シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年06月25日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き

 ★   ★   ★

 六月十七日になって、徳川家康が本陣を尾張の鳴海、先手の酒井忠次は木曽川の一宮まで三万の軍勢で迫ったと伝わった。伊佐子はびっくりして(さては 信長様を死なせた真の下手人が光秀ではなく内藤党と露見し、それでこの亀山城へ押し寄せてくるのか )と蒼ざめた。

 だが、秀吉方本陣まで出かけていき、戻ってきた堀尾茂助の話によると、「羽柴方から使者がたって、既に十三日に光秀を討ち、上様の弔い合戦は済んでござると知らせたら、未練そうに一日は滞陣したが、翌日には徳川勢はみな引き上げて行きおった」ということで、伊佐子はやれやれとほっとした。しかしである。

 ( 十二日からの山崎合戦でさえ十七日になっても尾張まで出陣してきていた家康の耳へ届かなかったというのに、よくも六月二日の本能寺の変が、遠い備中高松攻めの秀吉の耳へ、翌早朝に届き、すぐに毛利方と談判して至急引き上げて来られたものよ )

 と、すっかり感心させられた。

 だから、神様のような秀吉様に夫が仕えるならば、きっと天にまします神々の御加護もあろうかと、やっと佐伊子は愁眉をひらいた。



 一年おいて、天正十二年。小牧長久手合戦に出動すると、格別なんの働きもなかった父子なのに、倍額の加増を又も賜った。

 舅は「京町奉行」の大役を授かり、弥一右の名も「木村伊勢守吉晴」と改め、御所へ参内し従五位の上を賜り、弥市も「木村清久」と改名し、従五位下に任ぜられる果報な事になった。

 天正十七年には美濃の土岐多良の検地奉行を仰せつかって、二月ほど出張して戻ってくるとまたしても父子に千石ずつの加増の沙汰があった。次々と加増されていったので、佐伊子もあっという間もなく三千石の奥方になれた。

 その昔、夫が百貫どりになってどうにか生計が立つようになった時、欲しがっていた木綿の反物がようやく贖え、とても嬉しかった覚えがあるだけに、「‥‥だから、あの頃が今よりよかったえ」とそれでも佐伊子は愚痴を洩らし続けた。

 凧が天へ上るみたいに次々と加増されるのを初めは喜んでいたが、しまいには迷惑しきっていた。なにしろ佐伊子の手本は亡くなった母である。蕪(かぶら)大根一本を求めるにしても、向こうの辻の店屋へ行けば少しは安いと教われば汗をたらしながらもそこまで買いに行き家計の切り盛りにうきみをやつし、やりくりして世帯をたてるのに専心した母親しか、佐伊子としては見ていないし、手本として真似するのを知らないのである。

 そこで、「家計の切り詰めはできるが、派手には使えぬ、どないしよう、ついていけぬ‥‥」と悲鳴をあげた佐伊子は贅沢だが、本人にしてみればいい迷惑だった。なにしろ亀山城にいた頃なら、着物を作り他家の嬶どもに見せびらかす楽しみもあった。

 だが、三千石の奥方となり、まさか隣屋敷へ衣装の披露にも出向けはできない。といって、相変わらずけちけちしているものだから、銭や銀は溜まる一方で、何の使い道とてないのである。それなのに難儀している矢先、舅の木村吉晴が若い妾を一度に五人も持ったという話を伝え聞いた。

 (父上も百貫武者から今は五千石。やはり金の使いみちに困られて、あの方に精を出されるのじゃろ)と、自分に引き比べて、佐伊子はいやらしいと思うより同情した。だが、考えてみると、「瓜の蔓に茄子はならぬ」ともいうし、血統ということもある。「もしも、夫が父の真似をし、妾など持ったらどうしよう」と思うと胸が鼓動し、血沸き肉踊って、しまいには目眩しそうになった。

