シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年05月08日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 最近矢鱈と「日本は世界一」という自画自賛番組や日本人がいうのを聞くと、かつての「アメリカイズナンバーワン」を連呼して得意気になっていた嫌われ者アメリカ人を彷彿とさせる。自慢バカはどこの世界でも嫌われることが全くわかっていないのだろう。

 しかも滑稽なのは外国人にならまだしも同じ日本人に自慢している愚かさにある。自慰と同じである。海外では単一民族国家というのはほとんどなく、もちろん、本来の日本も多民族国家なのだが、建前上統一されたことになっているだけであるから、海外の日本人の活躍をもって、国内の日本人の優秀さの証明になるような感覚は恐らく(明治以来の)日本人独自のものだろう。大体環境が全く異なるからである。

 どうも日本では個人主義よりも権威主義が強いように思われる。外国人がきて最初に思うのは、日本人の個性のなさである。日本文化は個性的といわれるが、それは個性というよりも異質という意味に近い。悪い意味でいえば奇妙なんである。奇妙だから、外国人の、特にオタクには好奇心がそそられるわけである。

 奇妙さを逆手にとって主張することも一つの個性なので、良い意味で、実践的になればいいが、それを口先だけで自慢するのはアホ総理と同じで愚の骨頂なわけである。ピエロというべきである。

 さて自慢する前に自分たちがしてきた行為を反省すべきであろうと思うので、奴隷史ともいえる日本史を紹介する。

 ★  ★  ★

奴隷日本人秘話

 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。

 しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」



 この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。

 だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。

 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」

 といった実地にみた大村由己の『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。

 由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。

 だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。

 そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。

 そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは日本人だというのもそのせいかもしれない。

 さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。

 また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。

 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。



 この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。

 さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。

 「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」

 「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。

 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。



 その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。

 さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?

 ということになる。

 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。

 つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。

 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。

 そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。

 つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。

 五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。

 それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。

 というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。

 真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。

 器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。

 しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。

 よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。

 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。

 判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。

 さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。

 ★  ★  ★

 平和には権威主義なんかよりも個人主義やなにより自由が尊重されるべきなのである。奴隷なんかつくる権威主義は、人間を獣化させるだけである。





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Last updated  2014年05月09日 10時18分06秒
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