シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年09月09日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 例えば、自殺者たちは、ある1つの部類と見なされ、彼らのための「懲罰室」が存在するとか、彼らの巡り合わせ(因縁)が先天的に他より劣悪になる、ということはありません。自殺者であろうと、あくまでも一個人として同等に扱われることに変わりないのです。

 ただ、今回の転生で直面できなかった問題に関しては、次の転生において直面することになります。しかし、これはなにも自殺者に限ったことではありません。

 自殺のなかでも、当人が選択した非常に特殊な条件以外の人生(転生)を拒絶したことで、自殺を引き起こす場合があります。かような場合、その人は別の方法で転生を学ばねばなりません。

 しかし、他の多くの自殺者は、物質体系での体験の否定を選び、まだ肉体が息のあるうちに、周囲にかなりの印象を残して人生(転生)を自ら去ります。

 自殺行為に結び付いた状況や、内なる知覚、および個の能力をどれだけ実現できていたか、ということも非常に重要です。

 私がこのようなことを述べるのは、多くの処世哲学が、自殺者は、特殊な、ある種ほとんど懲罰とも言える死後の宿命を負わされる、と教えているためで、それらが断じて正しくないからです。

 しかし、もし自殺行為が、己の意識を永久に消滅させるもの、と信じていた人の場合は、この誤った思い込みが、自殺の罪悪感によって強まるため、当人の進化を大きく妨げてしまう可能性があります。



 その時点で記憶喪失の効果が適用され、自殺行為そのものの記憶はなくなります。そして、あとあと当人が、その事実に直面し、理解がより深まってから、自殺をしたことが告げられるのです。

 しかしこうした状況は「選択」を迎えるためには明らかに障害となります。言うまでもないことですが、地上の関心事や利害関係に捕らわれている状態も同様に障害となります。その場合、しばしば当の人格は、己の知覚力とエネルギーとを物質生活に集中させていたい、と言って譲りません。

 (これは自己の意見に執着すること、自分の思い通りにいかないことに執着することと同じにみえる。)

 これは死という事実の受容を、霊魂のレベルで拒んでいることになります。当人は、貴方がたの言葉を借りれば「死亡した事実」はよく理解しているのですが、霊魂と肉体との分離を完全には受け入れられないのです。

 さて、勿論、当人が、「死亡した事実」を自覚していない場合もあります。これは事実の受容の拒否が問題なのではなく、知覚のなさが問題なのです。かような状況にある人は、やはり地上の関心事に捕われ、恐らくもと居た家やその周囲を困惑したまま彷徨うことになるでしょう。勿論、こうした場合も「選択」は先送りになります。

 従って、死後の変遷の仕組みは、物質的な人生と同じく、極めて多様である、と言うことができます。私が述べてきた障害の数々は、死後だけでなく、物質生活としても進化を妨げるものばかりです。次のことは漏れなく考慮すべきでしょう。

 性別に起因する性格への過度な執着も、進化を遅らせる一因となります。男性、あるいは女性であることが、自己のなかで大きな位置を占めている人は輪廻のサイクルにおいて起こることになる性別交代の事実を、なかなか受け入れられない可能性があります。この種の性別への執着は、同時に物質生活での人格の進化も阻むことになります。

 さて、これまでに掲げてきた問題は、概して障害として作用しますが、例外が存在することも事実です。執着になっていない天国もしくは極楽への信仰は、有効な教材として利用可能です。

 つまり、そうした信仰の当事者が、天国もしくは極楽という教材において示されたものであれば、たとえ新しい解釈であっても往々にして容易に受け入れることから、その精神の基盤となる教材として役に立つことがあるのです。

「最後の審判の日」への信仰も、多くの場合、そうした教材として機能します。貴方がたから見た「懲罰」が下されるようなことは断じてないのですが、その教材により、当事者は、ある種の精神的な検証や評価を行う心の準備ができるのです。

 現実は自分自身が創造するものである、ということが、徹底して理解できている人は、容易に先へ進むことができます。夢見の状態の仕組みを理解し、そこでの精神の展開を学んでいる人も非常に有利です。

悪魔や鬼への信仰は、物質生活でもそうであるように、死後においても極めて有害です 。

体系化された対立概念的な神学論も害に繋がります 。もし貴方が、例えば、全ての善は、悪をもってバランスをとる必要があるなどと信じていたなら、貴方は極めて限定的な現実体系のなかに自分を束縛することになり、その現実は大きな苦悩の種であふれんばかりでしょう。

 そうした体系では、善と同等の悪が続くことになるため、善さえもが疑わしいものと見なされます。善と悪、天使と悪魔、獣と天使の間の大きな隔たり……そのような全ての歪曲は、進化の障害となります。

 貴方がたは自らの現実体系に、著しい対比や対立要素をもたらしていますが、それらは貴方がたの現実のなかで既に基本的な前提として作用しているのです。



 知性はこうも言います、「もし善が存在するのなら、悪も存在するはずである」と。

 なぜなら知性は、物事を見た目よく分類した上で説明をつけたいと思うからです。上昇があるのなら、下降もなくてはならない、というような知性にとっての「釣り合い」が求められるのです。

