シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年05月09日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回、西郷について、虚像が一人歩きしている理由を、異端とされる歴史家の八切説や鹿島説から抜粋紹介した。

 歴史は権力者により書き換えられてきたから、通説だけでは片手落ちで、むしろ異端とされる説のなかに、書き換えられた理由をみつけることができる。

 つまり、権力者に都合の悪い話が、異端とされる説のなかに眠っている。

 そこで、西郷とともに有名なのは、坂本龍馬だが、西郷が維新後に薩摩の権力を高めるのに利用されたのと同様に、坂本は土佐の権力を高めるのに利用された。

 とかく信長の本能寺の変と、龍馬の暗殺は、日本史オタクのなかではよく語られる。八切氏の家康黒幕説(実行犯;斉藤利三)は、以前紹介したが、今度は、龍馬暗殺を考えてみたい。

 残念ながら、八切氏は、龍馬暗殺についてはあまり調べていないようだが、坂本龍馬は本名ではなく、本名は、「才谷梅太郎」というようなことを述べているらしい。

 ☆  ☆  ☆

八切式姓の法則
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/seinohousoku.htm

先祖が伝えてきた「蔭性」

 とはいうものの、中には、「姓といっても、幕末でさえ苗字を有していたのは士分(武士)以上の階級で、百姓町人といった一般庶民には無縁ではなかったか? なのに、その姓を先祖に遡って探究するのは、無理ではないか、おかしいのではないだろうか」

 との疑問を持つ人もあるかもしれません。

 しかし、「木枯らし紋次郎」のように放浪して歩く者の他は百姓町人でも家があり住まっていれば、神棚や仏壇のある場合は必ずそこに「蔭姓」というのが祀ってあったもので、「姓」はそれぞれ、いざという際に着用する紋付の紋と同じようにちゃんともっていたものなのです。

 そして、「苗字帯刀御免」というように、町人などが苗字を名乗ることを許されたときなどに、この先祖伝来の「蔭姓」を復活させ公然と名乗ったのが実状です。

例えば、坂本竜馬にしても、これは土佐藩の手がのびるのを惧れての変名であって、本姓は、「才谷梅太郎」でした。しかし、彼の時代には、造り酒屋の商人であって表向きには苗字はなく、その「才谷」いうのも先祖伝来の「蔭姓」であったわけです。

 また、天誅組の吉村寅太郎の場合も,生家は庄屋とはいえ百姓でその、「吉村姓」は先祖伝来の蔭姓で使わずに蔵ってあったものなのです。

 もちろん、先祖伝来の姓のない流れ者とか水呑百姓や日雇をしていた者もいましたが、彼らの場合はみなその生まれ在所を上につけ、もって「何処の誰」と姓にしていたものです。

 さて、土地というのは、幕末までは許可された旅行者、「道の者」と称される旅芸人や流れ職人の他は、限定居住であって、今日のように勝手に何処かに移り住んでもかまわないなどということはなくて、先祖伝来の決まった土地に住んでいなければならないのが決まりでした。

 例えば、百姓などは、その自分の住んでいる土地から離れれば、これは「逃散の罪」に問われて、捕えられれば、討ち首、獄門とまでされていたのです。ですから、大体その土地柄がどこであるかということが判ると、その住んでいる人間の民族別先祖もまたはっきりしていたのです。

 ですから今でも、この姓は何処々々に多いとか、ある地方にかたまっているとされているのも、やはりそれはこの限定地域居住によるからなのです。

 秀吉に取りたてられ淡路島の洲本三万石になり、幕末まで続いた脇坂家の先祖で、賤ヶ岳七本槍の一人とされる脇坂安治にしても、その出身地の小谷東西別所は三千人もが、古来みな同じ脇坂姓だったというのもこのわけであります。

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 では、なぜ、「坂本龍馬」の名が広まったのだろうか。調べてみれば、例えば、以下のようなサイトに遭遇する。

