シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年01月10日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

新説・龍馬暗殺事件の真相
http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/20131012-1.html

 坂本龍馬は幕末の英雄とされている。高知の人間は軽薄にも空港の名を「高知龍馬空港」と命名している。真実がわかってくると大恥をかくことになるのに…。

 薩長同盟を仕組み、大政奉還を企画したのが一介の浪人、龍馬だったとされているが、そんなことはなかった。

 とりわけ薩長同盟には龍馬も無関係ではなかったが、そういう動きは少し前からあったし、具体的に動いたのは土佐藩の脱藩志士・土方久元である。

 土方久元は同じ土佐の中岡慎太郎に薩長同盟の必要性を説き、自らは長州・萩に行って桂小五郎〔のちの木戸孝允〕を説得し、中岡は薩摩に行って西郷隆盛を説得した。



 だから龍馬は、薩長同盟には遅れて参加したのだ。

司馬遼太郎ごときが、坂本龍馬を主人公にした小説を書いて、ウソを広めたのである 。

 (司馬氏は、「龍馬」ではなく、「竜馬」にしているところに注意すべきである。八切氏は、坂本龍馬は当時全くの無名者で、才谷梅太郎が本名だと述べている。中岡慎太郎は有名で、本名は、石川清之助という。龍馬と中岡の仲も小説のようではないようで、中岡の日記にわずかに「才谷くる」とあるだけだというから、有名な中岡と龍馬の写真も、本人たちなのか怪しい。)

 次に、今も龍馬が起草したとされる「船中八策」。これもウソである。最近もこれにあやかろうとて、維新の会の橋下徹が起草公表したことがあったが、まったくお笑いぐさであった。

 龍馬が大政奉還のシナリオを書いたとするデタラメがまかり通っている。

 「船中八策」は龍馬が大阪へ赴く船上で後藤象二郎に示した腹案で、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ政令宜しく朝廷より出ずべき事」にはじまる、公議政体論を骨子とした幕府終焉を勧める綱領、となっている。

 しかし龍馬がそんな綱領を起草した事実はどこにもない。ただの伝説にすぎないのだ。

 すでに幕府内や親藩の高官から大政奉還論が出ており、15代将軍慶喜も乗り気だった。ただ後藤象二郎〔土佐藩筆頭家老〕が進言したことは確かなようであり、後藤から聴いた龍馬が口の軽い男だったから、あちこちで大政奉還論を吹聴していただけのことであった。

 (後藤ではなく、福岡孝悌のようである。)

 龍馬が大政奉還の後、維新政府に入るかと問われて、これからは貿易だ、貿易で国を豊かにする、自分は海運業に専念すると抱負を語ったとするのも、デタラメ。



 龍馬が素浪人の身にも関わらず、江戸に出て千葉周作の道場で剣術を修め、勝海舟を斬るつもりで行って逆に説得され開明派に転じ、あまつさえ勝が作った海軍伝習所で操艦を習得し、海援隊を組織して、貿易を始めたというのも、かなり事実とは異なる。無一文の浪人がどうやって食っていたというのか。

 彼は銃火器の密貿易で稼ごうとしていた、きわめてうさん臭い男なのである。

土佐藩の密命をうけた密貿易の船が、紀州藩の船と海上でぶつかる事故を起こした。賠償金を龍馬が受け取るはずだったが、直前に暗殺された。代わりに莫大な賠償金を手にしたのが、土佐藩とその配下だった岩崎弥太郎である。この資金をもとに、岩崎は三菱財閥を作る 。

 このことから、龍馬暗殺の黒幕として土佐の後藤象二郎と岩崎弥太郎がいたことは確実である。



 この本では、日本の本当の黒幕だった男は田中光顕だと説いている。

その龍馬伝説を創って流布させた張本人がこの田中光顕であったと鬼塚氏は解き明かす 。

 (背後に三菱の宣伝がある。)

 なぜかならば、当の田中光顕が龍馬暗殺の黒幕だから、であった。

 田中光顕は、土佐藩の最下級武士〔武士とは言いがたい〕で、坂本龍馬が最下級武士の「郷士」だったとされるがそれ以下の身分の出自であった。脱藩して志士の仲間入りをしている。2流以下の志士として出発する。

 田中はやがて長州の奇兵隊に参加し、伊藤博文、ついで山県有朋といった重臣の腰巾着として出世していき、宮内大臣として明治天皇〔大室寅之祐〕を支配し、大東亜戦争直前までさまざまなテロルを仕掛け、黒幕として権勢をふるった。

 田中光顕は、日本史の汚点である、孝明天皇暗殺、明治天皇睦仁暗殺、大室寅之祐の成り済まし、龍馬暗殺、伊藤博文暗殺などに加担もしく真相を知り得る立場に身を置いてきた。結局逃げ切って死んだ。同じく土佐藩の下級武士だった岩崎弥太郎が、三菱を起こして巨万の富を築くと、田中は三菱から無尽蔵のカネを援助してもらっている。

 興味ある方は鬼塚英昭氏の『日本の本当の黒幕』をお読みいただきたいが、では極め付きの龍馬暗殺の真相を、鬼塚氏はどう捉えたかを紹介してみよう。

 京都の見廻組〔幕府警備隊〕の犯行とする説があるが、維新後に犯行を自供した今井信郎や渡辺篤は、売名行為であったことがもう明らかになっている。

 (実行者の谷干城が怪しんで検分しにいったくらいである。恐らく、自分たちの犯行がバレルのを恐れたのだろう。その後、今井信郎は西郷に釈放された。)