 そこで、これを防ぐには派手に金をなくすしか途はないと考えた。とても飲み食いや着るものぐらいでは、余っている金銀の処分法にはならなかったからである。思案した挙句、「聚楽第の理休屋敷へ伺候して、茶事を嗜みとうござりまする」と夫に相談した。

 「俺は白湯を呑むのさえ薪代を考えて勿体ないと思うとるに、あんな苦い茶なんぞは‥‥」と勿論初めは反対された。だが、半月程すると、夫は考えが変わったのか、「身分とか格式というものを考えると、上流の者として、やはり茶湯はしたがよかろ」と許可がやっと出た。

 佐伊子だって苦い青茶が啜りたくて茶湯を志したのではない。狙いは銀何十匁などといわれる茶道具の類である。だから入門して二日目に、「ひとつ、茶碗を譲って下されませ」と眼をつぶりたい心地で勇気を出してみた。



 だが、我慢して(銀が余って夫に女道楽されるよりは、ましではないか)と自分に言い聞かせた。なにしろ大事の前の小事だからである。

 次々と佐伊子は銀を運んでは古ぼけた茶碗を、せっせと買い求めた。そこで、「茶とは飲むもので、そなたのように碗ばかり集めるものではなかろうが‥‥せっかく立身し、余裕もできたものと安心していたに、思わぬ道楽をされ蓄えがないとは‥‥」と夫の弥市は妻の道楽にすっかり悲観した。

 というのは天正十八年、小田原征伐の陣ぶれが出て、仕度しようと銀櫃を開けたら空だったからである。父の方も女道楽で銭なしだったから、新たに武者を傭って恰好もつけられなかった。

 やむなく父子合わせて荷駄人夫共五十名あまりな貧弱な行列で、人目を避けながらコソコソと夜陰にまぎれて出立していった。

 見返った佐伊子は安心して、「あれならば、まさか今度は御加増の沙汰などはあるまい。また増えられては困る」と唸った。ところが、それなのにとんでもない事が起きた。



 小田原から使いに戻ってきた家来に、佐伊子は柳眉を逆立て頭へ血の道を上げて驚いた。「いや、驚かれるのはごもっともなれど、正真正銘。奥州の大崎葛西十二郡三十万石を拝領なされましたのです」という言葉に、「そんな無茶な‥‥」と佐伊子は睨み据えていた。

 「はい、御存じの如く小田原城攻めは長期間になりましたゆえ、千の理休宗匠も向こうへ招かれ、陣中に茶亭を設けられました。そこで、『当代、茶湯に志す数奇者も多いが、木村様の奥方の如く茶器に目が効き、逸品とあらば金銀を湯水のごとく投じても購入される名誉な方は、天下広しといえど二人といやしない』と、大いに宣伝をなされましたので」と家来は告げた。

 「‥‥まぁ羞しや」と佐伊子は自分の事なので顔を赤らめると、「あまりにも評判が高くなったゆえ、こちらの殿様も知らぬ顔もできず、理休様の茶室へ顔など出されとりました。が、さて六月五日になって、奥州から伊達政宗殿が出てまいり、これが遅参のために倉へ閉じこめられましたところ、退屈しのぎか理休宗匠に入門を乞い、その相伴衆にと宗匠から推挙になられたが、こちらの殿様でござりました、はい」

 「‥‥それで」

 「伊達政宗殿は命は助けられましたが、勝手に切り取りした土地は没収と決まり、その受け取り奉行に選ばれましたのが関白様妹婿にあたる浅野長吉殿と伊達殿の御推挙の此方の殿様のお二人。そこで黒川城へ赴かれた関白様が八月九日付をもって、旧大崎義隆と旧葛西晴信領を合わせ三十万石を日頃の忠勤を賞でられて下されたのでござります‥‥噂では、奥方様に茶器を沢山求めていただいた理休宗匠が、その礼心に関白様に立身の取り持ちをなされましたとか‥‥」

