シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年07月02日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 人は何のために生まれてくるのか、そして生きるのか、ということを考えたことのない人は恐らくいないだろう。わずか100年生きるだけでも順風満帆に過ごすことはできないものである。

 人智学を独学してきていえることは、性格を思うように変えられるために、人は生きる、とだけはいえる。 

 昨日TVでホテルの話をやっていた。異文化に触れるために、人は旅をするという。異文化に触れることで、自分が何者であるかを理解できるからである。

 例えば、赤い布が赤くみえるのは、赤以外の光線を吸収し、赤だけを反射するからだが、つまり、赤以外の色があるから、それを分離することで赤が際立つわけである。

 これと同じように、自分たちとは違う文化があるから、自分たちの文化もあるわけで、元々は1つということがわかる。そのようなシュタイナーの話の紹介を続ける。

 ★   ★   ★

人智学に照らした栄養学(改変)

84 食べものについて(改変)

 菜食とは脂肪分を摂らない食事である。人体は自らで脂肪を製造する能力をもち、「脂肪でないものから脂肪を作る」ように要求される。つまり、菜食にすると、人体は、内的に脂肪をつくる活動を展開しなければならず、脂肪の製造に必要なものを使い尽くすように内的に働かなくてはいけなくなる。しかし、動物性脂肪を摂取すると、そのような活動が省かれる。



 自らで脂肪を作り出す力を呼び起こせるとき、その内的な活動を通じて、自我とアストラル体が物質体とエーテル体に対して主導権を持つ。動物性脂肪を摂れば、その結果として、自分で脂肪を作り出す労力が省かれ、省いた分、力が有り余るが、逆に、その力のために、動物性脂肪に依存するようになる。

 しかし、菜食にして、自らで活動する機会を得れば、自我は、物質体に束縛されずに自由になり、肉体の主人になる。

 人間が動物から摂取するものは、動物の物質的な脂肪と肉だけではない。動物のアストラル体が産出したものも、一緒に摂取する。

 菜食により、アストラル体に眠っている本来の力を呼び起こせば、内的な活動力を自分のなかに完全に目覚めさせることができる。

 自分がまだ十分に強いとは感じられず、「アストラル体に全てを行わせるには無理がある」と思われるときは、肉食によって、ある程度の助けが得られるが、依存心が生じる。だから、逆に「人間が内的に益々自由になるのは、菜食の御蔭」と考えられる。

 また例えば、人生を物質的に味わい尽くすために、自分たちの特異な性格を拡げるように努める闘争的な民族がどんな生活をしているかといえば、肉食中心の生活をしているのが分かる。

 対照的に、性格を特に内面化し、日々、瞑想的な生活をしている民族は、もっぱら菜食中心であるのが分かる。

 (肉食厳禁な仏教的な生活)

 菜食にすると人間は内面的になり、自立して、自分という存在全体を導けるようになる。菜食中心にすると、自分のなかの内力が優勢になり、視野が広くなる。肉食中心の人は狭い観点に縛りつけられ、一面的な見方に固執するようになる。

 肉食を完全にやめた場合に、全てをアストラル体から遂行するだけの力を持たない人には、ミルクが適している。

85 飲みものについて



 アルコールを摂取すると、通常、自我から発せられる活動を、アルコールが(自我から)横取りしてしまう。アルコールによる略奪は、人智学により解明された事実である。

 アルコールは自我の活動を模倣するが、模倣の分だけ、内的な自己の代理者に委ね、人間の自我はアルコールに従属してしまい、奴隷となる。アルコールを飲まなければ、自我から最良の力を呼び起こし活動させていたのに、もはやその力を失ってしまう。アルコールという代理がいなければ自我自身で行なっていたはずだが、この代理が、自我の背後で勝手に行ってしまうようになる。

 他にも多くの食品が独特の作用を人体に及ぼす。例えば、コーヒーである。コーヒーには興味深い作用がある。コーヒーの作用は、アストラル体にまで及ぶ。カフェインによって、人間の神経組織は、通常なら自らの内力を通じて生じる活動を、コーヒーの作用を利用して行なうことになる。

 「人間の全ての行為は、いかなるときにも、自らのアストラル体から行なうのがよい」とは、誰も言えない。

 コーヒーも植物から採られた飲み物だが、植物の働きを既に物質的に一段階進めている。その結果、コーヒーは人体の活動の一部を横取りする。神経活動が行う首尾一貫性と論理性などがコーヒーの作用に担われるようになる。コーヒーを飲む人は、論理的思考や統一的思考への集中力をコーヒーの作用に依存するようになり、その人の本来もつ内力が、その分弱まってしまう。



 対照的に、お茶や紅茶はコーヒーとは正反対の作用を生じる。特に濃い茶を飲むと、思考は飛躍し、明るくなる。茶の作用は、機知に富んだ思考、もしくは一見見栄えのよい思考を輝かせるが、その思考の部分部分は薄っぺらい。

 コーヒーの作用に助けられた人の思考は、ある主題を別の主題へと論理的に整えていくようになる。

 茶は、その反対である。コーヒーを飲みながら世間話をすると、悪い意味で論理的に作用する(理屈っぽい)が、茶の場合、思考はとりとめがなくなる。だから、茶は外交的な飲み物として好まれる。

世界問題と人智学(改変)

86 労働とは何か(改変)