 フリーメーソンの作家・加治将一は、中岡慎太郎が龍馬をおびき寄せて斬ろうとしたが相討ちになったとする説を唱えている。

 新撰組説、後藤象二郎説などいろいろあるが、決め手はない。

 鬼塚氏は、こうした混乱を生じさせるような巧みな工作をしたのが、田中光顕だったろうと言う。田中光顕が龍馬の死後、刀の鞘の傷とか下駄とかの小道具を考え出し「捜査」を妨害したのである。府中市で起きた3億円事件とか、世田谷一家殺害事件とかも、証拠がたくさん残されながらかえってそれが邪魔をして真相に辿りつけないのと似ている。

龍馬は維新後は忘れられた存在だったが、にわかに有名になったのは、日露戦争直前に昭憲皇太后の夢枕に、龍馬の霊が現れ戦争は大丈夫といっていったと発表されてからであった。だが、この話も田中光顕の作り話である 。

龍馬を英雄に仕立て、悲劇の暗殺の主人公にしたのは、大衆の眼をそこに向けさせ、孝明天皇と明治天皇の暗殺事件を影薄いものとするためであった 。

 推理小説の常道は、殺人事件で一番儲かる男が犯人である。

 その伝でいえば、龍馬が死んで一番得をしたのが岩崎弥太郎だった、岩崎が主犯ではないだろうが、陰謀に加担した可能性は非常に高い。その秘密を握った田中光顕に三菱は多額のカネを与え続けた。田中は豪邸に住み、別荘を建て、国宝級の書画を数千点も持った。みんな三菱が龍馬暗殺の「お礼」として…。

 鬼塚氏は、龍馬と中岡慎太郎は毒殺されたと見ている。刀傷は偽装だと。

 そもそも龍馬が暗殺された慶應3年11月15日は、彼の33歳の誕生日であった。すなわち、 11月15日の夜、京都の醤油屋近江屋二階で龍馬の誕生パーティが開かれていたのである。その場で龍馬は毒殺された 。

 刺客数人に襲われたというのは、のちに田中らが流した真相をごまかすために工作である。

暗殺に関わった主要人物は、福岡孝悌、谷干城、田中光顕、睦奥宗光。彼らを操ったのはイギリス公使の外交官アーネスト・サトウであり、直接にはサトウの命令を受けていた吉井幸輔〔薩摩〕であった 。

 坂本龍馬には3册の自著がある。『閑愁録』『藩論』『和英通韻以呂波便覧』。『藩論』は、政治とはいかにあるべきかを龍馬が語ったものを、長岡謙吉が筆記し、死後に出版された。

生前〔慶應3年4月〕に京都で出版されたのが『閑愁録(かんしゅうろく)』である。これはキリスト教を排撃し、仏教をすすめる本であった。龍馬が語り、長岡謙吉が筆記した 。

 『仏教徒坂本龍馬』〔長松清潤著〕によると、『閑愁録』の内容は「人心荒廃を嘆き、開国後に浸潤してきたキリスト教に孤惑されてはならぬ、そうならないために日本人の心に深く根ざしている仏教によって国と人を安んじるべきである」と主張していた。これが龍馬の生前、唯一出版された書物であった。

 これを踏まえて鬼塚氏はこう説く。

 「私は、イギリス公使のパークス、そして外交官アーネスト・サトウが、この『閑愁録』を読み、坂本龍馬を危険人物と見なし、島津久光に「殺害命令」を出し。西郷隆盛と大久保利通がこの命令に応じ、吉井幸輔が動いたと見る。そして吉井幸輔は『閑愁録』を手にし、高知の土佐藩に入り、後藤象二郎と山内容堂に坂本龍馬なる人物の危険性を説いたと思う。」

 ちなみに、土佐藩主・山内容堂は隠れキリシタンであった。

 「サトウは西郷隆盛と後藤象二郎を動かした。そこで智者桐野利秋がプランを練り吉井幸輔が実行の責任者となった。吉井幸輔は後藤象二郎に会った。後藤象二郎は山内容堂が隠れキリシタンであることを知っていた。山内容堂は『龍馬のみならず慎太郎も殺せ』と言ったにちがいない。後藤象二郎は福岡孝悌と谷干城を呼びつけ作戦プランを説明した。

 こうして慶應三年十一月十五日、龍馬と慎太郎は暗殺された。これが私の結論である。」

幕末、イギリス人やユダヤは日本をキリスト教化しようとしていた。だからキリスト教を否定する人物を危険視し排除していった。英国やユダヤが単に、開国と貿易を求めていたなどとする、官許歴史は間違いである 。

幕末に、藤田東湖や吉田松陰らはキリスト教を排撃したが、みんな亡くなってしまった。そして維新後、重臣どもはこぞってキリスト教に改宗していく 。

 維新後、隠遁した山内容堂は酒と女と風流の日々を送り、明治5年に死去する、その翌明治6年に、キリスト教禁制の高札は撤去され、各県で禁獄されていたキリシタンは釈放される。

 と同時に、それまでの古神道とは縁もゆかりもない神道国教化政策が始まる。廃仏毀釈運動は、慶應4年3月から始まり、明治4年ごろの終息まで続いたが、土佐藩では苛烈で、寺は破壊され坊主は追放された。

 鬼塚氏はこう語る。「廃仏毀釈、国家神道、キリシタン禁制の高札撤去は、日本がヨーロッパの奴隷国家となっていく道程なのである。」と。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2014年01月11日 08時43分09秒
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