シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月21日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 ・・・・ 今では間違って春日局は乳母とされているが、当時は腹は借り物の考えゆえそれも可だったが、なのにそうした慣習を一変した家光はマザーボーイだった。そして実母、春日局を側から離さずだった 。

 よって 生涯春日局は千代田城で権勢をふるっていたのである 。何時の世も金銀を押さえている者は強いとはいえ、よくも彼はあくまで堂々と勇敢に抗議したものである。

 この春日局や京の東福門院の死を待ちかね、<女大学><婦女庭訓>が公儀から、慶安、承応、明暦と広められ、やがて 柳沢吉保によって徹底的に女性弾圧の歴史が始まるのはこの後藤庄三郎の影響という 。

「子供を産むのは厄介だから」と召使の女や、身分の低い女に腹替りをさせていた誇り高き女達も「嫁して三年、子無きは去る」と処分されるようになるのである

 現代はボーボワールの出現以来、結婚しない女や、子供を産まない女が増えていてさも事新しい現象のごとき皮相な見方が跋扈しているが、果たしてどうだろう。

【出産しない女性の歴史的考察】

 「未婚の母」といった言葉が叫ばれる反面、近く迫っている食料不足時代をおもんばかってか、「子供は二人までに限るべし」とか「産まない方がよい」という社会現象も見られる。

 こうした現象が取り沙汰されて来だしたのは、もう三十年前、サルトルと同伴で来たボーボワールが来日して、講演などした時点からであるらしい。

 だから「第二の性」等という本が当時はよく読まれた。そして、近頃もそうだが男女機会均等法なども出来、こうした考えは新しいものと思われているが、果たしてどうだろう。

 「女性が男性と吾して一個の人間として、生き闘っていく為には、出産育児といった煩雑さから、先ず解放されなければいけない」と言う思想は何か新鮮な、そして強烈なデイオールの香水でも嗅ぐような、そんな感覚さえ与える。

 だがこうした女性の生き方、考え方は決してそんな新鮮なものではない。それは極めてフレッシュなヴュー・ポイントをもつ二十世紀後半の思想のようであるが、日本女性は昔からこれに関して身をもって実戦躬行していたのである。

 それは歴史が証明するところだし、いかに日本の婦人が他の民族の女性より、遥かに先進的であったかという、これは例証にもなろう。

 しかしこれを解明してゆくに先だって<歴史>というものは、先ず納得できる次元に立っての「常識」コモンセンスであること。

 そして「歴史における常識」とは、「他人がこう言ったから」とか「本にこう書いて在ったから」「こう教えられたから」といった押しつけのものを鵜呑みに覚えこんでしまって、その既成概念を「信ずる者は救われん」式に頑固にメモリーして、それを墨守することではなく、柔軟な頭脳とその教養によって、 自分自身で判断しうる「常識」によって納得理解しうる過去の具象こそ「正しい歴史」と考えるべきであろう 。

頼朝にしろ、信長、秀吉にしろ彼ら男供が、歴史上の英雄になり得た裏には、内助の功というか外助の功を成した妻の存在に注目すべきなのである 。つまり、これまでの頭を切り替えねばならぬ。というのは、「 その妻が子を産まず、従って出産育児に煩されることなく、専心、夫と共同一致で励んだからこそ、英雄として彼ら夫婦は天下を平定できたのだ 」という常識のワクの中で理解すべきでなかろうか。

 といったところで、勿論現在の時点においては、まだ、「従来の日本女性は忍従を強いられ憐れな存在だった。でも米軍進駐によって、民主主義が広まり、ようやく女性は解放され、戦後、靴下と女性は強くなった」とするのが、いわゆる常識なのである。

 しかしこれは各自が考えた結果の判断ではない。

 誰かが無責任に放言したり書いた物によって、錯覚された常識にすぎない。それゆえ「絶対にそんなことはない。日本女性というのは万国無比で「古代の女性は太陽であった」と云われるほど、 女性はかってこの日本で尊敬され、男よりも遥かに優秀だった

 つまり、 薩摩人によって女性優位だった日本列島が、女性軽視に切り替えられた時点は明治維新であるが、その前は西暦1659年に、明国人朱舜水か゛日本へ帰化し、後の「女大学」や「婦女階悌」といった女性冒涜の文書の種本を、日本文に翻訳しだした時からで、柳沢吉保の元禄期よりと思われる 。

 「女夫」(めおと)とそれまで書かれていたのが、この時代から後は男を上にして「夫婦」と変わってくる。

 そして、 何故に、こうした反動期になったかと云えば、その時点までは京では明正帝なる女帝がおられ、その生母の立場で、秀忠の娘和子こと東福門院が次の代でも院政をとり、東の江戸でも春日局が、これまた江戸城を支配していたからに他ならない 。

 俗説の春日局は、おまんの方の取持ち役位だが、史実では、老中筆頭の土井利勝や大老の酒井忠勝を呼びつけ、政務一切を支配し、現今の首相よりはるかに実力者であった。このため、東西から女の天下が数十年続き、

「女にあらざれば、人間にあらず」といった具合だったらしい。

だからこれに懲りた男共は、春日局や東福門院が死んだ後、いまいましがって、「男性専科の世の中に作り変えよう」と共同謀議した結果、仏教の「女人不浄説」や「女は三界に家なし」といった劣等教育を採用し、女性を奴隷化せしめようと企てたのが事の起こりのようである 。

 だから今日のごとく女性を、<子供を産み育てる存在>とするだけの「常識」によって納得理解できるものではない。過去の具象を奇異に思っても、何とか把握することこそ、「正しい歴史」と考えるべきであろう。

