シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの話を続けたいが、少々気がかりなのは、靖国参拝騒動の裏で沖縄米軍基地の辺野古移転が決まっていることである。そもそも靖国騒動も、米中の金融覇権争いのせいで、米中対決となると、沖縄は天王山ともいうべき重要な地域になるからである。

 ややこしいのは、ニセユダヤの指示通りに、阿呆が自衛隊を軍隊にすると、日中対決も現実味を帯びるが、沖縄が地理的にも情報的にも、重要な拠点なので、中国は沖縄占領を重要視せざるを得ないだろうから、沖縄に米軍が駐留する限り、どうしても米中対決になるだろう。ロシアなどは既に見込んで先手を打っているからプーチンは賢い。

 だから、いずれは沖縄独立を画策してくるだろうが、それだと日本が認めないから、沖縄駐留を利用して日本から金銭を引き出せなくなる。靖国問題よりも、沖縄の方が数倍も重要なのである。

 では、前回からの話を続ける。

 ☆  ☆  ☆

(8)近代化され特殊な進化をしていた薩摩武士集団

 官軍の主力として、肩で風切る粗忽な田舎者集団・薩軍の‘西郷郎党’がもっとも問題なのは、彼らが西郷の言うことしか聞かない、あるいは西郷を通してしか命令に従わないということであった。近代的な軍隊としては、まことに致命的な欠点である。

 近代の軍隊とは、上官が誰であれ、上官の命令であれば無条件に絶対服従し、組織的な軍事集団行動を起こさねばならない。長州藩の大村が彼流の天皇のための陸軍を作り上げようとしているのに、いちいち、命令を下すたびに、‘その命令は西郷さーが承諾したか’と詰問されていては、まったくどうしようもないのである。

 そもそも尊皇という使命感が希薄な、というより、ほとんど尊皇という概念を持ち合わせていない薩軍とは、大村にとっては信じがたい異質な集団であったであろう。薩摩藩は幕末の西海の雄藩であったが、その主君である島津氏とは、もともと、源頼朝によって鎌倉時代に九州におちのびてきた平家の残党を監視するために派遣された鎌倉幕府の御家人であった。

島津氏は、惟宗氏という近衛家に仕えていた家老格の氏族の末裔であるが 、頼朝の乳母である比企一族の娘と縁組みをしたたために、頼朝と非常に近い間柄となった。頼朝に見込まれて鎌倉に下った官僚はたくさんいるが、その中の一族であった。ただし、鎌倉時代が崩壊しても、戦国大名として生き残った。

 戦国の島津氏は、支流の島津氏であったが、関ヶ原で西軍に付いたために苦難の運命を背負った。このとき‘島津の退き口’という名で呼ばれている、正面突破の退却をやった島津義弘という人物が当時の幕末の島津家の骨格を作った。

 徹底して幕府の隠密の入国を阻み、江戸幕府の密偵が領内に侵入したのを発見するやいなや、叩き斬った。江戸時代に、むろん江戸藩邸をもち、江戸幕府に恭順してはいるものの、地元薩摩とは、ほとんど完全な独立国として存在したのである。この独立性は島津氏の出自と関係してさらに特殊なものとなった。

島津氏は旧性を惟宗氏といい、もともと新羅系加羅の渡来人であり、山城国を中心に繁栄していた秦氏と同族であると伝えられている 。

 一方、 日本の皇室は旧百済の王室に近いと考えられるが、加羅人は百済人とやや系譜が異なり、百済の伝統とやや異なった特質をもつ 。

 土俗的、職人的特徴をよく保ち、さほと中央意識が強くないのである〔聖徳太子の蘇我物部戦争で登場し、物部守屋を討ち取った秦河勝は、中央に登場する秦氏としてどちらかというと例外の人物である〕。

 また一方、 長州の毛利家は同じ鎌倉幕府の京都系の官僚でありながら、百済系渡来人を源流としている 。 毛利氏の旧性は大江氏という。大江氏は平城天皇の孫の阿保親王を祖としているが、母方の大枝氏とは百済系の渡来人である 。

桓武天皇の母君が大和新笠という百済系渡来人であったように、復活を遂げた天智天皇系の平安朝皇室と同時期に中央に登場している一族である 。したがって、出自は平安朝皇室と近い関係にあり、中央意識が強い。

 このような百済系渡来人のはるか末裔である毛利氏に育てられた歴史をもつ長州人は、本能的に皇室を理解し、尊皇というスタンスが骨格になっているのである。

 薩摩人は徳川氏以上に尊皇意識が低かった、というよりも自ら率先して戦の戦陣に立つ島津氏を絶対的な唯一の主君と仰ぐ独立国であり、しかもその配下には、日本の文化伝統には全く疎い、危ない南方の土人のごとき人物がうようよしていたのである。このような島津氏が独立国を築き上げた原因には、関ヶ原以降の徳川幕府との異常な緊張関係が大いに関係していると思われる。

 毛利家は、徳川幕府より安芸から長門萩周防に追いやられて追い詰められ、藩主が藩を放り投げようとしたという逸話まで伝わっているのに対し、島津薩摩は江戸から最も遠く、しかも徳川は島津の領地を削ぎ落とすことが出来なかった。このため、全国の土木事業を島津に申しつけ、あの手此の手で薩摩藩の藩政を疲弊させようとした。

