シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続きだが、前回の話から、東京招魂社が長州の神社であることがわかると思う。では前回の抜粋紹介を続ける。

(13)薩摩藩の戊辰戦争戦没者慰霊碑

 ただし、この京都護国神社には、 薩摩藩の招魂社〔各藩の招魂社とも小さな祠として存在している〕は最初から存在しないことに留意しなければならない 。ここには薩長連合を画策して長州藩軍の近代化を成功させた木戸孝允が私的を投じて建設した碑には薩摩藩士も一部加えられているが、公式すなわち、 政府の太政官令によって作られた招魂社および墓には、薩摩藩士のものはない という重大な事実があるのである。

最初の維新政府の招魂社である京都招魂社に薩摩藩の招魂社がないのは、表向きは薩摩藩の招魂社はすでにきちんと薩摩ゆかりの寺院にできているからということになっているが、ここにはその公式的な見解を疑わなければならない歴史的事実がかいま見えるのである 。 

 すなわち、 薩摩藩の戦没者碑は、慶応5年の太政官令には全くお構いなく、明治2年5月に京都招魂社とはまったく別のところに出来ているのである。薩摩藩藩主であった島津家の菩提寺、東福寺・即宗院の山手の一角にある薩摩藩戦没者の慰霊碑がこれである 。



実は明治2年は、大村益次郎の東京招魂社が出来た年であることはすでに説明した。即宗院の霊碑とは違って、東京招魂社はそそくさとした突貫工事で6月28日に仮殿ができているのである 。

 つまり、 東京招魂社は、この西郷の霊碑ができたあとに出来ているのである。それも、数日間という突貫工事である 。 ここに、西郷が自藩の戦没者だけを全霊を込めて供養したということに、大いに焦りを憶えたであろう大村益次郎が、東京招魂社を慌てて急場こしらえで作り上げたという可能性を示唆するものであることが理解できるであろう 。

 だからこそ、 東京招魂社は政治的なのであり、強大な独立勢力薩摩に対抗しようとした大村の意図が、この招魂社を巡る事実からも浮かび上がってくるのである 。 東京招魂社は、もともと戦没者の供養のためにできたのではなく、薩摩を仮想敵と決めつけていた長州大村益次郎が仕掛けた西郷・薩摩藩兵軍団攻略のための一つの装置であったのである 。

ここに東京招魂社の本質があり、現在も戦没者のためではなく、政府に敵対する勢力への政治的圧力装置として作動する、おかしな靖国神社というものの原点があるのである 。

(14)薩摩軍の独善的動き

明治政府自身には直属の軍隊というものがまったくなかった 。維新政府軍とは、いつまでたってもいわば寄り合い所帯の指揮権がばらばらの軍隊であったのである。

 大久保らの廃藩置県という大事業をまえに、旧大名は不平士族の反乱がいつぞや起こるかも知れない、維新政府の立場はまことに危ないものであった。西郷は西郷の考えで維新政府をバックアップする軍事抑制力として薩摩軍の拡大再編成をやったのであった。

 のちに山県有朋が直接西郷にねじ込み、この軍のうち四個師団が薩摩から、御親兵として東京に移動し、のちの近衛兵となるのである。このときは同時に長州から三個師団、土佐からは二個師団が上京した。ただし、もちろん 薩摩の西郷が動かなかったら、この御親兵の編成も不可能であった 。

 ところで、 江戸開城の後の彰義隊の追討戦のとき、西郷は単なる薩摩藩兵の指揮官であった。たんなる長州藩軍事係りであった大村は、三条ら長州系の公家の支持を受けて、西郷を出し抜いて官軍全体の指揮をとった

 (このとき、大村は薩摩兵を大量に見殺しにしたので、薩摩人に逆に怨みを買って、暗殺されてしまう。)

 薩摩の東福寺の慰霊碑とは、まさに西郷が官軍最高の地位を辞して、地元鹿児島で、自軍を最高の軍隊に仕立て上げる最中に、しかも西郷自身の筆で完成されているのである。たしかに、この慰霊碑には長州の戦没者はまったく含まれていない。