 さて、歴史上有名な英雄と云えば、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉と先ず誰もが名をあげる。

 その内、頼朝夫人の政子は「吾妻鏡」によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の腹を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるなどありえない。

 実際は子供は一人も産んでいない。

 奇蝶は「諸旧記」には帰蝶とあるが、当時はみな当て字の音読みであるし、後の信長の長子を引取って育てた時、奇妙丸と名づけていたから、この文字が正しかろう。

 が、周知のごとく、彼女も又子供は一人も作っていない。秀吉の妻、ねね〔寧々、寧子、吉子の文字も伝わっている〕も子無しである。

 揃いも揃って 日本の英雄の妻は誰も子供を産んでいない 。さて、妊娠というのは、男女機能の相乗作用によるものである。子供が出来ないからと云って、女性側だけを責められるものではない。

 また、不妊の事由を性病とみても、性病が日本に渡来したのは文禄の末から慶長のころなので、彼らもその妻達も性病には全然関係がない。そして彼ら頼朝、信長、秀吉といった英雄達は、正婦人の彼女以外との交渉においては子供をもうけ、男性機能がノーマルだった事を証明している。となると、彼女たちは皆不妊症だったのだろうか。

 現在の歴史や、歴史小説では、「ねねは石女〔うまずめ〕で子供がなかったから、秀頼を産んだ淀君に嫉妬してこの衝突がかの天下分け目の関ヶ原合戦である」とするような解釈が新しい史眼とされて、この説がおおいに感心されてる程度である。

 しかし本当の処は違う。

 つまりそうした既成概念に誤られてしまうごとく、江戸期の春日局の死後は、すっかり日本女性は変えられてしまう。何しろ、それまでの女性は、産み育てる、というハンディキャップを排除する事によって、男女同権どころか、女性優位を保っていたのが、その時代から段々と雌鳥みたいに産むこともついでに強制され、「嫁して三年子を産まざるは離縁」といった不文律まで押しつけられてしまった。

 奇蝶二十一歳の時二十二歳の信長は、生駒蔵人の後家娘に、長子奇妙丸(信忠)を先ず産ませている。

 この時点は桶狭間合戦のまだ六年前で、勢力弱小の信長は奇蝶の実家の斉藤道三に武力財力の援助を受けていた時代でである。だから現在ならば彼女は<夫の不貞>を実家に泣きつき、家裁へ離婚の申請の手続きをするケースといえる。

 だが奇蝶はケロリとして、長子を直ぐに引取っている。信長は次に五徳姫と茶筅丸を産ませ、その次は伊勢神戸城の後家の神戸御前に後の三七こと信孝を産ませたり次々と合計十一男八女をもうけている。

 もとより奇蝶が嫉妬したとも伝わっていない。何故かというと、その方が彼女には都合が良かったからである。つまり十ヶ月も大きな腹を自分で重たく抱えたり、産みの苦しみを味わうより、彼女にはもっと他に成さねばならぬ仕事があった。当時はそれに「腹は借りもの」という古い言葉がある。改めてこれも考えてみる必要がある。

 エリートの女性は、妊娠出産という一年の大半をつぶす仕事は、ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い者に腹替わりをさせ、自分は妻、当時は女夫〔めおと〕の女〔め〕として夫の手助けをする仕事に専心していたのである。 男性以上に仕事の出来る女性と、唯それしか能のない女性とに昔は二分されていた 。

 そこで 「女」〔め〕として、諸事を支配する主婦〔もとめ〕と、産女〔うみめ〕と呼ぶ〔お腹様、側室ともいう〕のに分かれ、分業しあって共存共栄をはかっていたのである 。

 だから昔は、今日の女性のように、一人で妻と母の二役というダブルキャストはしていなかった。何しろ頑是ない赤児と違い一人前になった男を飼育するのだから、丹精次第では吉法師が信長に、籐吉郎が豊臣秀吉にも仕立てあげられたのでやり甲斐も有ったろう。

 「子持ちの後家にばかり手を出して、それに子供を産ませた家康は女癖が悪かった」と説く歴史学者も居るが、家康にしろ信長にしろ彼らは「受胎させ出産」が目的なのである。だからそこをわきまえた夫人達は、同姓の侍女や腰元の中から「過去に実績を持つ有識体験保証付き」である経験産婦を選んで、その目的を代行させたのだ。と書いても、殆ど判って貰えないようである。

 何しろ「腹は借りもの」といった言葉が武家時代には有り、これが一般に実行されていたのが判っていながら、どうも男の好色から、側室をこしらえてといった考えか、さもなければ江戸時代の「お世継ぎがいないと御家断絶になるから」とやむなく女人を召したといった受動的思考が、講談的常識によって培われているせいか、なかなか判ろうとはしてくれぬ。

 確かに徳川時代になり、戦国時代と違い男子相続制が決められたので、どうしても男の子を作る必要に迫られたから、その頃の<津和野家記>にも、「産業はそれ一国の大業にして」といった言葉すら有る。

 が、それを歴史家は間違えて(領内の産物を振興することが経済的に・・・)等と今日的見方で解釈して、男の侍は国防のため野陣につき、婦女子は国内産業につく、と言った具合にするから、全てが可笑しくなってしまう。

 確かに産業そのものに相違ないが、それにウミワザのルビがつくのである。「産業は女の大役にして」とあるごとく、ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、女にとっては子供を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。

 それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。これも武士の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、それゆえ出産は女体にとって危険極まる難事業ゆえ、死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ「女人忠義」とも云うが、文字通り下請けの産業〔うみわざ〕なのである。

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 次回に続く。






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Last updated  2013年12月21日 12時30分41秒
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