シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月10日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 「何人であれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。

 その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。

 三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、竹矢来で出入りを監視された。

 春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。

 「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。

 よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。

 ☆  ☆  ☆



 例えば、以下の八切氏の話を、Y染色体アダム説から考えてみると面白い。

 ☆  ☆  ☆

耶馬台国群は中国の出先機関

 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の存在だろう。

 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしてはならない。

 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。

 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込まされていたものである。

 さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼ばれているのである。

 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そこから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとって海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。

 「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後には「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩もつくるし、漂着地で農耕もする。

 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武装解除し使役にされていた。



 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつきだし、「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣を‥‥」とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法のランプはないから無理。

 そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をたて、泣きつくようにして、「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手に伝えさせた。「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもしようぞ」となった。

 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知れぬ。

 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくために突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天の慈雨のごとく感激した。

 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されていたから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻っている。



 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこられてはかなわぬ。

 貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴隷国家の元祖といえる。そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判ったので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練する多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。

 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬようにと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。

 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたというのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺されて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。

 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。

 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放りっぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしていた時より、遥か以前らしい。もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。

 だから、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。

 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものとみられる。

 「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さまの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きにもなるのではあるまいか。

 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王さまという事になる。

 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。天変地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。

 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地より群れをなしたのだ。

 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。

 「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四つ」の騎馬系末孫である。「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝するようになる者が増えだした。

 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上の神祇省のもとをも作った。

 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ[韓?]神で「四つ」。

 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからして、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがくると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。

 ☆  ☆  ☆

 事実は小説よりも奇なりか?





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年12月11日 16時13分08秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: