シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年08月22日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 唯物論に拘束されている意識を解放するために、続けて、「セスは語る 魂が永遠であるということ」を抜粋紹介する。


 その前に、一言いっておきたい。巷では、原爆に関する漫画の閲覧制限で議論沸騰しているが、著者は実際の被爆者であり、戦争の犠牲者の紛れもない一人で、自らの経験を通じての人類に対する悲痛な叫びであり、警告なのであり、一種の芸術作品といえるものなのである。

 描写云々の話ではなく、漫画を馬鹿にしてもらっては困る。日本人のバイブルみたいなものなのであり、未来永劫語り継ぐべき話である。芸術作品にとやかくいう無神経さ、野暮さ、それも同じ日本人がいうことに、怒りを覚えるが、このような低レベルな議論が起こるほど、この国の教育は退廃していること、唯物論の行き詰まりを実感せざるを得ない。

 それもこれも、作品を唯物論で解釈するから、制限が生まれる。作者が伝えたかったことを理解すること、つまり精神の問題である。被爆者の経験はもう充分だ!という悲痛な叫びを、唯物論でとやかく議論するからおかしくなる。全く低レベルでアホらしい。

 戦争という過酷な状況に追い込まれると、人は鬼に変貌するということ、そのような状況に追い込んではいけないという、心の問題、思いやりの問題である。芸術を鑑賞できない人こそ醜いものはない。

 その前には、アニメ映画での喫煙シーンなどが取り沙汰されたが、芸術作品の鑑賞を制限しようとする心の醜さこそを問題にすべきだ! なぜそのような唯物的な見方がでるのか、その制限しようとする心の狭さこそを議論すべきである。

 さて、続けて抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

第2章

 (第2章から、セスは、自分のことを、「私」から、「私たち」と呼ぶようになったようだ。)

セッション514……1970年2月9日(月曜日)午後9時35分

 さて……私たち(セスの多様的な人格の表現?)は自分たちの存在が、形に依存していないことを承知していますし、望めばどのような形態も選べるわけですから、自らの在り方を変化させることを恐れていないのは、勿論のことです。

 私たちは、貴方がたが「死」と呼ぶものも知りません。私たちの在り方は、数多くの別の環境へと誘(いざな)ってくれますが、私たちはいずれの環境にも(身振りをつけて)うまく溶け込むことができます。自分たちが置かれた環境に、形態を統べる決まりがあれば、それに従います。

 今ここにいる私たちは、皆、教師です。ですから、学び手である人格存在が自らの現実に対して抱く多種多様な考え方を鑑(かんが)みたうえで、それが理解できるように、私たちの教授法もその都度適宜と思われるものに変えていきます。

 既にお話しましたが、意識は形に依存しません‥しかし意識は常に形を作り出そうとします。

 私たちは、貴方がたが知るところの時間枠のなかには存在していません。そこでは、秒、時、年といった単位にはもはや何の意味も魅力もなくなっています。

 しかし私たちは、自分たちが存在する体系とは別の場所では、時間枠に左右される状況が存在することにはよく気づいていますし、かような場所とのコミュニケーションにおいては、時間枠を考慮に入れなければならないことも知っています。さもないと、私たちが言っていることが全く理解されないおそれがあるからです。

 私は「異なる体系」という言い方をしますが、元々体系同士を分ける障壁などは存在していません。体系間に分断が生じるとすれば、それはただ、人格存在の間に、知覚力や知覚情報の処理能力に大きなバラツキがあり、そうさせてしまうのです。

 例えば貴方がたにしても、自分たちの体系とは別の、数多くの現実体系の真っ只中に存在しているのです。ただ、貴方がたがそれを知覚していないだけです。

 そのうえ、もし別の体系から何かが貴方の三次元的な存在に侵入してきても、それを説明することができません。なぜなら、他の現実体系から三次元の現実体系に出現するという事実そのものさえ、貴方がたの手で歪められてしまうからです。



 いまここにある瞬間時に、小さな考えが実を結び、わずかな可能性が探られ、確率も周到に精査され、強い思いも淡い思いも考慮されるのです。「瞬間」について明確な説明を試みるのは困難ですが、私たちの精神的体験は、全てこの「瞬間」の枠内でなされています。

 瞬間時では、連想的なパターンに従って、同時進行的な動きが自由自在に次々と展開していきます.例えば、私が仮に貴方のことを思ったとしましょう、ジョーゼフ。

 するとその途端に、貴方(ジョーゼフ)の過去・現在・未来(貴方がたの見地から言った場合ですが)はもとより、これまでに貴方を支配したことのある、強烈な感情や、決意に錆びついた感情や刺激などを即座に、しかも十二分に体験することになります。

 そして私が望めば貴方と手を携えて、それらを追体験する旅に出かけることもできるのです。私たちはある意織を有する存在について、その在り方なり形態なりの全てを辿ることができます。しかも貴方がたの言う「瞬(またた)く間」に。

 1つの存在がそのように絶え間ない刺激に出会い続けながら、常時自らを安定した状態に保っておく術を学ぶまでには、そこに至るための学びや、進歩や、体験の積み重ねが必要です。



