シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年07月26日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からのつづき。

 ☆  ☆  ☆

 イギリスでヒトラーを育てた「クリブデン・セット」。ホワイトハウスを操る「ラファイエット・パーク」。

 では宿命の「連合艦隊司令長官」役に山本五十六を配した人物は誰か。

 真珠湾攻撃の反対派を押し切るためには人望と実行力がいる。それを兼ね備えている五十六の人となりを知る人物である。1919年のパリ平和会議における日本全権大使一行、すなわち「ヨハンセングループ」の首魁・牧野以下に連なる人物が仲介し、最終決定者は昭和天皇その人である可能性が高い。

 山本五十六が「連合艦隊司令長官」に任命されるのは1939年8月。その翌月9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が勃発する。この時期に「連合艦隊司令長官」に選ばれた者が「真珠湾攻撃」を遂行する。「真珠湾攻撃」は「連合艦隊指令長官」の宿命なのである。

 「ナチスがポーランドに侵攻しただけで何で世界大戦になるの?」

 という素朴な疑問を橋本治が呈している。そういうシナリオなのである。山本五十六は「いつのまにか真珠湾攻撃を口にするようになった」ということになっている。「いつのまにか」ではなく第二次世界開戦の翌年1940年11月に口にしている。開戦は避けられないシナリオなのである。五十六は自分に降りかかった宿命を悟る。

 その翌年1941年1月には極秘裏に昭和天皇と検討に入る。「真珠湾攻撃」を成功させて早期和平を図る。死地に活路を見出すしかない。



 五十六は真珠湾攻撃を大西田瀧次郎と源田実に検討させ、作戦会議に臨んで断言する。「真珠湾攻撃が認められなかったら司令長官を降りる」「本職が連合艦隊司令長官にある限り、真珠湾攻撃は絶対に遂行する」五十六がブラフをかけたと非難されるネタの一つである

 五十六を連合艦隊司令長官に任命した人物は1919年パリ講和会議に出席している。その人物はヨハンセングループの中にいると書いた。ヨハンセングループとは、憲兵隊に付けられた吉田反戦(ヨ-しだ-ハンセン)グループをもじったものであるが、牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎らが本命であって、他のメンバーは目くらましである。

 その中でも本命はこの世に生まれおちた時からアヘン王の掌中にあった吉田茂である。起きた事象を逆照射すると吉田茂が姿を現わす。彼こそがシナリオの主人公なのである。CIAの最高傑作といわれる吉田茂とは何者か。彼はザ・オーダーの隠し玉である。

 (世襲制がなぜに多いのかは、CIAの駒として使うのに都合がいいからだろう。恐らく、いまはアソウに引き継がれているはずである。原発推進はアソウのせいだろう。だからアソウはロスチャのウラン利権とも絡んでいるはずである。キリスト教徒なのがイエズス会とのつながりを暗示させている。アスター=アソウ語呂もにているし。)

 1939年8月30日に連合艦隊司令長官に任命された人物は、1919年ヴィンセント・アスター卿らによって準備され始めたシナリオを演じる宿命にあった。アスター家は奴隷と麻薬貿易でオールドマネーに成り上がったドイツ移民である。アスター卿と吉田茂はザ・オーダーの最終兵器である麻薬で繋がっている。

 真珠湾攻撃のヤラセはまず人事移動から始まる。人事の動きを見ると汚れ役が山本五十六に押し付けられると同時に、舞台から退場したキーパーソンがいる。駐英大使・吉田茂である。吉田はこの時以降現役から退き、戦時内閣とは一切関わらないようにしている。

 吉田は1937年9月3日帰朝命令を受け、11月29日に帰国する。帰国と同時に外務省を退官する決意を固めている。吉田が退官願いを提出するや1938年3月20日付けで、願いにより本官を免ずる」との辞令が出され、戦争が終了するまで浪人生活を続ける。

 浪人中の吉田茂は新橋の芸者通いをしながら、家族ぐるみでグルー米国大使一家と交歓する。その吉田が引っ込んだ5ヵ月後、1939年8月20日付けで山本五十六が連合艦隊司令長官に任命され、その10日後の9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻、即座にチャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。

 1年後の1940年9月に三国同盟が締結され、同時期にナチス・ドイツがロンドン空爆を開始するのである。

 「明治維新」によって確立した体制はトロイの木馬のようなものである。「国体の精華」とはコンプラドールが権力の中枢を把握する体制なのだ。この体制は戦後も不変である。邪魔になる人物は戦死か暗殺か戦犯処刑で始末された。

五十六の暗殺には吉田茂と白洲次郎と海軍主計が関わっている。功を立てた海軍主計は、若手議員となって吉田内閣の予算委員会で原発導入を通過させた。中曽根康弘である。原発利権の主役は中曽根&正力ではなく吉田茂&中曽根康弘なのである。



