シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年02月07日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

 真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。1つは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもう1つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言う他はない。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものだった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝〔ワシントン時間〕に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。

●14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。

●7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。



 14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。

 だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。

 この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。

 まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか――などである。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。 外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである 。おそらく真相は後者であろう。

 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。 吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のもう一人のフリーメーソンであった 。

当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した 。

 (こいつらが本当の戦犯で、裁かれるべき屑である。)

日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない 。

不徹底な攻撃で米国を助ける

 ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。

1つは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もう1つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである

真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである 。

 (大本営発表も米国のシナリオに沿って進められたことがわかる。大本営の連中のほとんどがメーソンだったことからもわかる。)

また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである 。

 (連中のほとんどがメーソンのようである。)

 もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。

 ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。 ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば 、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。

 さらにもう1つつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのは1つの説明であるが、山本長官が、 この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう 。

 (12月8日は、「聖母被昇天の大祝日」に当たるそうである。これには以下のような話があるのでここに抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 もし第二次大戦が仕組まれたこととして、 戦後の日本の支配をカトリックに委ねる計画であったなら 、これから述べる3つの日にちの一致も十分納得できます。

 カトリックの司祭である志村辰弥氏著「教会秘話」によれば、戦争を開始した日本時間の 12月8日は、カトリックの「聖母マリヤの無原罪の祝日」に当たるそうです 。〔プロテスタントではマリアは無原罪ではありませんが、ここではそれ以上述べるのはやめます。〕

 そして 戦争の終わった8月15日は、「聖母被昇天の大祝日」に当たるそうです 。さらに 1951年のサンフランシスコ講和会議の調印式が、「聖母マリアのご誕生の祝日」に当たる9月8日に行われたといいます 。

 実際に カトリックは、1949年に行われた「ザビエル渡来400周年記念祭」に向けて日本をカトリック化しようとしたらしいです 。

 (カトリック化というよりは、メーソン化、イルミナティ化だろう。)

 その手法は、同じ年に行われた昭和天皇の九州巡幸において、天皇とカトリックを強力に結びつけるというやり方だったようです。しかしこの計画は失敗しました。〔このことに関しては鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」に詳しいです。〕

 日本はクリスチャン人口が非常に少ないため、キリスト者の背教についてほとんど分かりません。しかし欧米では教会活動は形骸化され、本当の信仰者が少なくなったといわれています。ルシファー教というのに気づいていないだけ、ルシファー教信者が減ったのは良い傾向である。

 ☆  ☆  ☆)

山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである 。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2014年02月07日 12時54分14秒
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