シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月10日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切史観は通説を覆し、興味深いものにかえる。有名な赤穂浪士の討ち入りの話も、ほとんどが脚色であったことを以下のように解明している。

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 京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。

 失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。

 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。

 それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。

 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」、「元禄泰平記」、[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。

 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。

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 さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。

 もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。

 なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。

 なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。

 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。

 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナ ニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。

 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。

 「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。

 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。

 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。



 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。

 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。

 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。

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 続けて、島原の乱についても紹介しておく。



 当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。

 「春日局と家光」や「将軍徳川家光」の日本シェル出版刊の私の本にあるように、実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。

 家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。

 慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。

 六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、後水尾帝は家光に対して、「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。

 話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。

 当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。

 なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。

 由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。歴史年表に、「承応二年(1653)二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。

 さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。

 というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗にかわれ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。

 さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。

 これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。

 が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。

 そして三年後の寛文三年〔1663〕正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。

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 次回に続く。





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Last updated  2013年12月10日 16時16分17秒
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