 白洲次郎は生涯エージェントとして終わったが、吉田茂は第二の伊藤博文になった。伊藤博文はアヘン王サッスーンが派遣したグラバーに魂を売り渡した下忍(インテリジェンス)である。吉田茂も生後10日で吉田健三のもとに養子に出され長じて同じ道を歩む。

 実父の竹内綱も養父の吉田健三もジャーディン・マセソン商会の旨い汁を吸った仲間同士だ。吉田健三は用済みになるや49才で心臓麻痺で急死させられ、茂に60億の遺産を残す。茂は外務次官になるまでにこれを蕩尽したが、『使途は不明』というのが通説とされている。

 (ジャーディマセソン-メーソン-グラバーは、麻薬と武器取引で有名である。才谷梅太郎通名坂本龍馬を通じてグラバーは土佐藩と関係をもったようである。亀山社中を三菱商会にするのに龍馬は邪魔になったのだろう。)

 吉田茂が白洲次郎と違って決定的に有利だったのは、自分のカネをもっていたことである。
ヴィンセント・アスターは「諜報活動には金がかかる」と言っている。吉田茂は潤沢な資金を元手に、独自のコネクションを創って秘密工作を仕掛ける。白洲次郎は独自のコネクションを持つことができないので、吉田茂の右腕となる。吉田茂と白洲次郎には厳然とした違いがある。



 吉田がどこで生まれたか、母はどういう立場の女性だったのか-吉田茂という、これだけの人物にしてなお肝心な点が不明瞭なまま諸説乱れ飛んでいるのが実情である。吉田自身、長じて自らの出自や幼年時代を語ることをあまり好まず、かえって出生にまつわるなんらかの影を負っていたのではないかと後年指摘される素因ともなっている』(工藤美代子『赫ヤクたる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社より)

 『さて、養父・吉田健三についてである。彼は嘉永2年(1849年)5月6日、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として生まれ、親戚の家を継いで吉田姓となった。元治元年(1864年)、15歳の時、大阪に出て医学を修めたが、これからは英学の時代だと思い直し、長崎への留学を決意する。

 そして慶応2年(1866年)には何と密航を企てる。見つかったら死罪だが、長崎から英国の軍艦にうまくもぐりこんだ彼は雑役夫として働かせてもらいながら、上海からシンガポールを経て欧州へと渡った。イギリスには2年滞在。この間に養った語学力がその後の彼の人生を決定付けた。ちょうど帰国した年に明治維新があり、健三は自分の時代が来たことを実感する。

 まず手はじめに川村純義海軍卿(白洲正子の祖父)に食い込み、彼から軍艦二隻の発注を受けた。ジャーディン・マセソン商会を通じて英国に注文を出した。当時、ジャーディン・マセソン商会は極東における最大最強の英国商社である。とりわけ明治維新前後は最盛期に当たり貿易のみならず金融、海運、倉庫、保険、紡績等を世界各地に展開して巨利をあげていた。

 日本では横浜に支店を、長崎、兵庫、大阪、函館には代理店を置いていた。ちなみに長崎の代理店を任されていたのが、長崎名所のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーである。そのうちジャーディン・マセソン商会は無給でなく月給300円(現在の600万円ほど)という破格の待遇をするようになる。

 土佐自由党の竹内綱は、高島炭鉱の経営に関してジャーディン・マセソン商会・長崎支配人のグラバーと手を組んだことから、健三とも急速に親密の度を加えていった。』(北康利『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社より)

 『吉田健三には並々ならぬ蓄財の才があったことが証明されている。商才に加えて、自信と勤勉さが備わっていた。彼は真冬でも午前4時に起きて、家族や使用人を叱咤して仕事を始めた。蓄財を重ねていた吉田健三は、当時の金で実に遺産50万円という大金を養子の茂に残して亡くなった。

 茂が相続した遺産50万円はその割合でみれば、なんと60億円という莫大なものである。ところが茂は昭和初年の次官就任時頃までにはその遺産の大部分を使い尽くしてしまった。』(工藤美代子前掲書より)

 戦後吉田と組んだ昭和天皇は奇しくも言った。

 「戦前戦中戦後を通じて私に矛盾は無い。天皇制も連続している。明治天皇が五箇条の御誓文で、すでに今日の民主主義の基礎を築かれていたからだ」

 目を剥く方もいると思う。私もその一人だったが、しかしそれは思慮が足りないのである。大宰相吉田茂に焦点を合わせ、明治以来の事象を逆照射すると確かに連続している。彼を機軸にシナリオを読み解くと、福島原発事故に至る今日まで連続線が引かれている。

 これを反対に遡れば、田布施村から輩出された連中が引いた始点に繋がっている。その始点はアヘン戦争から始まる。

 「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書「実録アヘン戦争」(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。

 「アヘン戦争」は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この「西からの衝撃」によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」

 この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。

 1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。

 デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。

 ※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年07月26日 15時26分47秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: