シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月16日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切史観によれば、江戸時代では表立って幕府を非難できないので、「秀吉」などの代用をたてて、批判したという。つまり、ときの将軍や権力者を批判する代わりに、秀吉を批判したという。このときに、秀吉は農民の出になったという。

 前回は赤穂浪士の嘘を八切史観から紹介したが、面白いことに大衆はどうやら真相を知っていたようである。つまり、表向きに柳沢吉保を非難できないので、柳沢の考えにまんまと乗じたように、吉良を批判したのだが、裏では柳沢を小馬鹿にしていたようなのである。

 赤穂浪士を誉めることで、吉良を貶めるのが柳沢の策略だが、むしろ、赤穂浪士の処分に関わった柳沢が貶められ、現代でも虚構の「水戸黄門」でも、柳沢は悪役の定番になっているからである。つまり弱者をいたぶる悪人の代名詞が柳沢なのである。次いで、賄賂で有名な田沼意次か、生類憐れみの令の綱吉あたりである。

 面白いことに、ヤフーの知恵袋でも、柳沢吉保の悪徳ぶりが以下のように回答されていることで、柳沢は大衆を騙し、真相は闇の中に葬れたけれども、悪名だけは免れなかったようである。

 ☆  ☆  ☆

 時代劇(特に水戸黄門)で、柳沢吉保はいわゆる悪人ですが、本当はどうだったんでしょうか?
 akio4naturellementさん

 ベストアンサーに選ばれた回答
 noeinさん



またこの頃の幕府は財政が厳しくなったので小判を改鋳し、新たに元禄金と言う小判を作りました。これは今までの3両の金で5両を作ると言うもので少ない金で多くの小判を作ったので経済は混乱しましたが、吉保はちゃっかりとこの差額を自分の懐に入れ私服を肥やしました。

 生類哀れみの令ですが、初めは厳しい法律ではありませんでしたが、吉保は「国法は厳正に行わなければならない」と違反者の徹底的な取締りを命じました。

 このため「蚊を殺しただけで遠島」とか、「犬に噛み付かれた人を助けるため棒で犬を叩いたら死罪になった」と言う事態を引き起こしたのも吉保の通達によるものです。

 小判改鋳で幕府はひとまず経済危機を脱したと言う効果もあり、吉保以外にも私服を肥やした役人は大勢いたそうです。賄賂は当時の風習では良く行われたことですし、生類憐みの令の違反者の徹底的に取り締まったのは国法を遵守した結果とも言えます。

 現在の感覚では悪人と言われても仕方ありませんが、当時の幕府の習慣から見れば悪人と言えるかは判断付きません。

 ただ庶民から見れば悪人だったと思います。

 ☆  ☆  ☆

 というように、柳沢が贋金つくりをしたことがなんとなく伝わっているから不思議である。しかも、水戸黄門の悪人だから、済州島(朝鮮)の血をひく綱吉の将軍就任に反対した水戸光圀の話にも通じているように、非常に面白い。さて赤穂浪士の話を続けて以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

哀れなり浅野内匠頭
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/asano-takumi.htm

 毎年十二月になると年中行事の如くテレビ(昔は映画だったが)では”忠臣蔵”が放映される。また、本屋の店頭にも忠臣蔵関係の膨大な書物が並ぶ。さらに平成十一年一月十日からは、NHKで大河ドラマ「元禄繚乱」が放映された。

 前宣伝としてNHK出版から何冊か本が出ているが、中には討ち入りを、「前代未聞の軍事行動」と書いたものもある。

 後で触れるが、 実際に邸内に入って闘ったのは五人なのである 。これを軍事行動とは恐れ入る。

 浅野内匠頭関係の本は三百八十点以上も出ていてまさに汗牛充棟、膨大な数である。しかし 徳川体制下では事実は隠匿されてきた

 明治になると真相は解明されたか、といえば何のことはなく、 国民の戦意高揚のため浪花節として流布されたにすぎない 。

 それを同時代の絵師安藤広重の赤穂義士討入りの十二枚の絵を見た八切氏は「おかしい、変だ」と疑問を抱いた。というのは 討入り時の義士達が舟を使っている からである。どうも今まで此処に着目した人は居ないようである。

 それから根底から調べ直し、資史料の提供もしてくれた 浅野大学の遺孫から「よく初めて本当のことを書いてくれた」と浅野内匠頭遺愛の品、金蒔絵大盥湯桶を贈られたという 。従来の吝嗇だとか短気による刃傷といった妄説を打ち消した事に対する御礼である。

 さて「判官びいき」という言葉があるが、今では誤って義経の事になっている。だが、源義経は、幕末までは春本の『壇ノ浦合戦』の主人公で、建礼門院を水中から助けて狭い船の中でフライングを繰返したり、静御前には、「しずの小田巻くりかえし」と慕われる男になっている。

 つまり一般大衆の目からは、やっかまれ、羨望され、ひがまれてはいても、憐憫の感情の余地などは無い存在だった。

 では何を意味するのかと言えば『仮名手本忠臣蔵』の芝居が各地で上演されてから、一般が「お気の毒な浅野内匠頭びいき」と言っては、お上に逆らうことになって、罰せられる為、そこは庶民の知恵で、

 「高師直=吉良、 塩谷判官=浅野 」の役名から取って「判官びいき」の言葉が生まれたと考えられる。これは常識で考えても判ることである。

 つまり、今日の通説のごとく、浅野が吝でワイロを渋ったから吉良に意地悪されて刃傷したというのでは、芝居で「高師直が判官の妻に横恋慕し、叶わぬ想いの意趣ばらしに厭がらせしたのが発端」とするのと同功異曲で、色気と欲気の説得性が一般的であるとするだけで、果たして事実なのだろうか。

 八切史観では浅野の刃傷に視点を当て、元禄時代という時代の断片を切取り、浅野内匠頭、大石内蔵之助、柳沢吉保、水戸光圀らの立場を考証しながら「元禄太平記」(四部作)として解明している。

 さて、八切史観では歴史上美化されたり、誇大に評価されてる人物には、厳しい論評をしている。一方、汚名を着せられ無念の内に死んでいった多くの埋もれた人物に光を当て、その復権を成し遂げてもいる。この浅野内匠頭も見事に復権された一人である。果たして真相は如何に。

 「.....この事、話しておくべきだったが、その余裕がなく」と言ったのが家臣への遺言として残されていると伝わる。

 実際に田村家の者に伝言を頼んだのか、それとも不憫がって浅野の心中を察しての言葉かも知れぬのが本当だろう。とはいえ、芝居では見せ場としての切腹の場があり「由良之助はまだか、まだか」と、赤穂から駆けつけてくる大石を待ってから死ぬ。が、「長烏帽子を冠りたるままの御首級」とか「式服のままの遺骸を片岡源五右衛門は....」と『赤穂義人纂書』には明白に出てくる。

 なにしろ前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされたものらしい。 早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである 。

 士分の者は口外しなかったろうが、田村邸の渡り仲間からでも真相が漏れ広まっていて、芝居になるといくら足利時代の設定であっても「塩谷判官」が浅野だと口コミで同情されたのだ。

 元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。

 観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」と柳沢吉保に言われた。

 「はあッ......」浅野はただ畏まった。「 本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。其の方は抜刀しても咎めはせぬから、吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。よいか一切他言は無用ぞ 」との藪から棒の命令。

 何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって背を向けていた。だから 浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである 。

 しかし賢い吉良は、その手に乗ってこなかった。騒ぎを知らされ、 さては失敗とみてとった柳沢は観能の席から腹心の大目付仙石を呼び、即座に浅野の口封じを命令した。検分役を仙石が付けて出したのは、即刻始末させた浅野の首を持ち帰らせるだけのものだった。本当の刃傷ならば、身辺整理をして覚悟してきているから、一突きにグサリと刺すのが普通である 。

 やにわに体当たりみたいにして相手を仕止めるのが、武士たる者の心得である。千代田城刃傷は前後四回記録されているが、皆相手を仆し自分も大番組の者に滅多斬りにされて即死。浅野のごとく背後から組み付かれても未だもがき暴れて、未練たらしく、「武士の情けじゃ、そこ離せ」などと憐れっぽいことを言ったような例は全然ない。

 もう一息で、堪りかねて吉良が刀の柄に手をかける、と見て取っていたから叫んだ、としか考えられぬ。つまり、何の理由や説明も無しに上からの命令で、浅野は吉良へ仕掛けさせられたが未遂で失敗。

柳沢は情け容赦なく約束を破って直ぐ監禁 。 二時間後に呼び出され、首と胴が別れてしまうのを憐れみ同情して「判官びいき」と世に言うのである 。

 事の起こりは、箱根から東は金本位制で一両が四分、一分が四朱。が、西は九州まで貨幣は銀本位制で何匁となっていた。つまり 江戸では金はカネだが、三島から先ではそうではなかったせいである 。

 人皇第百十一代後西帝の生母が仙台伊達綱宗の生母と実の姉妹と判明。伝奏姉小路を使者に出したのは、王政復古の叛乱予備ではあるまいかと、柳生よりの探索報告で、 足利の血統で京では顔の利く吉良 が上洛して諸事処理した。そして、「帝不徳にして地震あり諸民苦しみ、よって退位を求めた為なり」と『皇運招胤録』ではしている。だが民が御所へ押しかける筈はない。

 実際は 吉良が運動して十歳の新帝を立て、仙洞御所に竹矢来を張るには費用が勿体ないからと、見せしめに今の京御苑に鳥小屋のようなのを建て、廃帝を幽閉してのけた。が、皇国史観では真相は発表出来ず隠された儘、今もそのままなのである 。

 「徳川家に野心を抱くごとき振舞いあるにおいては、何様であっても、かくの如しなり」と意気揚々と戻ってきた吉良を柳沢は招き労い、砂田重秀の発案を当人の口から聞かせた。

「秀吉が勲章代わりに鋳造した天正大判小判から今までの物を一切流通禁止にし、改めて京か大阪で銅をドンドン加えますれば、一枚が二枚、二枚が四枚と、天下の財宝は倍増します」と吹きこみ、「この役儀は余人には出来ぬ。京で威光のきく者でなくては.....」と吉良は柳沢におだてられた。また京へ行き、堺えびす島の中村内蔵助に金貨鋳造を任命し、京所司代、京奉行に協力させた 。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年12月16日 11時17分11秒
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