シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月29日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの続き。

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 足利義満が左大臣になった明徳三年に高麗王朝が李王朝に代わってしまったのは初めに述べた。この知らせに義満は驚いた。「これは大変である。早く国内を統一せねば」あわてて義満は吉野の後亀山帝に戻って頂き、神器を北朝の立てていた御小松帝に授けて貰い、南北両統を合一し己は太政大臣になつた。

 この時に何故義満が国内を急ぎ纏めをして警戒しなければならなかったかと言えば、それなりの訳が在るらしい。かつて大陸で元が建国した後直ぐ文永、弘安の来寇があった。

 その後も押し寄せては来なくても朝鮮に大軍集結の情報が次々ともたらされた。つまり北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。

 今の歴史屋は、何故に元が北条時代に、無謀とも言える無益きわまりない来寇を繰り返したかの理由を明らかにしない。しかし<元史>とも呼ばれる『南宋実録』には、その条にはっきりと「復仇」の二文字が読みとれる。(なにも北条氏が元の国を攻めたわけでもない。それなのに復讐に来寇される訳など無いのである)と歴史屋は全く問題にもしていない。

 しかし日本の四民四姓(源平籐橘)の内でわれらミナモトの民なり、と白山神を仰ぎ尊ぶ白旗を立て「蘇民将来子孫也」の柳幹を腰にぶら下げ、馬に乗って山野を駆けめぐった源氏は、沿海州から北鮮にかけて発祥した元と同じ種族の騎馬民族である。

 つまり「チンギスカンは源の義経」説がでるくらいに、言語習慣も同じであるし、笹りんどうの紋は、沿海州ハバロフスク民族館の入口には民族章として、今でも堂々とレリーフとして飾られている。つまり今日の学校歴史の如く、北条政子が頼朝の妻だったからの理由づけで、北条氏を源氏と見てしまう史観では判らないが、北条は拝火教で源ではなく旧平家だった事さえ判れば、この差異は呑み込める。

 つまり元寇とは、源が北条(平氏)に滅ぼされたのを知り、日本列島も元と同種族の源の国に戻さんとしてのくり返しの来襲であったという明白な事実が判って来るのである。これを今の日本人は全く知らないが、昔の十四世紀の日本人はよく判っていたらしい。「また北条時代のように来寇されては堪らない」と。



 だから大陸人によって無謀にも壱岐対馬を荒らされても(局地的被害は仕方がない)と目をつむり、平静に振る舞って貿易を続行していただけの話しである。だが、義満の外交手腕で明や朝鮮をまんまと騙したが、国内では上手の手から水が漏るの譬通り、案外と抜けたことをしている。

 というのは、火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。

 所が「源」を名のっていても、足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。

 それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。

 (日本史の捉え方として、原住系と外来系との対立、民族間の闘争。そして宗教対立という視点から入れば解明しやすくなります)つまり足利義満が大陸勢力を極端に恐れたのは、元から睨まれる西南系拝火教の末裔という、そうした出自からである。そしてこれが「応永の乱」と呼ばれる大内義弘が堺に拠っての叛乱にも繋がる。

 日本史に隠されているが、渡来した中国人によって早くたてられた吉備王朝の昔から「中国地方」と呼ばれる岡山以西は、中国渡来の文化人が住み着いていた土地ゆえ、山口は京そっくりだと小京都の別名もあるくらいで、その血を引く大内氏は南シナ海のニンポーに出先機関を持っていた。

 (この大内氏というのは「朝鮮百済王聖明の三子の琳聖、東海の周防大内県(吉敷群)に一族と来たり。初めは多々良氏を称す」と、当時では栄誉ある舶来系で、大内氏を称してからも「我が祖の家系について」と朝鮮へ身元確認の親善使をたてたりしている。明国のニンポーは今で言う領事館である。

 その山口には「日本国昔年欽奉、大明国勅賜御印」と但書の付く「日本国王」の印鑑。

 それと「朝鮮国賜印、景泰四年七月造」という銅印を持っていて「祖国朝鮮、明国万歳」とやっていたのが大内氏である。だから長門へ追われて逃げた時も、大陸の血を引く公家さんたちの佐中将二条良豊、持明院権中納言冷泉隆豊らが一緒だった程である。)

 「寧波」の漢字を当てるが、そこから堺まで海流を利用した航路が開かれていて、大内義弘は本国の長州より、海流の便利を考え、南支よりの応援を当て込んで堺で兵を上げたのである。

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Last updated  2013年03月29日 16時20分16秒
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