シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 昭和十三年、日光書院牧野謙次郎著「維新伝疑史話」に次のようにある。三浦梧棲陸軍中將は、山口県平生町郊外に飯山塾を開き、在野のまま後学の青年を教育している白井小助こと改名素介が、時たま出京しても下谷の求昌寺に泊まったり、嘉納治五郎の講道館にしか寄宿せぬのを戒め

 『後輩の山県狂介や伊藤俊輔、井上聞多も今は大臣である。白井先生の旧幕時代の裏話は酔余の雑談とは思うが穏やかでないし、先生の大業〔將門記を古い年号で松下村塾でも筆写させ、各藩主を西軍に組みさせた功労のこと〕は、恐れ多くも、至尊もその功大なりと認めておわす』

 と、山県や伊藤博文、井上馨らが松陰門下の大先輩として白井を遇しはした。

 それでもせめて出京の時は顔だけでも出しておくべきだし、何とか官途に就くべきだとも忠告した。しかし白井は、至尊の御名が出ると忽ち座をすべりおり下座にて平伏し、「草野の賤民礼を知らず、誠に恐れ入り奉る」と大御心に対し奉って拝礼をしていた。

 権籐成卿の実父権籐直〔号は松門〕は医師で、久留米藩に籍があったが、縁あって明治十八年、十八歳で東京の二松学舎に入学の時、白井を頼って権籐直は、当時の農商務大輔、品川弥次郎に保証人に成って貰った。

 また、山県や大隈重信の許へも出入りしていた。だから権籐成卿は白井の口から直接聞いたのか、品川弥次郎の講演を聴きにいってこの事を聞いていたものと思われる。

 尚、討幕の際の裏話を松下門下生き残りの白井は、他にも色々な事を詳しく知っていたので、それをよく吹聴していて、明治の大官は押込み強盗をやった事もあるから、後ろ暗い過去を喋られて皆は迷惑していた。



 これは当時二度首相を務めていた山県有朋が掲載させて、友人総代として己が名を筆頭に出していた。これは「明治新聞編年誌」にはっきり出ている。

 頼三樹三郎が口火を切って始めた將門記筆写は、吉田松陰に引き継がれ、松陰も処刑されてしまい白井小助が後を引き受け、一藩に何部も書き写しを届けて、御一新の際には西国大名を一人残らず西軍につけたものの、三樹三郎や松陰が次々と刑死しているだけに、いくら勧められても立身し官員になって出世する気持ちになれず、世捨て人のようになっていた。

 そして酒を呑み酔うと、

 「あいつらは今は維新の元勲だと勲章をぶら下げ、俄か華族になってふんぞり返っているが、昔は酒を呑む金がなくなると黒っぽい手拭いで頬かむりして町家へ押し込み、御用金にするのだと銭箱を持ち出して逃げた。なにしろ呑みたいし女を抱きたいが、みんな生まれが良くないからやることも下司だった。俺も付いていって銀を一掴み貰った事もある」

 と、当時の悪さをした連中の名を遠慮なくあげて、口角泡を飛ばして話しをしてから涙を流しつつ、「死んだ者貧乏と言うが、頼三樹三郎や吉田松陰先生も、維新の緒口だけ開いて先に死んでいった.......」、つまり明治になって生き残っているのは、役立たずの詰まらん輩ばかりだとまで言い切っている。

 選挙と同じで戦争もねじ回しが充分されていて始めて火蓋を切るのが終盤戦での決戦になる。なにも上海から買い付けてきた新硝石で東軍に勝てたんじゃない。その前に何百部も筆写し、箱根以西の大名家へ、領主用、上士用と何部ずつも、秘かに差し入れして読ませた為と、

 「徳川家に逆らって御家取潰しになったら家中一統が困る......といった考え方は違う。ずっと飼い慣らされてきた犬みたいな習性にすぎん。自分から新皇と名乗り勇ましく戦ったという將門伝記をよく読んで頂ければ、力が全てで勝ってしまえばそれでよいのだと判っていただける筈です。

