シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年11月12日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。前回はプラトンが、国家の指導者には賢者がつくべきと考えていることを紹介した。賢者とは端的にいえば先覚者である。先覚者は、神々が何を考え、人類がどう進化すべきかがわかる人のことである。少なくとも、魂を充分知る人物でないと駄目である。では、続ける。

 ☆  ☆  ☆

 「哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う」 (上P452)

 (端的にいえば、唯物論へと下降する方向と、霊的に魂を導き、再び天へと上昇する方向に分かれる。)

 これはプラトンの強く主張したいところであり、腐敗した民主政により師ソクラテスを失った彼が、この『国家』の中で語りたい1つの結論だと思う。この点については、『国家』の後半でも、他の政治体制と比較し、哲人政治がいかに優れているかについて改めて語られている。また後で触れることにしたい。

 では次にプラトンの理想国家で「勇気」という徳がなぜ実現しているか。幼少時代より、国家戦略により適切な体育教育・文芸教育を受けて、魂の気概を磨き、勇敢な精神を身につけて戦う者が軍人として国家を守っているわけだから、当然、その国家は「勇気」ある国家と言ってよいだろう。

 (ここでいう哲学は、従来の哲学ではなく、プラトンの説く哲学は、神々の考えと人類の進化を見通せる叡智のことである。勇気については、悪にも浸透させ得る、悪をも説き伏せるだけの叡智のことである。)

 そして次に「節制」という徳がなぜ実現しているか。そもそも節制って何? プラトンは『国家』で節制を次のように定義している。

 「その人自身の内なる魂には、優れた部分と劣った部分とがあって、優れた本性を持つものが劣ったものを制御している場合には、そのことを『おのれに克つ』と言っているのである。



 (魂の能力のことを語っているのであって、人類全体のことではないことに注意。優れた部分とは、他に与える能力があることを意味する。逆に、劣った部分とは、他から奪うことである。劣った部分が多勢だと、誰にも与えられないことを意味する。だから、仕事をして魂を磨くしかない。)

 節制とはこの引用文における前者の場合、つまり、魂の善き部分が悪しき部分をコントロールしている場合、または善き人間が悪しき人間をコントロールしている場合を、欲望に打ち克っている状態として節制と呼んでいる。

 さて、最後に「正義」という徳について。正義には様々な意味があり定義があるだろうし、『国家』でも様々な角度で論じられているが、その一例として、プラトンは正義を次のように定義している。

 「われわれが先に国家を建設していたとき、いかなる場合にも守られなければならぬ原則として最初に立てたことが、あるいは少なくともそのことの一つの形態が、ぼくの思うには、とりもなおさず<正義>にほかならないようなのだ。

 ではわれわれが原則として立て、その後も何度も繰り返して口にしたことは何であったかといえば、それは、君が憶えているなら、こういうことだったはずだ、すなわち、各人は国における様々の仕事のうちで、その人が生まれついて最も適しているような仕事に、一人が一つずつ行わなければならないということだ」 (上P332)

 「自分の得意な仕事をして他の人の仕事に口を出さないことが正義なのだ」 (上P333)

 要するに、「他人の領域に介入しない」、「自分に与えられた任務に専念する」ことを正義としているようである。市民一人一人が、それぞれの素質に応じた仕事に専念し、身体に恵まれ気概あふれる者が軍人となり、知を愛して正しい判断力を持つ者が統治者となり、そして、その与えられた任を各自がまっとうし、他の任を奪おうとしない状態が維持される国家、これこそまさに正義の国家なのだ。

 (適材適所のことで、自分の魂を開発することに専念すること。)

 つまり、プラトン自身が述べているように、「知恵」、「勇気」、「節制」が実現している国家におのずと「正義」は実現するのである。逆に「正義」が崩れれば〔それぞれの職に適していない者が就けば〕、「知恵〔よき統治者〕」、「勇気〔よき軍人〕」、「節制〔社会のコントロール〕」はすべて実現されないものとなってしまう。このことについて次のように述べている。

 「何らかの金儲けのために仕事をする素質をもつ人が、戦士の中へ入っていこうとしたり、あるいは戦士の素質のある者が、その素質もないのに、政務を取り計らって国を監視・守護する任につこうとしたりして、お互いの仕事道具や地位を取り替えたり、あるいはまた、同じ一人の人間が複数の仕事を兼ねて行おうとするような場合の、こうした交代や入れ替えや余計な手出しは、国家を滅ぼすものである、ということに、君も同意見だろうと思う」 (上P336)

 (人体も同様で、適材適所に各々の才能をもつ細胞が配置されないと病気になる。例えば、神経になる細胞が、他の場所に配置されると、腫瘍化する。)



 ソクラテスの死の反省から、民主政を批判、国家のあり方を根本的に再考しなくてはならないと提議している。『国家』という著書の中で最も彼が言わんとしているテーゼである。

 (このサイトの著者も、前置きで魂論を認めているのに、いつの間にか、唯物論に洗脳されている点で、残念ではある。唯物論に洗脳されているところは省略したり、改訂した。例えば、現代の哲学者に政治などをやらしたら忽ち崩壊するだろう。現代の哲学者は、死んだ物質的資料から学問を語るからである。

 例えば、適材適所を、唯物的に、遺伝と捉えられているが、遺伝というよりカルマであって、自分がついた仕事を通して、与えることができているかどうか、そして与えることが楽しいかどうかで決められるものである。

 だから、教育には素質を見抜く者がつかないといけない。できれば前世が見れる者などである。哲学者というのは、全てにおいて、この素質を見抜く能力がなくてはならない。)

III:個々人はいかに生きるべきか



 まず、人間の魂には「理性」、「気概」、「欲望」の3つの側面があると説く。国家と同じじゃないかと思うかもしれないが、それもそのはず、魂が持つ3つの特質の中で、理性の側面に長けた者が統治者となり、気概あふれるものが軍人となり、それ以外の者は欲望の下に生産活動〔商売〕をしているのだから。

 (理性とは、端的にいって本性を見抜く能力のことである。人間は誰しも、神々の特性を担って生まれてくる。その特性を見抜き、どう生かすか、のノウハウをもつのが賢者である。)

 「われわれの主張では、魂の第1の部分において、人間は物を学び、第2の部分において、気概にかられ、そして第3の部分において、

 〔中略〕

 食べ物や飲み物や性愛その他それに準ずるものに対する欲望の激しさに基づいて、それを欲望的な部分と呼んだのであった」 (下P298)

 国家において、統治者が「知恵」を持ち、軍人が「勇気」を持ち、有徳な支配者により社会がコントロールされ欲望に流されない「節制」が実現されているならば、それは「正義」ある国家と呼べる。

 ということは、一個人においても、多少なりとも魂の中に存在する理性・気概・欲望について、理性を磨き「知恵」を身につけ、気概を磨き「勇気」を身につけ、理性によって欲望をコントロールする「節制」を身につけることができたならば、それは「正しい〔正義〕」人となるはずである。実際には以下のように語られている。

 <知恵ある者と呼べる場合>

 「知恵があると呼ぶのは、その人のなかで支配し、指令を告げる第1の部分によるのであって、この部分もまた、各々の3つの部分にとって、またこの3つの部分からなる自分たち共同体全体にとって、何が利益になるか、ということの知識を、自分の内にもっている」 (上P364)

 <勇気ある者と呼べる場合>

 「その人の気概の部分がさまざまの苦痛と快楽のただ中にあって、恐れてしかるべきものとそうでないものについて理性が告げた指令を守り通す場合のことだ」 (上P364)

 <節制ある者と呼べる場合>

 「支配する部分と支配される二つの部分とが、理性の部分こそが支配すべきであるという意見に一致して、この理性の部分に対して内乱を起こさない場合のことだ」 (上P364)

 ここで言う「知恵」とは、自分にとってだけでなく社会にとっても利益になるものは何かを考える正しい判断力である。「勇気」とは邪念に流されず理性が命じた正しい命令を実行すること。「節制」とは理性が欲望に打ち克っていること。

 これらが魂に備わっている者は「正義」ある人となるのである。こうして、プラトンが理想国家のあり方で論じた四元徳は、一個人においても磨かなくてはならないもの、として主張されている。これはプラトンなりの「魂に配慮した生き方」なのだろう。

 以上は高校倫理の教科書レベルの内容であるが、実際にはさらにプラトンの魂論は続き、『国家』のクライマックスでは、生きているうちにしっかりと正義を貫いた魂だけが死後の世界で得られる報酬について語られている。

 魂を善く磨き、正義に生きた者は、来世、よりよい人生が待っている。一方、魂を磨かずに不正のうちに生き、正しい判断力を持たない者は、来世、過酷な人生が待っている…。

 (よりよい人生とは、端的にいえば、どういう人生が自分の魂を磨き満足させるかがわかる人生のことで、過酷な人生とは、何をしてよいか、どう生きてよいか、全く無知な人生のことといえる。

 重い荷物を背負うことで筋力がつくが、なぜ重い荷物を背負う必要があるのかがわかっているのか、全くわからないのか、の違いともいえる。)

 ☆  ☆  ☆ 

 次回に続く。





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Last updated  2013年11月12日 15時00分09秒
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