 その一つの逸話として、薩摩藩が幕府から申し付けられた木曽川治水という困難を極めた大事業をなし遂げ、地元の人々から大いに感謝されたものの、藩財政を逼迫させたた責任をとって工事最高責任者が人物が自刃したという悲惨な物語りが薩摩の語り種となっているのである。

(9)東京招魂社の前身・京都招魂社の実体

 ところで、九段の東京招魂社ができる以前の明治元年5月、維新政府によって京都の東山に招魂社を作るよう太政官令が出ている。 実は、東京招魂社が計画された直前、すなわち、都が東京へ遷都される以前に、実は招魂社が計画され、部分的に完成していたという事実があるのである 。

 ただし、 この計画を立案したのは、平田国学を信奉する明治天皇の侍従・福羽美静という人物である。福羽は自分の私邸に吉田松陰等の安政の大獄での刑死者の霊を祀るために祠を祀っていた。これを東山に移して長州藩の招魂社を改編したのがその実体である 。

 したがって、 この現在の京都護国神社である京都招魂社を訪れてみると、東京招魂社とはかなり趣の異なる、東京招魂社とは全く別の伝統で作られたもであることが理解できるのである。ここは、基本的には仏教文化をベースとして墓地から発生しているのである 。

 もともと、古くからこの鴨川の東側は、京都で行き倒れになった身元がいろいろ‘いわくあり’の人々を埋葬する場所であった。この招魂社に墓があるもっとも有名な人物は坂本龍馬であるが、龍馬も京都で刺客に倒され、頓死したもっとも曰くありの人物なのである。

 墓であることは明白なのであるが、墓の入り口に小さな鳥居が取って付けたように建てたれている。純然たる神道の地でないことは明白であり、仏教に深く馴染んでいる京都の民衆が、時の政権にとって不要あるいは邪魔となってであろう龍馬が暗殺されたことに、深い哀れみを抱いてここに墓地を作ってやったという経過でできあがったのである。

 もともと非業の死を遂げた人物とは、神道のご神体を奉納するという場というものとはもっとも馴染まない存在であり、取って付けたような小さな鳥居というものが、神道から死者の霊を慰めようということをする事事態がそもそも矛盾しているということを明確に語っていると私は思うのである。

全国のどこを探しても、墓付きの神社というのはここ以外に探し出すことが困難であるからである 。

 そして、この龍馬の墓のすぐ後ろには、まったく同じ様な形式での蛤御門の変で戦死あるいは自決した多くの長州藩志士の墓が整然と並んでいる。蛤御門の変とは、長州が薩摩と薩長連合を組む直前に、朝廷での主導権を奪還するために起こした争乱である。

 龍馬の墓と同じ様な鳥居が附けられている墓もあるし、そうでないものもあることが分かる。完全に不揃いで混乱しているのである。要するに、ここは長州人が何と言おうと、少なくとも京都の民衆にとっては、墓なのである。

(10)長州毛利藩の血筋を遡った古い話

 ここにどうして、長州人の墓が作られているのか。これを知るには、もうすこし長州藩の歴史に立ち入る必要があるのである。すなわち、もともと長州藩とは尊皇攘夷を最初から唱え、朝廷と一番近かった。長州藩毛利家とは、平家源氏のように本来はあまり素性がはっきりしない武家の人々とは異なり、純然と皇室の子孫であって、もともと大江氏という文官の流れである。

 どうして文官の大江氏が武家になったのかということを語るには、長いスペースが本来必要であるが、簡単に言うと、大江氏が源頼朝に引き抜かれて鎌倉幕府の政所の創設者として、鎌倉幕府に仕えだしたことがそのきっかけである。

 長い歴史の辛酸を舐め、徳川家康によって萩に押し込められたが、本来は大きな勢力を築き上げた戦国大名である。しかし、王族の流れであるという自負は、源氏平家よりももっと強烈である。

 長州毛利家の旗印は横━文字に三つの●が旗印であるが、これは一品(いっぽん)すなわち、一品親王と呼ばれた阿保親王を家紋として誇りとし、自分たちは皇室の出そのものであるぞということを強烈にアピールしているのであるという説がある。

 文官の出であるに相応しく、和歌を良くし、また戦国大名であった毛利元就が息子や家臣にせっせと手紙をしたためて細かい愛情を注いでいたということは、つとに有名である。

(12)京都招魂社の歴史と東京招魂社との比較

 これを現在の形式にしたのが、明治天皇の侍従・福羽らの功績であり、京都招魂社創建の太政官令のでた明治元年5月とは、実は戊辰戦争の最中であり、まだ明治の宣誓が行われておらず、正確には慶応四年なのであった。ただし、この京都招魂社の精神は、そもそも悲運の人々を純粋に埋葬しようと言う人間本来の心から発生したものである。

東京招魂社は、この京都招魂社とはまったく性格が変わってしまっているといって良いのであるのである 。 東京招魂社には、あきらかに長州を中心とした官軍戦没者だけを祀るという政治的意図がその根底にあるのである 。

 これに対し、京都招魂社には、もともと時の権力から葬り去れた敗者あるいはまったく権力から遠い行き倒れの人を埋葬してあげようという京都の人々の哀れみの情がその原点にあるのである。

 権力側・民衆者側一切関係なし、むしろ権力によって無惨な目に遭わせられた人々を埋葬したのがもともとの京都招魂社の精神である。 東京招魂社すなわちのちの靖国神社は、明らかに権力側の褒美としての意味合いを持たせた、純粋な政治的装置であると言えるのである 。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年12月27日 15時22分26秒
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