シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年08月22日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 アカシャ年代記によれば、神々も古くは人間だったという。あらゆる苦悩と苦痛を克服し、神と呼ばれる存在になったという。つまり、苦悩や苦痛を克服する見本がモラルである。

 しかしモラルの素晴らしさは実際に苦悩や苦痛を体験してみないとわからない。だから、この苦悩と苦痛に満ち溢れている物質界で人生を経験する機会が与えられる。

 というわけで、シュタイナーの話を続ける。

 ★     ★     ★

 前回は、病気になることのカルマの目的は人間をより完全にすることであり、病気やカルマはむしろ「恵み(救い)」であること、だからこそ「治療に全力を尽くす」必要性があると同時に、ただ治療のみを目的化するのではなく、病気になることで克服すべきものが一体何であるのかに注目すべきであることを述べた。

 また、病因としてのルツィフェルとアーリマンについても言及し、その影響の洞察の必要性とまたその影響に対抗するために「高次の理性(霊我)」が「恵み」として「病気」を与えていることも述べた。

 さて、今回からは、前回の内容を受けながら、「偶発性の疾病」や更に事故や災害といったような「偶然」とされている出来事について、基本認識を提示する。

 「偶然」という言葉は、わからないことを放置するのに好都合な言葉で、認識の欠如を隠蔽する。事故などの際の外傷は勿論のこと、ウイルス感染などの病気にも使われ、更には「災害」などにも使われる。

 最近では「偶然の一致」について、ユングの「シンクロニシティ」という用語も使われるが、その用語を使ったからといって、認識が深まることはほとんどなく、むしろ神秘性だけがクローズアップされることが多い。



 「外的な病因が特定できる疾病と、人体の中に病因が潜んでいる疾病をどう区別できるか?」

 病気のなかには確かに外的な切欠もなく生じるものがある。人体に病因が内在する場合である。対照的に、外的な病因を特定できる病気もある。例えば、足を骨折した場合などである。都会の悪環境下で生じる多くの病気も外的な病因を指摘できる。今日の医学は病因を外的な環境のなか、特にバクテリアなどにみている。

 古くから外的な病因も指摘されてきたが、現代人の指摘は根本から認識を混乱させる。例えば、これまで健康だった人が、流感やジフテリアなどの流行している地方へ行って感染したなら、現代人は、病原菌をうつされたと指摘する。その際に「たまたま」とか「偶然」とかいう言葉を使い、「偶然うつされた」と指摘する。

 この「偶然」という言葉は、厄介である。安易に「偶然」で片付けてよいのかどうか、深く考えない限り、満足のいく認識を手に入れることは不可能となる。(P102)

 シュタイナーは「歴史の偶然」とされている次の例を挙げている。

 眼鏡工房で子供たちがたまたまレンズで遊んでいたことから望遠鏡が発明され、ガリレイは、ピサの大聖堂の教会ランプの規則的な往復運動を見て、その振り子運動と自分の脈拍との関係を調べ振り子の法則を偶然発見し、ルターはエアフルトのアウグスト会修道院の旧友と一緒に「たまたま」語り合い、神学博士を手に入れるように説得されたのがきっかけで聖書翻訳につながった、といわれている。

 このように「歴史的な意味」を「偶然の出来事」とするのはあまりにも安易で「偶然」という言葉で片づけるのはどうかと思われる。

 「偶然」は自然法則や生命法則では説明できない偶発性の事象と考えられている。「偶然」は、説明可能な範囲から逸脱したものとされている。

 この「偶然」の真横に、この世での人間の理性(覚醒意識)は、ルツィフェル原則とアーリマン原則の両方の支配を受けている、という事実を並べてみる必要がある。この悪魔の両原則は絶えず人間に働きかけている。

 ルツィフェルの力は、人間のアストラル体の内部に作用し、アーリマンの力は、周囲から人間が受け取る外(物質)的なイメージを通して作用する。人間が外界から受け取る中にはアーリマンの力が働き、快、不快、激情などのように魂の中から立ち現われる感情の中には、ルツィフェルの力が働いている。(P105)

 例えば、「なぜそうしたのか、そうしなければならなかったのか」というような行為について、自分であれこれと「理由」をつけたがる。魂の深いところにある意識から行った場合でも、自分にとって都合の良い動機にしてしまうこともあり、「意図」などなく「偶然」と思い込むこともある。



 しかし、このような一般論の提示には無理がある。そもそもフロイトの性欲理論も性欲に由来することになってしまうからである。

 シュタイナーは、このような事例について、「ルツィフェルは人間の魂の営みをマーヤー(幻想)に変え、内面に働いている本当の意識とは別の全く異なる『本音』を幻として見せる」と述べている。

 還元主義的な心理分析などの危険性はこのようなルツィフェルの誘惑にある。シュタイナーはこのような分析について「精神分析批判」という講義をしている。また、アーリマンの影響について、シュタイナーは次のように述べている。

 アーリマンは外から侵入してくる。「考えてもしかたない。まるで糸玉のように複雑に絡みあい、こんがらがっているからだ」と人間が感じるとき、アーリマンが強力に働きかけている。そのようなとき、アーリマン原則は外界の裂け目のようなところから、人間の知覚の中へと押し入る。

 アーリマンに侵入されると、考えることをやめてしまい、理性と洞察力で現象を把握しようとはしなくなる。そして、「偶然」が思考の中に居すわってしまう。「偶然」が居すわるところで、アーリマンはもっとも危険な存在になる。

人間がアーリマンによって安易に騙されてしまうような現象を「偶然」と呼ぶ 。(P108)

 このように自らの思い込みで、自分の行動の動機を安易なところに求めたり、また心理分析による還元主義的な「本音」に騙されたり、逆に認識への努力を放棄することで「偶然」という幻を手に入れてしまう。

 だから、内因性、偶発性に関わらず、また偶然とされる事故や災害、もしくは歴史上の偶然にせよ、それをカルマに基づいて正しく認識しなければならない。

 「偶然」と片付けてしまうほど、事象の本質に迫ることはできない。人間は自己教育によって幻想を打破できるようになるべきである。言いかえれば、アーリマンが力強く働くところで、理性的に事象の本質を追究しなければならない。

 病因を考察するときこそ、まさにそのような理性が求められる。ある人が鉄道で旅をし、列車事故で死んでしまった場合、あるいはまた、ある人が外から病原菌に感染してしまった場合、偶然ではなく、カルマから、どうしてそうなったのかを理解しようとしなければならない。

 研ぎ澄まされた認識力で事象を追求すれば、人生にとっての病気と健康の本質、人生全体にとっての意味が、深く把握できるようになる。

 さて、病気と治療の基本的なテーマについて紹介してきたが、「慢性疾患」、「魂の治癒力」について興味深い内容があったので補足する。

慢性疾患について

 慢性疾患とは、ある意味では(肉体的には)病気が既に克服されているのだが、別の意味では(精神的には)、まだ克服されてはいないような状態で、治癒が中途半端にしか進んでいない状態である。換言すれば、エーテル体と肉体の関係は完全に調整されたが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調整されていないため、回復と病気の間を行ったり来たりする。

 その状態から脱するには、回復した部位を健全に保ち、まだ無秩序に蠢いている部位を魂の働きと結びつかないようにしておくことである。そうすれば、大きな効果をあげられるだろう。

 しかし、無秩序な部位が反対の働きをし、妨害する。病気が慢性化した場合、患者は、この中途半端な状態の影響下に生きることになる。この半ば病的な状態を根本的に忘れることができないため、健康な部位を、この不健全な状態から引き離すことができず、「病的な状態ばかり考える」ことで、健康な部位も病的な状態に引き込み、回復部を新たに刺激してしまう。

 アストラル体を興奮させると健康であったはずの部位にも悪影響が及ぶ。アストラル体の興奮は潜在的に魂を興奮させているので、この興奮を認識できない。このように激情、気分の動揺、持続的な倦怠感、不満足感が、無意識のまま、肉体などに作用し、人体を半ば健康、半ば病的な状態にしてしまう。(P96-97)

 「エーテル体と肉体の関係は完全に調整されたが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調整されていない」というのは、肉体の健康は回復しているが、エーテル体にアストラル体からの無意識の「激情、気分の動揺、持続的な倦怠感、不満足感」の影響が及び、肉体の完全な治癒に到っていない、ということである。

 だから、病気の治癒においてはアストラル体からエーテル体への無意識の影響に注目すべきである。病気への不満感や絶望や疲れといった否定的な感情をプラスの方向に向けていくことが重要である。

 慢性疾患の患者にいくら否定的な感情を持つな、といっても、「あなたにはわからないからそんなことがいえる」とでも言われるのがおちで、逆に言えば、そうした否定的な感情故に病気になることを自ら選択しているともいえるから、なおのこと困難である。

 (患者がもつ否定的感情に問題がある。)

 ある意味、宗教的な回心が病を癒す、というのも、否定的感情をなくす切欠になるとも考えられるが、そのような(他者が介入する)「信仰」よりは、あくまでも(自力での)認識を深めることを治癒の切欠にするのが人智学的な手法である。

魂の治癒力について

 魂が全力で霊(意識)と向き合うなら、魂の力から肉体の自己治癒力を、ある複雑な方法を用いて呼び起こすことができる。

 ただその場合、病気と直接結びつく肉体の器官については魂が考えないようにしないといけない。

 これが健康への積極的な忘却力である。このような事実から、前世の過失が病気となって現われるカルマの影響に対して、必ずしも無力でないことに気づく。

 だから、次のような疑問が生じる。

 「これまでの体験によるカルマの結果として、魂を教育するために病気になるのなら、代わりに、その教育に相当する霊認識(霊能)を獲得することで、病気を回避できないのか?」

 病気を人間の努力で、霊認識獲得への道筋に変化させ、病気による自我の教育の代わりに、魂の(霊)能力による自我の教育を行なうことも可能なはずである。 (P98-99)

 この「魂の治癒力」というテーマは、カルマの働きについて積極的に学ぶという意味でもとても重要で、「病気を霊認識獲得への道筋に変化させる」ための「自己教育」を試みることが、予防医学的な観点からも大きな効果を挙げることが期待できる。

 (病気の背後にある精神的な問題。光や愛の不足などである。積極的な奉仕活動をすることで病気を治癒できる。)

 とはいえ、それには人智学的な認識が必要になり、それにはルツィフェルやアーリマンによる影響から自由になるべく努力することでもあるので、大きな困難が横たわっている。

 そういう意味でも、まず認識不足を偽る「偶然」などを含む物質界のなかで、各自がコペルニクス的転回ともいうべき発想の転換を果たさなければならない、という現代的な使命がある。

 ★     ★     ★

 病気に罹ることで、改めてモラルを考えてみることである。日頃から他者の苦悩や苦痛を考えればモラルにつながるが、その逆が病気につながる。





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Last updated  2014年08月25日 15時09分20秒
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