シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。

 仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。 

 茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。

 よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。

 足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。


 が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。 



 吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。

 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。

 つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。

 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。

 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。

 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。
 幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。

 また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。<野史辞典>には、サカイ人なるものの別個の研究すらもでている。

 (終わり)

 ☆  ☆  ☆

 というように、八切史観によれば、全く出鱈目の創作を教えられ、それを日本史と思っている現代人が多いそうである。



 山上宗二も茶人ではなく、幕末の弾左衛門のような存在だったようである。幕末に薩長の官軍が勝ったのは、弾左衛門が部落解放の西郷に味方したという話があり、彼らの勢力が権力者でも、無視できないものだったことがわかる。明治政府ができて、身分制度を改め、秀吉の刀狩みたいなものをはじめてみると、それらの勢力の人口が意外に多かったので、反乱抑制のために、対外的な戦争に突入したことでもわかる。

 対外戦争をはじめるために創作されたのが赤穂浪士と宮本武蔵で、八切氏によればどちらも出鱈目であるという。冷静に考えてみれば、宮本武蔵が戦国時代の英雄であるなら、槍でなければおかしいし、武蔵が関ヶ原の戦いに参戦し、敵の子供の投げた石により、足を負傷し、戦うどころではなかったという話も残っていて、実際は、武将どころか、足軽の身分で、五輪の書なども創作であることがわかる。

 また、以前紹介した八切史観では、赤穂浪士の顛末は以下のような柳沢吉保の悪事であることがわかっている。

 ☆  ☆  ☆

 京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。



 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。

 それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。

 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」、「元禄泰平記」、[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。

 ☆  ☆  ☆

 つまり、柳沢吉保が、贋金つくりが露見するのを恐れ、吉良を、浅野に処分させようと、浅野が因縁をつけ、吉良に殿中での抜刀を試みさせるが、吉良が抜刀しなかったので、慌てて、柳沢が浅野を呼びつけて、浅野が抜刀したことにして、浅野を処分し、吉良に全てを押し付けるために、浅野家の武臣派では大事になるので、大石らの文臣派に吉良を襲わせ、切腹を申しつけ処分するという悪事だったことがわかる。

 浅野が抜刀したのではなく、吉良を抜刀させようとしたことや、武臣派ではなく、文臣派であること、そしてなにより、柳沢吉保の贋金つくりを隠すための吉良の口封じのために行なわれたことが重要な真実であることがわかる。

 八切史観の赤穂浪士については、他にも詳しく載っているので、続けて紹介したい。





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Last updated  2013年12月16日 09時56分37秒
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