シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年05月14日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 毒舌を吐かない芸人は死んだも同然だと私は思っているから、芸人は毒舌吐きに限る。はだかの王様を、はだかだと言った少年のような心意気が必要なんである。

 しかし最近はCMという金銭のやりとりでTV局を買収し、毒舌吐きの芸人を干してしまうから学問もへったくれもありゃしない。金銭を使って差別がつくられる。

 出鱈目日本史に限らず、人間の歴史は差別の歴史といってよい。いまだって差別がつくられている。それは国会議員のアホブタたちをみればわかる。貧困に襲われている人達がいるのに見て見ぬふりで挙句の果てには説教を食らわす始末である。

 金持ちが天国にいくのは針の穴にラクダ(綱)を通すよりも難しい

 とキリストもいっているのを誰もがご存じだろうが、金持ちを続けるアホ豚が多いのはキリストの言ったことを理解していない馬鹿ということである。

 何がキリスト教なんであろうか、この世でもっとも金持ちがバチカンだから、あいつらは地獄いきである。あんな悪魔たちを崇めているアホが多いから戦争がなくならないのである。

 人類はいつから悪魔の奴隷に堕ちたのか?

 というわけで、八切史観の紹介を続ける。

 ★   ★   ★

輸入カースト制度(改変)

 現在、日本の歴史がさっぱり判らないまま、通俗史でごま化され、まかり通っているのは明治軍部が国民を戦争にかりたてるため、「大和民族は一つである」としたせいだが、原住系、騎馬系、船舶系の三つは歴然と分かれている。

 しかし明治からの発想では、


 「日本=関釜連絡船=朝鮮=満鉄=満州」

 だからして、これまでの日本の歴史というのは、『魏誌倭人伝』や、その百三十年後の『後漢書』にでてくる『耶馬台国』とか後者の『耶馬壱(ひと)国』ばかりを問題にし、天孫民族の渡来を朝鮮や中国に搾るが、これはどうであろうか。

 肝心なことは日本が島国であって、日本海域には年二回にわたり季節風と貿易風が交互にふき、蒸気機関が発明される前はそれで航海し、織田信長の時代には「天川船」とよばれたマカオ堺間の定期航路さえ、厳然としてあったということである。

 陸路で印度までの交通は大変だが、海路なら簡単だったことは、だるま大師ばかりでなく多くの印度のヒンズー教徒が、日本へきている例でも判る。これらの古記録はかなりある。

 [これは前にも書きましたが、八切氏の勘違いで、天竺(インド)人一般はともかく、達磨大師個人(架空の人物という説もある)は、来日していないようです。]

 つまり先住民族で戦いに負けた者を「賎民(シュードラ)とし、奴隷(エターラ)」の扱いをするカースト制度が日本へ持ちこまれたのも、ヒンズー教徒によるものだが、想像以上に海上の交通は多かったらしい。が、これを歴史屋さんは調べていない。

 インド航空にのると、ヒンズーのミセスは額に朱丸をつけているが、奥地へゆくと今も男も子供まで眉間に二つ丸をつけている。

 色は黒いが、昔のお公卿さんや牛若丸なみである。



 これがはっきりすると、原住民族はサラセンと明白になるのだが、おそらく日本の歴史屋はついてゆけず黙殺の一手をとるだろう。

 (どうやらイランの北方のツラン民族が起源らしい。)

 サラセンといえば、カスティーリア王フェルディナンドと、アラゴン王女イサベラが結婚。サラセン最後の根拠地だったグラナダを落しスペインを白人の手に取り戻したあと、サラセンの血を残した連中がグラナダの近くの山肌に匿れ、今も穴居している。

 この連中がフラメンコをもって、世界各地を流れ歩いているのだが、彼らの間で「ヒターノ」「ヒターナ」とよばれる部落の男女が年頃になると、本人同志には無関係で族長どうしで、グラナダのサクラモンテ祭りの時に出逢って結婚の話をとりきめあう。

 そしてまったく一方的に、同族だからと次の祭に見合いをさせ、すぐぶっつけ本番で結婚させてしまう風習が、今でも堂々と続いている。



 今では写真で選びそれから実物鑑定だが、昔はジプシーなみに双方をいきなりつれてきて、三々九度というやり方だったらしい。

 これは何故かというと、日本原住民系には「他民族と通婚同火はしない」というタブーがあったから、同族どうしならよいではないかと、民族の血の純潔[純血]を守るため、本人の意志など問題にしなかったせいであろう。