 一方で 東京招魂社には、長州人も薩摩人の区別無く、ともに戊辰戦争で戦死した人々が祭られたわけであるが、この東京招魂社の巧みなやり方に長州藩のその後の成功の原点があったといえるであろう 。

この東京招魂社を作り上げたのは、彰義隊以降の維新政府の総指揮を事実上とったの大村益次郎なのである 。西郷隆盛は大総督府参謀兼参与という官軍最高の立場にあったが、事実上、単なる薩摩軍の指揮官であるだけであった。

 (大村が宣伝上手なのが、靖国になったのである。長州という国が、国体となった洗脳である。つまり、長州人が日本版カースト制度の最上位に就いたことになる。)

大総督府参謀というのは大村益次郎のおかげで、鎌倉幕府の征夷大将軍のような名誉職になってしまっていたのである。大村の指揮下、薩摩藩の藩兵は過酷な任務を負わされた。西郷がもっとも可愛がった弟・吉次郎は越後の追討作戦で死亡しているのである 。

 大村に抵抗せず、薩摩藩人の権益をいっさい守ろうとしなかった西郷とは、良くも悪くも無私の人ではある。

 (腹の底では、大村を殺そうと思っていたようで、実際、暗殺させたようである。)

(15)西郷の長州人嫌い

 実は、 西郷はたいていの長州藩人が嫌いであったという 。たとえば長州に薩摩の武器を運び込んだ殊勲者・井上聞多を‘三井の番頭さん’と呼んで、財閥の利権の代弁者という風に理解していた。本音と建て前の使い分けが巧く、遊び上手で、利権の匂いを嗅ぎ分け立身出世に聡い長州人を、西郷がまったく別の人種と思っていたであろうということは薩摩人の私には良く分かるのである。

薩摩藩の若衆組織では、長州藩風の二枚舌あるいは本音と建て前を分ける立ち回りの巧い人物が最も嫌われる 。それは、本音で語ろうとしない暗い人物、あるいは腹に一物のある、いざとなったら裏切りをやる人物と見なされるからである。

 要するに、藩の‘美風’とされる精神に合わないのである。私心を捨て、大儀に尽くすというのは、確かに建前である。しかし、薩摩人は建前を本音として使命を全うしようとしたのである。この辺に、薩摩藩士の‘武士の美徳’というやせ我慢風の無理があるのは確かであるが、どちらが時代にマッチしたかといえば、その答えは残念ながら明白であろう。

 ☆  ☆  ☆

 上述のように、どうも日本人の二枚舌、つまり建前と本音は長州人の性格からきているようである。薩摩人は、本音は墓場まで持っていくものという性格のようである。だから、薩摩では無口が尊ばれ、長州では口上手が尊ばれるようである。

 いずれにしろ、明治維新以来、薩長が支配階級に君臨したが、長州に出し抜かれ、大久保が薩摩を裏切ったので、西郷は下野し、薩摩に独立国をつくり、再び明治維新を起こそうとしたが、大久保が島津久光がやったように、薩摩から裏切り者を集い、同士討ちをさせ、西郷軍は鎮圧されてしまう。

 しかし、これまで紹介してきた話には重大な視点が欠けている。西郷が起こした明治維新の目的である。それは、西郷らが部落民だったということからわかるが、いまでは下級武士にして誤魔化しているからわからないのである。

 八切史観によると、明治維新前までは、部落民は人ではないと差別されたので、墓がなかったのである。つまり、死んで墓がつくられるということは、人並みの扱いを受けるということなのである。

 西郷軍が西郷のために働いたのは、西郷が、戦没者を人並みに供養することを約束したからである。同様に、招魂社の話から、長州の奇兵隊も、部落民からなっていたことがわかる。人として死ねるから、軍隊に応募したのである。つまり、餌なのだ! 

 この招魂社の話から、いかに江戸時代の身分制度が酷いものだったことかがわかる。勝海舟が江戸時代を徳川家が巧く統治した良き時代のように吹聴したので、昔から平等だったような錯覚に陥っているだけである。そのせいで、徳川家は賊軍を免れ、貴族階級になっている。


 そのことがわかる裏話を紹介する。

 ☆  ☆  ☆

花の西郷隆盛

 鹿児島ハラ郡西国分町の国分駅の西側に、「隼人塚」の古墳の三基の石塔が今もある。南鮮から入ってきた仁徳王朝や、次に取って代った大陸藤原王朝の傭兵となったクダラ人によって討伐され、大量虐殺された薩摩隼人の霊がたたらぬようにとの閉じこめ塚。

 「大和民族は一つなり」と学校歴史は国家目的にみな働かせようと教育する。が薩摩人は被征服民族の隼人族である。だから西郷も、「きっと、いつかは仇を・・・」と反骨の民族の血の流れをもち、文政10(1827)12月7日鹿児島下加治屋町で吉兵衛の長男に生まれる。

 勘定方小頭西郷吉兵衛隆盛は大きな赤ん坊に小吉と名をつけた。家禄を先々代に手放して家計が苦しいから、あまり食わさぬようにとの命名かも知れぬ。しかし親心は知らず、「もっと食う」と、ヒエ飯なのに何杯もだベ、「肥満児」といわれるくらいに大きくなった。

 「・・・みんな悩んで大きくなったというが、あれは食するだけで肉がついてしまうのか」父吉兵衛は唸ったがそれでも琴、吉次郎、高、安、信吾、小兵衛と次々六人も作る気ではなかったろうが順にうませた。家は狭いし夜具もない兄弟七人が一つ蒲団で寝て育った。「イモばっかし食っちょるから、みんなへこくから掛け蒲団が上へふっ飛ばされる」長男だから夜中に起きては蒲団を直した。

 「なんとかヒエやアワでよいから、臭い、へのでぬような食物を皆にくわせもうそ・・・・」と幼い弟妹の寝姿みては鼻をつまんだ。「家計を助けるためには早くお役につかねばならん」と吉之助と改名した隆盛は18才で、郡方書役(補)助となり年四石となった。キロ三百円とみれば月給で二万円の薄給。それでも西郷家の暮らしはすこし楽になり、「しっかりやれよ」と父親は励ました。

 加冶屋町は本来は鍛冶が集められていた土地柄。だから城からも離れていて軽輩者の長屋が並んでいて、後の大久保利通の正助、海江田信義になる有村俊斎など同年輩でいた。のち大村益次郎を襲撃させ捕らわれた連中が、斬首になるのを放免した海江田である。

 薩摩は隼人族の国で被征服民族とし、大宝律令から京へつれて行かれ門の脇に並ばされ、「ワンワン」と犬の鳴き声をさせられたり、油こしや竹細工をやらされていた汚辱の歴史が彼らにはある。だからして若者どうしで、「何んとかしちゃる」と喚きあっていた。

 「島津は関ヶ原合戦で大敗したのを痛恨し、兵児とよばれる若者共は復仇を誓いあった」と通俗史ではとくが関ヶ原で負けても、薩摩は領地も失ってはいない。憎悪は徳川家よりも日本全体である。

 だからナポレオン三世のパリー万国博覧会へも独立国として参加。〇に十を国旗としサツマリウキュウ国とし日本とは別個に産物を出品し、アルファベット順で日本代表より先に拝謁式をしている。

 「九州独立」を進駐軍に求めた戦後の運動も笑い話ではなく、薩摩やクマソ熊本は日本に占領されただけだとの民族自立運動だった。

 「自立の国になすには海外の新知識を入れ、おおいに国力を増やさねばならぬ」と島津重豪は琉球経由で海外より輸入に力を入れた。だから、さしも77万石の島津藩も金づまりになって、その孫の斉興の代には財政危機。領内から徹底に搾取するしかなくなった。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年12月27日 15時36分27秒
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