 と次々に遊説して廻ったのが功を奏して、箱根以西は西軍に加担しなかった大名は居なかったではないか。根回しが行き届いていたからだ。それを松陰先生に言われて完全にやり遂げたのがこの白井小助なんだ」

 深酒がたたって今言う肺気腫になって吐血して死ぬ最期まで、維新は己が散布した筆写本のせいであると言い切り、明治の元勲山県有朋も彼にかかると糞味噌だったそうである。「將門伝説」は西暦九三九年の架空のでっちあげの天慶の乱の話しだとしても、それを題材にした売講子やデロレン祭文語りらの種本の筆写が、明治維新の世直しに大いに役だったことになったのである。

 〔紹介者・補記〕

 「白洲正子自伝」にも、白洲正子は「祖父の樺山資紀から『我々は維新の元勲だとか何とか世間では言っているが、本当に偉い人達はみんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ』とある。



 この説は非常に重大な問題を含んでいる。ともあれ、何れにしろ日本は歴史を美化し過ぎる。汚い物は見たくない、厭なことは聞きたくない、この心理は理解出来無くはない。しかし、この国は一日も早く「真実の歴史の回復」が急務ではなかろうか。

 この一文を記すに当たり、吉田松陰関係の史料を調べてみた。吉田松陰関係の資料は非常に豊富である。彼の著作や日記、書簡、詩歌など集大成した吉田松陰全集は十二冊も刊行されており、五百字詰四百頁にも及ぶ浩瀚なものである。

 その他にも明治以来松陰を主人公にして書かれた書物は、まさに汗牛充棟、数え切れない。今回松陰関係の参考文献は以下の通り。

 白井小助に関する記述も少なかったし、残念ながらこうした裏話を記述した物は無かった。山口県教育会編「吉田松陰全集」・日本の名著「吉田松陰」・真田幸隆「吉田松陰」杉田幸三「安政の大獄」・徳永真一郎「吉田松陰」・古川薫「吉田松陰とその門下」・木俣秋水「外史・吉田松陰」

 ●●●●ええじゃないか。とは何だったのか●●●●


 この「ええじゃないか」の事は現在の文部省検定高校教科書に載っている。当時の錦絵の写真も「豊饒御蔭参之図」として出ている。それによると、「ええじゃないか」とかけ声を掛けてはやしながら踊り歩く民衆運動は、空から舞い降りる「大神宮」などのお札、仏像、貨幣などによってさらに激しさを増したという。これだけである。

 しかし幕末革命の紛れもない大衆運動だったこの民衆の行動は一体何だったのか。八切史観では次のように解明する。

 天明八年、老中筆頭松平定信が、本所吉祥院歓喜天に願文をあげた。「なにとぞ米穀の融通よくなり下々の難儀が起きず、世の中が静かに治まりますよう。定信の命はもとより妻の命を捧げ心願仕候」といった内容の物であった。

 これは前の田沼意次の高度成長インフレ政策のひずみで、諸物価が高騰し、江戸や大阪のような都会でも、打ち壊しといって現在の「交番」にあたる自身番の詰所が各所で放火破壊され、町民が暴徒化した結果である。

 結局この鎮圧は町奉行や御先手方の機動隊出動ではかえって火に油を注ぐ結果となったので、男女七歳以上に、「米二合五勺、豆二合五勺、銀三両二分」ずつのお救いを出して鎮圧させた。

 しかしそれも一時しのぎで、物価の激しい値上げに収入が追いつかない一般大衆の困窮は烈しく、革命前夜の有様となった。

 〔主食の米麦さえ沢山とれて、出回りが良くなれば他の諸物価も押さえられよう〕今と違って単純な経済機構の時代だったゆえ、その考慮から松平定信はその妻於市の方の命までかけ、男女抱合つまり陰陽合一歓喜の神様へ願文を捧げ拝んだのである。