 「外的な状況を変えさえすれば、全てが達成できる。人類を脅かすものからは法律によって守ることができる」というのが、今日の人々の基本的な確信である。

 原因と結果のように、利己主義は困窮と関係している。人間の生活における社会秩序のなかで、利己主義は生存競争をもたらす。生存競争は、社会的な困窮や惨状の出発点である。

 (生存競争が経済競争となり、国家という共同体は財政破綻に陥っている現状をみれば明らかである。)

 「自分の労働に見合った報酬が支払われるのは当然で、自分の仕事から個人的に所得を得るのは当然である」と、今日の人々は言うが、それは、利己主義を経済活動のなかに配置したにすぎない。

 「報酬は個人的に支払われねばならない。私が働いた分は、私に支払われねばならない」という原則で生きているかぎり、利己主義の支配下にある。

 (天文学的報酬を得る者はいる反面、貧富の差等の社会問題は一層深刻化している。天文学的報酬は本来は社会福祉に還元されなければいけない。)

 では、仮に、無人島での生活を考えてみる。無人島で暮らすには、自給自足、つまり報酬を自分で贖わなければならない。ただ闇雲に働いてもダメである。働くことで、何かをつくり、与えなければいけない。もし、労働が他に何も与えない、場合によっては単なる懲罰的な労働だったら、その労働はまったく無益である。

 このように「労働自体が生活に意味を与えるのではなく、創造的な労働が生活に意味を与えるのである」という非常に重要な定理に至る。

 個人が全体への奉仕のために労働し、個人が必要とするものを全体が与えるときにのみ社会は進歩できる、というのが真実である。自分の労働を自分のために用いないことにより社会は進歩する。

 自分の仕事の収益を個人の報酬という形で得ないことで社会の進歩が可能になる。「自分の労働からは自分のために何も得ようとすべきでない。自分は社会共同体に対して労働する責務がある」ということを知っている人は、事業をまったく異なった目的へと導く。

 自分のために何も要求せず、社会共同体から自分に贈られるものによってのみ生計を立てるのである。

 (資本主義とは全くの正反対である。資本主義は全てを個人の所得に還元させようとするものだからである。)

 このように、労働への意識は報酬とは別のところになくてはならない。「賃金を労働から切り離すこと」が社会問題の解決になるのである。

 人々がもはや「生活が保障されるなら、私は怠けられる(金持ち連中)」とは決して口にしなくなるような意識を人間のなかに目覚めさせるのが、人間の高次な精神についての世界観なのである。

 (米国社会が崩壊寸前なのに、米国の資本家たちは見て見ぬふりを決め込んでいる。現状は、シュタイナーの理想とは遥かに程遠い。)

高次世界の実現性(改変)

87 経済(改変)

 経済活動のなかで何百年も発展してきたものを真剣に考察すると、経済学において「分業」という名で総括される専門性の意味が明らかになる。

 分業の原則から、「完全な分業がなされる社会生命体のなかでは、誰も自分のためだけに生産することはできない」という結論が出てくるはずである。

 純粋な経済活動においては、生産、消費(商品)、および生産と消費のあいだの流通の各々にのみ人々は関わる。

 生産物は、流通によって商品になる。

 例えば、もし、個人が、ある土地を管理する場合、その個人の管理能力が商品となる。個人の管理能力を通じて、土地の価格は変動する。資本管理についても同様である。

 このような経済的な事実の意味を現実的に研究すれば、「商品と、土地および資本との間には、根本的な違いがある」ことに気づくだろう。

 経済活動のなかでは、土地は商品とは異なった扱いをしなければならない。経済活動上の正当な判断は、実際の経済活動に携わっている人々の合意のみから生じるべきである。各個人が各部分的認識として得る認識は、他の各個人の認識によって客観視されることによって妥当な判断になるからである。

 生産、消費(商品)、流通という三つの分野が比較的独立して、元来の性質を発展させれば、正しい意味で統一体へと協同できることを、正当な社会心理学は明らかにするはずである。つまり、生産が発展した精神分野と、人間が人間として他の人に向き合う消費(商品)が発展した法律-国家分野を、連合体へと前進させなくてはならない流通が発展した経済分野の三つである。

 精神分野は、独立した基盤から管理されねばならない。例えば、教師は、授業の管理者である。だから、一方に教育学があり、他方には授業内容について、なんらかの政治的組織の指令に従う、というような縦割りに分離しない。

 政治-国家分野では、全てについて、各個人の了解を得て、適切な管理制度のなかで成立する。

 経済分野では、すでに述べたように、連合体を形成しなくてはならない。

 経済活動を刻々と実際的に研究する連合体ができれば、そこでの観察の主題となるのは、いかに価格が上下するかということである。連合体が価格の上昇下降を取扱い、審議することによって、十分な数の人間が経済的連帯を形成し、十分な数の人間が生産部門に携わるように按配すべきである。

 社会生活において製品-商品の正当な価格とは、生産者が同じ製品を再び作り出すまで、本人と家族が生計を立てられ、必要なものを調達できる可能性を与えるものでなければならない。

 ★   ★   ★

 キリストは、天国をこの世にもたらすことがわが使命と述べた。天国とはどういう世界なのか各個人の想像力に委ねられる。地獄の反対であることからわかる。地獄が想像しやすいのは、この世が地獄に近いからである。しかし、この世が地獄だからこそ天国に向かうことができる。





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Last updated  2014年07月02日 23時12分17秒
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