シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年02月03日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 先日テレビで「ゆとり教育は間違いか?」を討論していた。この討論を行なう以前に、教育は押し付けではなく、ゆとり教育は、それ以前の詰め込み教育の反省からでてきたということを考えないと、お互いの相違点を理解しあうのではなく、自説を相手におしつけようとするだけの議論を永遠と繰り返すのをみせつけられることになる。

 繰り返しの議論がつまらなくなれば、視聴をやめたらいいというだけの代物に代わり、オカルト的に、教育を考えてみる。

 まず、詰め込み教育がどうして生まれたのか、そして、詰め込み教育の弊害から、ゆとり教育がどうして生まれたのかを、自説で相手を論破する以前に、教育者は研究しないといけない。両者が補完し得るものであるとする認識もない。他者を教える前に、教える教育の質の長所と短所を充分に理解することが教育者の義務である。

 それよりなにより、両者の長所を取り入れ、両者を選択できるようにもなぜ考えられないのかも、不思議におもう。お互いの欠点だけを批判するだけでは、後戻りするだけであろう。

 私が知る限りでいえば、詰め込み教育の長所は、基礎学力がつくことにあり、ゆとり教育の長所は、好きな科目に集中できるという点にあると思う。つまり、両者を使い分けるカリキュラムを考えればよいのではないだろうか。

 一見すると、詰め込み教育は広く浅く、ゆとり教育は狭く深くの違いがあることがわかるが、これは教育を唯物論的に、人を型にはめるものだと考えているためで、実は、個人の立場から、必要な理解や技術の獲得のいわゆる自己教育の進み具合の立場から考えると、同じであることがわかる。

 つまり、個人個人の進み具合による。例えば、数学を楽しむには、公式をある程度知らないといけないが、公式に親しむには人それぞれの個性を考えないといけない。勿論、数学なんぞを、わざわざ苦しんでまでも楽しみたいと思わない生徒もいるだろう。その際に、重要なのは、生徒の態度ではなく、オカルト的にいえば、実は数学教師の数学への態度にある。

 数学教師が数学を楽しいと思わなければ、少なくとも生徒が楽しいと思えるわけがない。生徒というのは、数学そのものよりも、数学の先生の個性に影響をうけるからだ。

 シュタイナーが説いているように、肉体はエーテル体に、エーテル体はアストラル体に、アストラル体は自我に影響をうけるから、生徒は、教師の数学への姿勢に影響をうける。



 例えば、数学の先生が憧れの対象であれば、どんなに詰め込み教育をしても、生徒は先生のようになりたいと思っているから、自主的に受け入れるはずである。逆に、見下す対象ならば、ゆとり教育をしても、全く受け入れる余地はないだろう。

 まずは、生徒の目線にまで、教師は降りていかなければいけない。

 教師は数学が使えると色々なことがわかり、楽しいことをみせつけないといけない。数学の世界の楽しさを生徒の目線で表現してやる必要がある。時には数学に命をかけることもあることを教えないといけない。命をかければかけるだけ自分も生かされるからである。

 教師はすでにある程度の学力を開発しているので、まっさらな白紙からはじめるのは苦痛の何者でもないだろうが、学力の再確認にもなる。学ぶ姿勢は個性によるので、稀に生まれながらの天才(前世で獲得した学力)を発見するかもしれなく、ただ現代にどう表現してよいかわからない場合もある。

 学ぶ姿勢とは、真実を探求する方法であり、どうしても個性によらざるを得ない。他者からみれば到底理解できない方法もあるから、価値観の押し付けはよくない。

 しかし、一人一人の個性に応じるには、どうしても経験豊富な教師の数を増やさないといけない問題に遭遇する。例えば、フィールズ賞受賞者などの第一線での数学者を現場に一時的に呼ぶとしてもカネがかかるわけである。

 このように考えていくと、詰め込み教育の弊害が、現場での、どうしても教員の数が少ないことから生じてきたことがわかる。つまり、教員数を増やそうとせずに、ゆとり教育で誤魔化してきたことがわかる。結局、教育行政の問題にあることがわかる。

 しかし、現代はネット環境で、わざわざ第一線の研究者などを現場に呼ばなくても、生徒側が興味をもてばいくらでもアクセスできるような時代になっている。ヴァーチャルに、研究者の姿勢が伝わるのかという問題も考えないといけないが、ゆとり教育を行なうには十分な教材がある。

 そこで、より教育をオカルト的に考えるのによいシュタイナーの話を抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

14歳からのシュタイナー教育

全人教育(改変)

 教育者はなんらかの教材をこなすだけでなく、特に子どものこころとからだの関係に注意を払う授業ができなければならない。

 「人間であること」に常に意識を向けなければならない。人間を全人として受けとめ、睡眠中にも非常に活発に生きている存在であることを知っていなければならない。

 睡眠中の働きを顧慮できず、できてもせいぜい睡眠時間の注意しかできないのが今日の授業態度である。授業で学んだことは、睡眠中にも作用し続ける。このことが理解できていない。