 またアメリカを征服した白人が、有色人種の血が混じった相手とは結婚したがらなかったように、船舶民族の天孫系も、騎馬民族の後裔である原住民との婚姻はやはり避けた。

 「どこの馬の骨かわからん」という台詞は天孫系のものだし、これに反して「馬にはのってみろ、人には添ってみろ」「ウマがあう」というのが原住系である。

 一つの日本列島なのに、この両者は頑固に戦前まで通婚は一切していない。いわゆる「身許調べ」とか「血統改め」というのも、なにもレプラ(ハンセン病)とか精神病とかの調査ではなく、これは天孫系か原住系かの日本列島における民族区分を確かめあうことであった。

原住民二分説(改変)

 さて原住民というと、常識的に「弱小民族」「滅びゆく民族」という感じがするが、どうも、この日本列島ではそうではない。

 「書紀」四年、つまり斉明四年(658)というのは、飛鳥文化から大化の改新が終った頃だが、船師百八十隻をもって天孫系は

 「阿部引太の臣、比羅夫は有間の浜にエミシを集め大いに饗応して帰す」

 「翌五年三月、再び比羅夫は北征し能代や津軽のエミシと共に、秋田のいぶりのエミシも招いて、おおいに馳走を振舞って帰した」

 といった事例のように、七世紀までは懐柔策をとり、人的資源を大切にした。これは、いつの時代何処でも同じように、占領軍は原住民より数が僅少であったせいだろう。だからして今でも日本人口の半分以上は原住系で占められていたわけでもある。

 さて、原住民の中で御馳走政策につられ、「へい、よろしゅうに」と天孫系の奴隷になっていった連中は、どうなったかというと、

 「延暦六年(787)正月二十一日付」の「太政官符」には、「聞くがごとくんば、王臣及国司らは、彼らの馬や俘囚の奴婢を争うて買う」

 といった有様で、『日本後紀』などに、「田夷」という名称で現れてくる。つまり、「ど百姓」という侮称は今でいう、土の「ど」でなく、奴隷の「ど」であった。

 この名残りは明治初年まで続き、彼らドレイの子孫は寺を「だんな寺」とよばされ、そこの人別帳に生まれた時から記入された。そして田租や助郷とよぶ労役を課せられ、その田畑をもし放って、みだりに他国へ行こうとすると、「逃散」の罪で死刑だった。

 もちろん俘囚の中で身体壮健な者は、壮丁として軍役にまわされ、これが武士の始まりとなる。だから俘囚の末の武家と公家が仲が悪かったのも、遠くはここに起因している。

 さて、原住系といっても、ご馳走につられず頑張った連中も、かなり多くいる。

 だからレジスタンスをして殺掠されたり捕まって、「別所(さんしょ、いんだい、いんぢ、地方により呼方が違う)」へ送られたのも多い。

 「太政官符の延暦十九年(800)二月」

 「俘囚キミコベタカリ女、同ルシ女らまだ野心を改めず賊地に往還す、よって、党類と共に身を禁じ陸奥より土佐国に配す」

 とある。

 交通機関のない時代に、わざわざ遠くの方へ送られたという事は、いかに彼女らの率いた部族がドウモウだったかということになる。

 平塚雷鳥が「太古の女性は太陽だった」と昔いっていたが、原住系は女上位で、こうした女将のことを「かみ」とよんでいた。

 今でも水商売などで、男性を手軽に「男しゅう」などとよぶ所では、この言葉は生きていて「おかみ」などと呼ばれ用いられている。

 さて、こうした反抗原住民は、山間僻地の捕虜収容地へ入れられていたが、「文治革命」とよばれる源頼朝の時に一斉に蜂起した。しかし北条政権によってまた山へ追われてしまい、応仁の乱の人手不足に、ようやく人買いの手で、また平地へおりてきたのが、映画「祇園祭の時代」ということになる。

 これは珍しく原住民制度を扱っているもので、みた方も多いだろうから、違う点をあげつつ、これを解明してゆきたい。

 ★   ★   ★

 漫才も原住民から生まれたようである。





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Last updated  2014年05月14日 12時57分26秒
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