 ☆  ☆  ☆

坂本龍馬
http://www.denkiworld.com/ryoma.htm

 坂本龍馬は明治維新の後、しばらく注目されることがなかったが、1883年に坂崎紫瀾が書いた伝記的小説「汗血千里駒」が、大評判となったことで、一躍その名が知られるようになった。

 その後、日露戦争の時、再び龍馬ブームが起きた。

 1904年、明治天皇の皇后・美子(はるこ)の夢枕に、坂本龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語ったとされる新聞記事が、世間をにぎわせた。

 そして「現代的・龍馬像」を作り上げたのは、なんといっても司馬遼太郎である。

 司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」は、一大龍馬ブームを巻き起こした。

 「行動力」「情報収集力」「人脈形成術」「自由闊達(かったつ)さ」「進取の姿勢」「身分ではなく志の重視」「絶妙な危機管理」など、司馬遼太郎が生み出した「新しい龍馬像」は、「政治家」「経営者」などのリーダーシップの理想像とされ、「歴史雑誌」だけでなく「経済誌」などにも、たびたび取り上げられるようになった。

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 以上のように、「坂本龍馬」という名を広めたのは、坂崎紫瀾に代表される、土佐藩の連中であることがわかる。

 しかし、龍馬暗殺の黒幕説のなかには、土佐藩も挙げられているので、仮に黒幕が土佐藩だとしたら、暗殺した人物を英雄として祀りあげていることになる。当然、土佐藩に疑いの目が行かざるを得ない。

 また、龍馬は、脱藩浪人なので、厳密にいえば、土佐とはつながりが切れているのに、土佐藩の権力強化に使ったわけで、土佐がやっていることはまさしく歴史の書き換えで、洗脳そのものといえる。

 更にいえば、似たような境遇の中岡慎太郎という名が、龍馬に比べてあまり広まっていないことも不思議である。龍馬の名を広めるのに、中岡にはない有利な条件があったはずだ。

 龍馬と中岡の違いは、グラバーや勝海舟-慶喜との接触の違いが第一に挙げられる。中岡は通説では、討幕派で、龍馬は、大政奉還派といわれている。鹿島説では、幕府側の勝-慶喜も、薩長も、南朝建立で思想的に一致をみている。その証拠が例のフルベッキ写真だ。

 思想的に一致してはいるが、利権獲得となると、龍馬と中岡の間には大きな違いが生じる。通説では、龍馬は、幕府側にも加担し、中岡は、あくまで薩長に拘り、それゆえ、龍馬暗殺中岡説も出てくる。

 つまり、幕府と薩長が割れたのは、南朝建立の際の利権獲得である。

 龍馬暗殺後の利権の推移をみれば、薩長が龍馬亡き後の利権を獲得したことは明らかで、その理由から、龍馬暗殺黒幕薩長説が浮上する。

 多くの異端説では、龍馬暗殺の黒幕は、薩長というのが主流である。薩摩なら西郷、長州なら桂である。

 結果的にみれば、龍馬の亀山社中を手に入れた岩崎弥太郎の三菱といえるだろう。弥太郎と後藤象二郎で、やはり土佐藩が非常に怪しい。

 しかも、三菱は、その後、戦時にアヘンを商売にして暴利を貪り、幕府側は、龍馬暗殺後、賊軍へと転落する。勝てば官軍負ければ賊軍である。

 では、なぜ、土佐藩は、自分たちも暗殺に関わった龍馬を英雄に仕立てたのだろうか?

 ここからは推測の域を出ないが恐らく、長州が薩摩を追い落とし、陸軍を掌握するなかで、薩摩が海軍を砦とすることへの対抗手段にしたものと思われる。龍馬暗殺というアキレス腱を、土佐は、薩長揺さぶりのために利用したのではないだろうか?

 つまり、薩長の陰で、土佐が犠牲になっているという負い目を明らかにすることで、土佐の権力強化を図ったのではないかと思う。

 現代でも、野球選手が政権の権力強化に使われるのと同じである。





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Last updated  2013年05月09日 17時04分36秒
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