 意識の無限の多様性のなかで、私たちは実在する人格貯蔵庫の全容のうち、ほんのわずかを知っているにすぎません。私たちは「休暇のおりに、非常にシンプルな形で生命体が生息している体系を訪れ、そのなかに溶け込むこともあります。

 私たちはこうした息ぬきや睡眠を、たっぷり堪能しています。そうしようと思えば、樹木として、あるいは別の現実上の単純な生命体として、百年ほど生きることもできるのですから。私たちの意識は、単純かつ些細な楽しみからも、大いなる喜びを見出すのです。

 もうおわかりかと思いますが、私たちは森林を創り、その中で森林とともに成長していくこともできます。しかし平素は極めて活動的で目下、自分たちが手がけている仕事や新たな挑戦に、自らのエネルギーを精一杯集中させるのです。

 私たちは自分自身の観念総体から、望めばいつでも別個の人格存在を創り出すことができます。そうして創られた人格存在には、生得の創造力を用いて、各々の優れた価値に見合った進化を遂げる義務があります。

 しかし、進化に至る道筋は、彼らの自由な選択に任されています。いずれにせよ、私たちは決して軽々しく、この類いの創造を行動に移すことはありません。

 さて……読者の方々一人一人が、それぞれの(存在)の一部であり、私の知る存在と同じ種類の存在に向けて進化しているところです。

 子どもだった頃や、夢見の状態にある時には、個々の人格存在が、ある程度までなら、自らの内なる意識に属する「真の自由」があることに気づいています。従って私が述べる能力とは、個々の人格存在にとっても、それらの全体意識にとっても、元来備わった特質に他ならないのです。

 これまでにもお話してきたように、私たちを取り巻く環境は、絶え間なく変化し続けています。貴方がたを取り巻く環境も、また同様なのです。にもかかわらず、貴方がたは直感的な知覚による真の認識からくる事実に対しても、合理的に説明しようとします。

 例えば、貴方がいる部屋が突然小さく窮屈になったように感じられたとしましょう。しかし、貴方はその次元レベルの変化を気のせいにしてしまい、自らの感情がどうであろうと部屋そのものに何の変化も起きでいない、と考えてしまうのです。

 しかし事実はこうです。かような状況下において、部屋は確実に、しかも非常に肝腎な点で変化している可能性があります。ただし、そうした変化は、物理次元での測定値を変えることなく起こります。その時には、部屋のもつ心理的影響力の全容が変化しているのです。

 そうした変化による影響は本人以外でも感じることができます。こうした変化には、ある特定の出来事を引き寄せる傾向があり、また、貴方がた自身の精神構造やホルモンの分泌に変化をもたらします。

 部屋の寸法には一見なんら変化がないように思われても、貴方がたがこうした部屋の変化に極めて物理的に反応することさえあるのです。

 貴方がたは自らの姿、形や輪郭、身体や、身近な環境の雰囲気を間断なく変化させていながら、そうした不断の変化を懸命に無視しようと努めています。一方、私たちは、そうした変化をその赴(おもむ)くままにさせます。

 それは私たちが、自発性と創造性に富む「内なる永続性」から動機を与えられていること、そして精神的かつ心理的主体性が創造的変化に依存していることを知っているからです。

 よって私たちの環境は極めて精緻な不均衡から成り立っており、自由な変化が許されているのです。貴方がた独自の時間概念では、物質は全体的に不変である、という誤った考えへと貴方がたを導いています。

 そのなかに置かれている貴方がたは、変化が常に継続していることにすっかり目を閉ざした状態なのです。貴方の体の感覚器官は、全身全霊を注いで貴方の知覚を、堅固に形式化した現実(リアリティ)のみに限定させようとします。

 貴方がたは原則として、直感を使うとき、あるいは睡眠中に夢境にある間しか、自らまたは別の意識体の、歓喜に満ちた変幻自在な特質を知覚できません。

 貴方がたに、この点に気づくよう促すのが、私の務めの1つです。その際、少なくともある程度、貴方がたに親しみやすい概念を用いなければなりません。そのために、貴方がたが自身と関連づけできる人格を、私たちの人格のなかから選り抜いて用いているわけです。

 私たちの環境に「最果て」はありません。貴方がたの表現を用いれば、時間や空間に事欠くことはない、ということです。状況に応じて、適切な情報をもたず、進化を遂げていない意識体にとって、そうした事実はかえって多大な重荷になります。


 (例えば、幽霊などがみえてしまうと、どう対処していいかわからないので、日常生活に支障をきたすことなど。このことは、例えば、寝ているときにみた夢を、日常生活に持ち込むことなどに似ている。)

 私たちには逃げ込むことのできる、単純で便利な宇宙など1つもありませんし、自分たちの知る意識から遥かに遠くの、一瞬光を放つような、異なった見知らぬ現実体系についても、いまも油断なく気を配っています。

意識体の多様さは、物理的形態の多様さの比ではありません 。

 それら全てが異なる知覚パターンをもち、それぞれに固有のカムフラージュ体系のなかで暮らしているのです。しかし、全ての意識体は現実(リアリティ)の「内なる叡知」を有しています。

 それがそこでどう呼ばれているのであれ、「内なる叡知」はいずれのカムフラージュ体系にも存在し、あらゆる現実(リアリティ)は「内なる叡知」によって成り立っているのです。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年08月22日 10時46分52秒
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