金何円」と、領収書、小切手、約手に書く習慣も、幕末まで天下の権勢によって箱根の関所で東西に分け、以東は金で一両は四分、一分は四朱だが、三島から九州までは銀本位制で何匁が単位だった。

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 字数制限を越えるので次回に譲る。





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Last updated  2013年03月29日 16時23分25秒
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