シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年06月24日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切史観によれば、本能寺の変の直接の実行者は斎藤内蔵助利三であることを前回紹介したが、タイムリーというべきか、ヤフーに、以下の話が掲載された。

本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願”「四国攻め回避」説を補強
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140624-00000088-san-soci

 確かに、四国攻め回避説も、信長暗殺の一要因ではあるが、八切史観によれば、実はこれだけではないことがわかる。四国攻めの大将は信孝とその与力の丹羽長秀なので、利三とは直接関係がないからである。だから、八切氏は、利三と通じるには丹羽長秀が怪しく、長秀も信長暗殺に加担したものと推測している。

 丹羽長秀が信長に怨みをもつのに充分な証拠もあるという。それは秀吉の代になって、大出世したことでもわかる。八切氏によると、長秀と秀吉との間には秀吉の正室の寧々が一枚噛んでいたそうである。

 さて、現在の通説と大きく異なるのは、斎藤利三は、通説では明智光秀の家老とされているが、信長から光秀に配された与力であって、光秀配下ではないことである。明智左馬助秀満などとは違う立場なのである。

 だから、八切氏によると、利三の命令は、信長の命令であって、光秀の命令ではないと、命じられた方は受け取っていたはずだという。

 また、本能寺の変の当時には、光秀は愛宕山にいたアリバイがあり、光秀が率いれる兵は多くて3千程度らしく、本能寺を襲った兵は1万三千ほどなので、光秀一手では不可能な兵数らしい。

 利三が率いた1万三千の兵は、実は家康を殺すための兵だったそうである。実際、兵たちは家康を殺しにいくものと思っていた証言も残っていて、イエズス会の史料にも、信長が、近く、三河の王を撃つから、三河から出たほうがよい、という記述が載っているそうである。



 信長の死すら定かでないときに毛利と和睦できた秀吉の中国大返しの謎も解けるし、家康は、利三に恩を感じていたのか、その娘のお福を春日局にして、自分とお福の子の家光に、わざわざ秀忠を隠居させ、織田の血をひく国松を排除し、徳川政権を継がせている理由もわかる。

 光秀は逆に信長の忠臣で、本能寺の変後、信長の消息を探していたそうだが、朝廷から京の治安維持を依頼され、とりあえず朝廷警護に向かったそうである。この辺の朝廷の動きも怪しい。そこへ西から秀吉軍がやってきたので、合流するつもりが、秀吉側が光秀を謀反人と決めかかり、討伐してしまったそうである。

 その後、清州会議で、秀吉らは、光秀謀反を主張するが、勝家らは、奇蝶謀反を主張し、結局勝家の説が採られ、奇蝶を安土城とともに焼き払った信雄が信長謀反討伐の第一等の功績とされ100万石を領し、血筋から信忠の子三法師を跡取りとしたという。当時の史料をみれば、奇蝶が首謀者とする説が主流だったそうである。これは織田家の跡取りを道三の力で得た信長について奇蝶の立場から考えればよくわかる。


 このように八切史観は通史とは全く異なるので、続けて紹介する。

 ★   ★   ★

天下の秘密

亀山内藤党

 美濃御前、奇蝶姫や光秀の娘の於玉は信長殺人事件の悲劇のヒロインともいえるが、全く反対に、これによって幸せになった女も当時はいたのである。

 勿論どんな素性の者だったか、三十万石の太守の北の方になったから名前は伝わっているが、彼女のその他は判らない。

 さて、「どえらいことをやってるでぇ」と、しょっちゅう口癖にしている男とは、彼女も聞いてはいた。まぁ評判たつ男ゆえ顔を知っていた。



 そして、あろう事か、大道の真ん中で、「噂にきいたより、こりゃぁ ええ女ごじゃ」とどなられ、「嫁に所望」と喚かれた。恥ずかしさに佐伊子は真っ赤になり逃げ出そうとしたが、動転し息づかいも苦しかった。

 それなのに無遠慮な大声で、両手をひろげ、「この城の内藤党の娘ッ子の中で、そなたのような掘り出しもんがあるとはしらなんだ。他人にとられては損をする。はよう嫁になれや」とはやし立てていた。黒い顔が烏みたいに無気味で、ギャァギャァ耳へ響いてきた。

 佐伊子は狼狽し、どうしてよいかわからず、動機打つ胸をこわばらせながら、「お許し下さりませ」とわびを入れた。それなのに相手は、「いや許しはせぬ。あくまでも俺が嫁にする」と大手をひろげて立ちふさがった。

 「そんな御無体な」と佐伊子は蒼ざめ震えながら後ずさりした。海老蔓の赤黒く染まった叢に足をとられかけると、のしかかるように黒い顔が迫った。「あれえっ」と悲鳴をあげようとしたが、口をあけても声どころか唾も出なかった。(嫁になれ)とは何をされるのかと震えた。ワンワン泣いてしまおうとは思ったが、声が出ないのではと諦めたが、癪だった。どうしてくれよう‥‥

 (こない暴れ馬でも押さえこむよう両手を拡げてかかってくるのなら、こっちも蹴たぐってやろうかい)と、膝頭に力を入れた。爪先を縮めた。そして、男の急所とはどの辺りかと眼を注いだ時、ダアアンと大きな音がした。



 弥市は固唾をのんで立ち上がったが、「大事なとこ‥‥見えるで」名残り惜しそうに言い残して、またばた櫓下へ向かって駆け出した。

 「‥‥何が見えるんじゃろ。もう敵が近いのか」佐伊子も叢からぴょこんと跳ね起きたが、弥市の後ろ姿はもう小さくなって見えた。

 (いやな奴、虫酸がはしる)