 つまりまだ十八世紀の政治技術では「苦しい時の神頼み」しかなかったのだろう。が、現実にはもとより何ら効果はなかった。物価はまるで競争のように値上がりした。

 そこで現在の主婦連なら大しゃもじでも担ぎ出すところだが、当時のかみさん連中は〔松平定信の妻の名が於市だったから〕それにひっかけて、各広場に集まって「しんぼ、こうだい寺は何で気がそれた、おいち毛まんじゅで気がそれた、おいちめめっちょは舐めたらしょっぱい」声を合わせ反体制の風刺踊りをした。この「しんぼ」は実際には彼女らは「ち」と発音。

 「こうだい寺」は、本所吉祥院へ定信が願をかけるときの取持ちが、興台寺という説と「葛西幸大寺の満水和尚」が、願文の橋渡しをしたからとの二説がある。女は女に酷いと言うが、定信夫人於市にしても誰にでも舐めさせた訳でもなかろうに、この唄では風刺より、もはや卑猥である。さて、この「しんぼ踊り」が間もなく「歌は世に連れ世は歌に連れ」と、御一新の「ええじゃないか踊り」に変貌する。

 「ええじゃないか、ええじゃないか。 かわらけ同志がはち合うて、双方にけがなきゃ、ええじゃないか」

 これはしんぼ踊りの歌詞のごとく見れば、そのものズバリ過ぎるが、この場合の、「かわらけ」とは土師部の子孫で捕方役人や牢番人、番太郎をやっていた棒衆。いわゆる八部衆への隠語〔どろぼうと呼ばれていた二股膏薬の連中〕なのである。

 だから、「御用」「御用」と追いかけ回す彼らと、「浮浪」と呼ばれた脱藩浪士や郷士といった連中は、その血統がやはり土師部と同じ原住系八の民の末裔だから、何も判らずそそのかされ、おだてられて上洛してきたのも多かったから、〔もとを正せば、同じ種族ゆえ、衝突しても怪我をしないようにしたらええのや〕といった風刺がこれには入っている。

 さて、風刺という視点から大衆運動を考察したが、錦絵の中に描かれている、皇大神宮やおかげ参り、について考察してみよう。

 近松門左衛門の浄瑠璃に「この世に神も仏もないものか」と、神と仏を一緒くたにしている。また、講談や浪花節では「神仏に祈願して」等と心安く使われてもいる。だが「さわらぬ神に祟りなし」の言葉が残っているように、明治になるまでの神は、迷い出てこぬように封じ込めにした対象で、拝むのは仏の方だけで、神はお払いと称して祟りをせぬように、その怨念を榊の葉でお払いしてのける存在で、今とはまるで違ったものだったのである。

 新羅造りの社〔やしろ〕に隷属した高麗系を象徴するのが、今の白木造りの社前の狛犬で、その名残を「皇大神宮」としている。これは桓武帝の時に蕃族として討伐された新羅人たちの怨念を封じ込めたのが社である。一方「宮」も差別の対象にされていたのである。

 判りやすく言えば社は 四つの民の神様であり、宮は八つの民の分類に入る 、のである。つまり品川弥次郎作と伝承されている処の、「宮さん宮さん、おんまの前にヒラヒラするのはなんじゃいな」の宮さんは、弥次とよばれていた八つのこと。おんまは言わずと知れた馬、つまり四つなのである。

 (紹介者・補記)
 ちなみに十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は弥次、喜多道中記として有名だが、あれは滑稽本の体裁をとっているが、 維新革命への啓蒙書 なのである。当時貸本屋では引っぱりだこで読まれたという。文字の有るのが読んで聴かせ、耳で聞くと良く理解できるのだが、 ヤジは八つの民、キタは四つの民 。

 即ち、 徳川体制に疎外された庶民の古代海人族の末裔である拝火教徒と、その後から日本列島へ渡ってきた騎馬民族、庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へ行き、アマの大神と、二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈った 、という風刺物なのである。

 つまり作者の意図が、世直しを求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表であるヤジとキタが道中で一度も女に触れずだったのはごく当然であって、読む側も本当は何が書かれているか、そこは心得ていたものだろう。 滑稽本と決めてしまったのは何も判らぬ田舎者の薩長人が、東京政府を作ってからなのである。

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 次回に続く。






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Last updated  2013年12月13日 10時48分21秒
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