 しかし「内なる自己(知覚)」は、知性よりも遥かに壮大な見地から、悪とは単なる無知にすぎず、「上」と「下」という言葉は、本来、そのような方向性が意味をもたない空間のようなものに、小手先だけで付与した呼称であることを知っているのです。

 それでも、対立概念への強い信仰は、「内なる統合」「全ては一つであること」「全てにおける相互の繋がりと共存」といった真実の理解を邪魔するので、極めて有害です。

 そうした対立概念への信仰や執着は、恐らく深刻な有害要素である、と言えるでしょう。このことは死後だけでなく、どのような在り方であっても変わりありません。

 なかには、そのような対立概念が融合した調和や統合性といった感覚を、物質生活において、まだ一度も経験しない人もいます。かような場合は、その後の変遷(輪廻転生)のなかで、多くの段階を経る必要があります。大概そうした人々の「行く手」には、幾多の転生が待ち受けていることになります。

 貴方がたは「選択」以降も、自らの物質的現実を、個人レベルでも集合レベルでも自分自身で形づくります。そして全員に開かれた体験のなかから、同じものを共有しようと決めている人たちのなかに加わることになります。

 準備万端が整ったところで、感動的な協力体制の下に冒険が始まります。どのようなタイプの存在を選択するかにより冒険は異なってきます。従って全体的に見た場合は、幾つかのパターンに分かれます。個人レベルの現実は、他者の現実と全く同一ではありませんが、それでも全般的な分類は存在するのです。

 ごく簡潔に言えば「 悪の存在を信じることなしに、善を信ぜよ 」などと申しあげますと、貴方がたには、極めて非現実的に聞こえるかもしれません。しかし、こうした確信をもつことは、物質生活においても、その後においても貴方がたにとっては、一番の防衛手段なのです。

 貴方がたの知性は、この事実に激怒し、肉体の感覚器官は、この事実に反している、と五月蝿く反論するでしょう。しかし、善を確信しながら悪の存在を受け入れない、というのは、実際には極めて現実的なことなのです。

 というのも、こうした確信をもつことにより、物質生活においても健全な肉体を保ち、幾多の恐れや精神的な窮地から解き放たれるからです。なおかつ平穏なる心情と自発性がもたらされ、そうしたなか、貴方がたの能力の進歩が一層順調に実現していくことになるからです。

 また死後においては、悪霊や地獄、もしくは強制的な懲罰への信仰から解放してくれます。貴方がたにとっての現実をありのまま本質的に理解する準備が、より一層整うことになります。この概念が貴方がたの知性に不快感を与えることや、肉体の感覚器官による、この概念の断固とした否定というような憂き目に遭うことはよく承知しております。

 しかし貴方がたは、自らの肉体の感覚が、錯誤を吹聴することが多々あることに、既に気づくべき時期にきています。そして、肉体の感覚器官は、貴方がたが確信し、受け入れる現実を知覚することを、再度、ここで申しあげたいと思います。

 悪魔や鬼を信じていれば、当然、それらを知覚することになります。実際、貴方がたの世界は、自らを解放する試みを未だに遂行していません。

 キリスト教は、この最重要な真実を単純に歪曲した結果から生まれました―私は、既知の組織化されたキリスト教を指して言っているのであり、何も原初のキリスト教だけに言及しているのではありません。

 そうした教えにしても、実を結ぶ機会がほとんど与えられないに等しい状態にあったのです。このことに関しては、後ほど本書でも論じていくつもりです。

 世界を変える試みは、「 自らの現実は自分の確信や信念の本質に忠実に創造されている 」、更に「 ありとあらゆる存在は全て神聖である 」、そして「 ありとあらゆる存在の全てに悪は存在しない 」という貴方がたの根本概念の上に成し遂げられるのです。

 もし、これらの概念が、個人レベルと集合レベルの両方において受け入れられた暁には、貴方がたの肉体の感覚器官のもたらす情報にも、矛盾を見出すことはなくなるでしょう。世界や、ありとあらゆる全ての存在は、善として知覚できるようになるのです。

 この試みはいまだ実行に移されたことがありません。そして、これらの真実こそが、貴方がたが肉体の死を迎えてから学ばねばならないことなのです。死後に、こうした真実を理解するに至った人のなかには、再び物質存在に転生し、こうした真実を明らかにしていく役割を選択する場合もあります。

 このような方法が、何世紀もの間とられてきたのです。物質的現実のなかから生じた可能(確率)性から成る体系にあっても、同じことが言えます。

 貴方がたの体系と全く繋がりをもたない可能(確率)性から成る体系も存在します。それらは、現在の貴方がたには想像すらし得ないほど進化しており、私が述べてきた真実が非常によく浸透しています。

 また、そうした体系では個人が如何にすべきかをよく理解した上で、意図して、しかも創造的に現実を形づくっています。そして、その際には、意識が有する創造力の赴くままに、自在な創造行為が展開されるのです。

 このことを申しあげるのは、死後には、貴方がたの体系とは繋がりのないものも存在する、ということを、ただ指摘したかったからにすぎません。貴方がたが、中間的段階において自分に可能な全てを学び終えた時点で、次に進む準備ができたことになります。

 しかし、中間的段階そのものにも多数の活動次元や体験区域が存在します。おわかりかと思いますが、できるだけ簡潔に述べますと、全員が全員を「認識している」わけではない、のです。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年09月09日 14時22分48秒
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