 すると、どうしようもない結果が生じてしまい。すなわち、睡眠中のこころが、からだの外に出ていくことを無視することで、人間をロボットにしてしまう。

 今日の教育と授業は、多くの点で、人間性の育成の教育と授業ではなく、人間ロボットの異様な形態を育成する教育と授業で、その典型が上級公務員採用試験制度などである。今日では全教育が本質的に上級公務員試験を目ざしている。



 (ただ組織の歯車として、少数の上位者の言いなりになればよいという発想。この発想は、キリストがもたらした自我意識とは異なり、反キリスト的でもある。)

 このことは、起きている時の人間にだけ、教育者が眼を向けてきたことに基づいている。そもそも教育者は、人間の霊性を否定することで、眠ってから起きるまでの睡眠中のことを何も考えようとしなくなった。

 近代哲学では、このことが愕然とするほどに、デカルトにもベルグソンにもあらわれている。いずれの哲学者も、自我を人体のなかで継続するものと主張している。人体のなかにだけある自我に常に眼を向け、自我の中に現実を見つけるべきである、という。

 しかし、はっきり次のように問いたい。

 「人間は眠りはじめると、人間という活動的な存在をやめ、起きるときになって、やっと再び活動的な存在をはじめるのか?」と。

 というのは、睡眠中、自我を、人体のなかには見つけられないからである。その間の自我は人体内には(この世には)存在しない。

 だから、デカルトやベルグソンの主張する人間という存在は、「私は思考する。故に私は存在する」ではなく、「私は1867年6月2日の朝6時から夜の8時まで思考した。それ故、私は、この時間内にだけ存在した。次に私は翌日の朝6時から夜8時まで思考した。それ故この時間内にも存在した。」となる。

 このような立場では、人間という存在は一貫性をもたなくなってしまう。睡眠中の人間の存在を無視しなければならなくなる。けれども、このように考えようとはしない。というのは、起きているときに考えた様々な理念や抽象概念だけを真剣に受けとるために、根底にある人間の本性の事実を真剣に受けとろうとしないからである。

 教育を行なう授業は、この睡眠中も人間は活動しているという「現実」に向き合う時にはじめて、「人間」が教育できる。立派な教育制度が作れるかどうかを心配する必要はない。「人間」として教育された人間が、人間の教育を行なう制度ができればいい。

 独立した精神でなければならない理由は、まさに、このような現実の中に見つかる。教育制度は国家がつくってくれるのではなく、人間の教育の結果として生じる。精神は、国家や経済の付属物ではない。人間の精神は、自分の中から自らを発展させていくべきものだからである。(P69-P71)

音楽と想像力

 想像力が乏しく、イメージの浮かび上がりにくい子どもには、なるべく楽器の練習をさせるとよいだろう。一方想像力の豊かなイメージに悩まされがちな子どもには、その極端な場合にも、なるべく歌唱の練習をさせるとよいだろう。

 もし同時に一緒に演奏したり歌ったりできれば、-そのためには音楽室が必要になるが-最高だろう。音楽に耳を傾け、そして同時に音を出すことができれば、子どもの心は調和される。(P86)

現代教育の実相

 人間の内面(精神)生活にとって、教育はまったく不必要なものになってしまった。今日の教育は、せいぜいのところ、外面的な人間関係に秩序を与え、機械的に人間を働かせるために役立っている。現代人は、そのように働かされるための準備を受けている。人間として必要なものは、そこから受け取れない。教育は血や肉の中に入っていかない。

 現代の教育は、もっぱら知性だけに留まっている。感情と意志のためには何も役に立たない。教育上、子どもに良い影響を与えようとすると、せいぜいお説教するしかない。外側からあれこれ言うしかできない。しかし内(精神)的な働きかけは何もできない。

 だから、今日、若者たちの前に立つときには、大人側の恐るべき虚偽が働いている。良き人間にならなければならない、と大人は言うが、良き人間であり得るための何かを、若者たちに与えてはいない。

 (悪いことをしても責任をとろうとしない。原発再稼動問題は、この典型である。悪しき社会制度をつくりながら、良い人間を求めている。大人たちの贅沢で退廃的な生活のために、若者を犠牲にしている。)

 若者たちはただ、権威に従うように、大人に従うことができるだけである。高齢になるまで、サーベルをつけた姿で若者たちに向き合おうとしている。もしも若者たちが従おうとしないのなら、いつかは警察の力をかりなければならなくなる。大人たちが言ったことを、警察の手で実行させようというのである。

 人間の内面(精神)生活に何の役にも立たない頭だけの認識では、若者たちに手を差しのべることができない。こころとからだを相互に関係づけなければならない、この重要な人生の一時期の若者たちにである。

 生きるために、こころをからだと結びつけようとしている若者たちに対して、何をすることができるのか?

 どうぞ、この問題をよく考えてみてほしい。いまは、主として、大人たちの感情を呼び覚まそうと努めた。この問題は世界全体の問題でもある。特別に重要な一時期を迎えている子どもの魂への通路を今見つけなくてはならない。(P138-P139)

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。  





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Last updated  2014年02月03日 13時37分28秒
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