シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月26日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

<<切腹美化の真相>>

 大正元年九月十五日付「国民新聞」一面にでかでかと写真入りで、「世上の誤伝風評は真実ならず、一作十三日午後八時に割腹殉死された乃木将軍の最期に関し、所轄東京赤坂警察署本堂署長談」の大見出しがつけられ、

 「精神に異常をきたされての偶発的椿事とか他殺の流言もあるも、立ち会った自分は、偉人の最期が武士道的模範的割腹であって、立派な殉死であったことを証明します。西洋間だった二階の居室を室内から施錠してあったので、異様な呻きを聞きつけた下女たちが、女の手で厚いドアが開けられぬ為に、あわてて戸外に飛び出し喚いたゆえ詰まらぬ風評がたったのである」

 と、断ってから、芝居の忠臣蔵に出てくる切腹作法そっくりその儘が、まるで実地に見てきたごとく続けて述べられている。そして殉死の起因は、明治十年四月の植木坂で西郷軍に連隊旗を奪われたが、山県参謀が不問にした。

 (八切氏自身、敗戦のときに切腹を試み失敗したらしい。そのときに切腹死は無理だと悟ったという。切腹とは実際は斬首のことであるという。腹を切っても即死にはならず、出血多量で死ぬ形になるので、形式上、腹に小刀を当てるだけで、斬首によるそうである。)

 だがその責任に悩み自決を覚悟して長年に渡り堪えていたが、明治大帝の御葬列の死出のお供をするための潔い覚悟の割腹となったのである。と結んである。

 勿論軍神としての名誉を守るために、長州閥が死後二日経ってからなのに、赤坂署長に記者会見させ公式記事としたのだろう。

それまで割腹というのは、斬首、縛り首などの処刑の一手段にすぎなかったのが、新聞紙上で「武士道の華」と賛美されたために、それからというものここに、日本人の精神構造に、切腹という死に方が、非常に偉大な評価を受けるようになってなってしまったのである 。

 しかし芥川龍之介の単篇や林房雄初期の作品「絵のない絵本」には遠慮がちに書かれて居るが、昭和四十一年十月号の「文芸首都」には福岡徹が「愚將軍神論」を書き、四十二年六月号の「別冊文春」には、旅順攻撃の無為無策を暴露した「要塞」が発表されたし、天中軒雲月の浪花節台本を書いていた松浦泉三郎の「明治芸談こぼれ話」には、

 「お居間の中から静子夫人の誰か......と救いを呼ばれる声がするし、将軍の苦しがって喚かれる叫びがしても、厚いケヤキの六分板の頑丈な戸板の次ぎに樫の板戸。それに中から桟が落ちていて押せども叩けど駄目で、近くの近衛第一連隊へ急を知らせたが、御大葬の儀仗兵に将校が皆出払っていて留守。

 ようやく朝になって副官の将校達が来て、掛矢で順に戸板を壊し御居間に入った時には、出血多量でもう手遅れ。取り乱されてと言うより格闘したみたいな様子も見えたので、覚悟の御自害にしてはおかしい。賊が忍び込んで見つかり居直って御夫妻を害したのではないかと、覗きに来た近所の者の口から広まり警察が来て盗難品の調べを何日もかけ多勢でやったようです」

 と当時の裏話が聞き語りで書かれている。

 幕末の長州は家中の侍の教育用に、江戸中期の明和四年に編纂された「御家誠」を安政二年に藩の儒臣中村清旭に判りやすく書き直させ、長州の国定教科書として藩校明倫館だれでなく、私学や私塾においても藩士子弟の教育用に使うことを義務づけた。

 その中の初めの一章に、「毛利隆元公の御代にあっては、腹せを切れと言われ、否応いう家臣は一人もいなかった」の条項があり、松下村塾の吉田松陰さえも、「長州人は昔から常時、切腹の心構えで忠義に励んだものである」と明け暮れ真面目くさって講義をなし、そしておもむろに、