 「‥‥げっ」と、一声。佐伊子は卒倒しかけた。あまりの話に気が遠くなった。「私が考えも無う茶器などを、どんどん贖うたばっかりに、こない奥州の山の中へ島流しのような身になられ、なんとも申し訳ござりませぬ‥‥お許しなされませ」

 京から馬の背に揺られて二十三日。長い道のりに愕いた佐伊子は岩手沢の古川城へ着くなり、両手をついて夫へまず詫ごとをした。

 (夫婦円満な話は中略)

 が、二人だけの幸福は、その日一日限りだった。というのは翌十月十一日。

 中新田(なかにいだ)で暴動を起した旧大崎義隆の扶持離れした牢人共は、加美郡(宮城県)から志田郡の古川城をめがけ、鬨の声をあげて殺到してきた。たちまち城は一揆方に包囲され、鉄砲を烈しく撃ちこまれ、太い篠矢をびしびし唸りをあげながら射込んできた。何とも防ぎようもない。

 「‥‥小田原御陣から引き連れてきた我らの家来は、士分は八人で、他は足軽小者に人夫の五十名。それを十二郡の城に割り振りしてあるゆえ、この古川城とて僅かに三名。残りは皆現地召し抱えの土地者‥‥今押し寄せて来ておる輩と同じ旧大崎の牢人共じゃ。よって、いずれ城門を開けて一揆勢を入れ、我ら夫婦を狙い、ここへも間もなく踏み込もうぞ」

 と夫は眼を潤ませたが、「離れねば‥‥たとえ死んでも離れねば、女夫の途は立ちまするが」と不憫がってくれる夫に微笑をみせ鎧具足をつけた佐井子は、まるで腕を組むように弥市に寄り添い、薙刀を抱えて城門へと二人は進んだ。かなわぬまでも夫婦して戦うつもりである。

 米沢城の浅野長吉から早打ちで送られた「奥州の大崎葛西12郡暴動」の知らせは、10月28日に聚楽第の秀吉の許へ届いた。

 「‥‥ 人を見る目のある関白様も今度ばかりは大縮穴。なんせ五千石や三千石の者を一足飛びに三十万石に取り立てられては諸事不如意で、暴動になるは、こりゃ目にみえたこと 」と、お気に入りの側近の者が口を挟んだ。しかし、 横を向いたままで「それくらいは予想のついたこと‥‥」と秀吉は低い声で答えた 。

 「ならば、何故に?」と側近が尋ねると、秀吉は厭な顔をして、「 あの木村父子は行かしておくと支障がある。よって三十万石くれてやって、それで死花咲かせて棄て殺したまでよ ‥‥」と微笑んだ。しかし側近はわけが判らず首を傾げたままで、「また殿下には、いつものようにお戯ればかりを‥‥」などと言って、ピシリと扇子で自分の額を叩いて追従笑いをした。

 『信長殺しが秀吉の策略であることを木村父子が知っていたので口封じした。』

 俗に千の利休というが、彼と懇意だった「吉田兼見卿記」を読んでも、「理休」の名しか伝わっていない。だから利休とは死後につけ換えられた渾名でしかないと私(八切止夫)はみる‥‥のである。

 ★   ★   ★

 信長が死んで一番の利益を得たのは秀吉であるから、秀吉が信長殺しの一番の黒幕で、信長に信康殺しで命を狙われていた家康が次の黒幕と考えると本能寺の変が明らかになる。毛利と交戦中の秀吉が信長の死で休戦できるわけがない。毛利側も秀吉が信長を殺すことを知っていたのだろう。秀吉の信長への奉公話は秀吉の権力下でいくらでも捏造できる。明治維新の毛利政府も捏造だらけである。

 信長の妹の市が秀吉を嫌うのは裏切り行為を知ったからだろう。もっとも当時の常識からすれば、義昭は追放されたが、毛利家を頼りに朝廷と足利体制を築いていたから、反体制は信長の方で、義昭も毛利に匿われながらもしきりに信長討伐令を出していたことは容易に想像できる。





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Last updated  2014年06月26日 11時03分25秒
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