 佐伊子は唾を吐こうとしたが、嘔吐までもよおしてきた。「あんな男、死んでしまえ」口中で罵った。

 (あいつが普段言いふらしている『どえらいことやったる』とは、かねて懸想していた自分に言い寄ってくることだったのか‥‥)佐伊子は呆れて腹が立った。「ずうずうしい不快な男」と、悔し涙を溜め、誰があんな奴の嫁になるものかと誓った。

 そのうちに弥市の後ろ姿は見えなくなると、佐伊子の気持ちも軽くなり、(あないに想いを寄せ、男がのぼせるほど、私は好い女ごじゃろか‥‥)と心が疼いたが、あんなあつかましい弥市では御免じゃわえと首を振り、大きく溜め息をした。

 さて、この天正五年十月十六日の昼下がりから、丹波亀山城は三日三晩にわたって、明智光秀と細川藤孝の軍勢に猛烈な攻撃を受けた。

 これは今を去る四年前、足利十五代将軍義昭が織田信長と戦うにあたって、亀山城主内藤定政を招き、定政は内藤党四千をもって二条城を守りとおし、さすがの信長も攻めあぐみ御所へ頼み込んで、時の関白二条晴良が、勅名にて和解させた時の復讐なのである。

 つまり、「丹波亀山党の名が天下に喧伝された」のを、それからというもの信長は憎んでいた。

 だから定政が病死するや直ちに明智・細川に攻めさせたのだ。

 定政の遺児亀王丸は時に十歳だった。よって家老安村二郎右が内藤党の精鋭をもって旭山に本陣を設け、攻めかかる敵の織田勢を防いだ。

 「天正元年の二条城の仕返しを、今頃になってしにくるとは卑怯千万なり」

 城内は一丸となって戦った。曲輪外に住んでいた佐伊子達も城へ入って怪我人の手当をしたり、時には壁狭間の見張りに立ち、邪魔な女の乳房を固く胸板で締めつけ、矢を射ったり礫石を投げて一致協力して寄手を悩ました。だが、織田信長が向けてきた天下の大軍を迎え、孤立無煙の内藤党がいつまでも戦えはしなかった。

 それに寄手の明智光秀や細川藤孝というのは、もともと足利義昭の奉公衆で、永禄十一年七月に義昭を朝倉の一乗谷から美濃の立政寺へ移し織田信長に引き合わせた者共である。

 今は織田方になっているが、元は先代の内藤定政と同じ室町御所の出身である。そこで、「悪いようにはせぬから」と細川方から談合の使者が戦の合間に訪れてきた。

 「内藤亀王丸の一命は誓って助ける」と明智方も約束してきた。だから安村次郎右は、十月二十日に丹波亀山を開城した。

 当時、丹波攻めの総大将であった明智光秀は氷上、宇津の城を攻める為に信長から、この亀山城を貰い受け、坂本から一族を移し、これを明智の本城とした。つまり内藤党は安村次郎右以下一人残らず、この時から明智光秀の家来にされたのであった。そして佐伊子は弥市の嫁になってしまっていた。

 もともとはこんな筈ではなかったがしようがなかった。嫌だったが事情があった。

 「和平開城」といえば人聞きはよいが、内藤党は負けて城を取られ、家来にされた立場である。だから進駐軍の明智勢は城内の娘を担ぎ出し馬に乗せて行って嬲りものにした。

 なにしろ今までの城方の味方の武者奉行が、今度は敵方の女ご集めの奉行早変わりしてしまった。差紙をもって、「長屋うちの娘を、何名ずつ差し出すよう」と、女の出陣ぶれ。つまり娘の供出の世話やきをさせられる有様だった。

 佐伊子は怖じ気をふるった。間違いないうちにと、好きではなかったが木村弥市右の伜で別居している弥市の許へ縁づいた。つまりは災難除けの為である。

 ところが男というのは自惚れが強いから、弥市はまさかそうだとは思っていない。「そなたは俺の申し越しを聞き、喜んで嫁にきてくれた女ごじゃ。大事にしたるで」と悦に入っている。しかし、もちろん目にみえては何もしてくれない。銭のかからぬ、ただの口先だけの喜ばせである。だから佐伊子の方も釣り合いをとって、「わたしとて、お前と一緒になれて、こない嬉しいことないわえ」と、あまり手足は動かさず、唇だけを動かして機嫌をとっていた。

 というのは、なにしろ、(とかく男女の仲は互いに本心を見せ合ってしまっては長続きしないものだが、体裁ぶって相づちさえうっておけばうまくいく)と、佐伊子は母から教わってきたからである。

 それに、本当に好きならまさか恥ずかしくて「好き」とも言い出せないものだが、佐伊子は根っから弥市を好いていなかったから、その点はだいじょうぶで、あけくれ挨拶するように、「好き、好き」と平気で口に出せたのである。

 だが弥市はそれを耳にするたびに、にこにこしては、「俺は、幸せだなぁ‥‥」すこぶる上機嫌だった。「私だって幸せにござります」と、そこでものはついでということもあるから、佐伊子も付け足しを言っては、そっと相手の顔色を見物したものである。

 (男は不自由なもので、気の向かん相手では、にっちもさっちも身体が言うことをきかんそうだが、その点女ごは重宝にできとる)とは母に言われてきた事だが、全くそのとおりで、佐伊子は嫌いな弥市とも平気で過ごせた。

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 次回に続く。





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Last updated  2014年06月24日 16時45分50秒
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