 「いくら力任せに腹に刃を突き刺したにしても、介錯人が首をさっとはねてくれねば絶命できず、身体中の血が流れ出て悶え苦しまねばならぬものである。それ故卑怯未練な振舞いをして切腹の沙汰を受け、自分で生殺しみたいな辛い目にあうよりは、死中に活を求めるよう勇敢に敵に突きこめ。そうすれば死ぬのも一瞬の安楽死であり、突破すれば命拾いすることも有り得るのだ」

これは代々に渡って扶持を貰っている家臣は努力を尽くして毛利家のために努力すべきであるといった教訓だったが、吉田松陰はそれに中世の輪廻の思想を加味して、「人間は一度死んでも、また七回までは生き返ってくるものだから、七生報国の精神を持て。わしは、その三倍ぐらい死んでもきっと蘇生してくるぞ」と自分は、二十一回猛子と名乗った 。





毛利家上層部は、切腹刑を課せられぬように死力を尽くして奉公しろと教育させる筈が、松下村塾だけでなく、私学校の塾でもみな、「腹の切り方」の作法の実習を生徒にさせ、若者達は死への悲壮感に酔わされての教育となった 。

 そこで松下村塾の玉木家に生まれ育った乃木大将も、幼時から腹切りの実習を見よう見まねで何度もしていたから、雀百まで踊り忘れずというか三つ子の魂は百までの格言通りに、介錯無しでは即死できぬ切腹なのに敢然とやってのけたのだろう。

 そして死にざまによってその生涯の評価の決まる日本人の精神構造から、「自決し明治大帝お供をした乃木大将は、武人の亀鑑であり武士道の権化である」とされ、軍神に相応しい最期であったと偉人として遇され、切腹も美化され乃木神社に祀られている。



 長州の切腹教育は明治になって有終の美を飾ったことになる。だが、である。

 安政二年に教科書を作った中村清旭は知らなかったらしいが、毛利元就からその子隆元までの間は、関ヶ原合戦で防長二州へ押し込められる前ゆえ、今の広島に当たる安芸にいて吉田城が殿様の居城であった。

 そしてそこの 安芸弁で、「腹せ切る」というのは、腹から背へ突き通すように刃物を刺すことではなく、意味は「腹から背まですり切れるまで働く事」つまり他の地方では「身を粉にして働く」というのと同じ方言だったのである 。

 しかし尼子氏の領地だった防長二州へお国替えとなって山口の萩を本城にしてから二世紀も経つと、言葉が安芸の方言とは判らず文字通りに解釈してしまって、『大訓衍儀』の木版刷りとなして配布したのである。この怪我の功名というか、この切腹の勘違いが長州人を幕末になって勇猛にし、ついに明治の世にしてしまったのである。

 となると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で教育しても効果があがらず、洋式武装を完備し、薩長も購入出来なかったアームストロング砲まで輸入しても駄目だった佐賀鍋島に比べれば大成功と言えようものである。

 勘ぐれば或いは毛利の殿様もよく承知の上で「人使いのコツ」として猛烈家臣養成のため故意に刷本にして教育させたのかも知れぬが、哀れ痛い目にあって苦しんだ大将や、付き合わされた静子夫人は誠にお気の毒であるというしかないような想いにさせられる。


 <<引用参考文献>>

 八切止夫著「獅子の時代」「幕末奇人伝」「野史辞典」「庶民日本史辞典」幕末確定史資料大成・日本歴史資料集大成明治史学会雑誌その他。

 ☆  ☆  ☆

 孫子も戦わずして勝つのが一番良い、といっているように、もし軍神などがいるなら、戦わないことを優先するはずである。もし、愚かにも戦うような羽目に陥ったなら、最低限譲れないところを明らかにして和平に持ち込むことである。

 大体、幽霊などいないという奴ほど、軍神などを持ち出す。軍神というのは乃木大将のようにマヤカシ出鱈目だから、そういう洗脳の類に取り込まれないことが肝心といえる。日本は日露戦争に勝ったのではなく、偽ユダヤにロシア帝を潰すのに利用されたのである。

 それは上述に紹介した乃木大将の話からもわかることである。明治帝がなぜガーター騎士なのか、調べればわかることである。





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Last updated  2013年12月27日 16時04分08秒
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