シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年10月30日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 この国は悪魔を研究する題材には事欠かない。悪魔の手口は、脅して偶像崇拝に持ち込むもので、ヤクザがよく使う手口である。

 悪魔は偶像崇拝させるために脅すわけである。脅かされても偶像崇拝しなければいいのだが、この国の住人が滑稽なのはなんら疑問をもたずに自ら進んで偶像崇拝することにある。だから、カルト教信者も非常に多い。

 どの宗教の教典も偶像崇拝を禁止しているはずである。主なる神は人間の精神のなかの自我に宿っているのだから、自分を自分で拝むことはできないから、どんな崇拝も偶像崇拝にならざるを得ない。

 それでも拝みたければ、自我が従うカルマの法則を拝むしかないだろう。

 カルマの法則とは何度も紹介したが、簡単にいえば、他の誰かにした自分の行為が自分に返ってくるという法則である。自業自得のことで、わざわざカルマの法則を拝む拝まないで変わるわけがなく、不変の法則なので、公正で公平だから手心が加えられるわけがない。変えたいのなら、自分の行為そのものを変えるしかない。

 そもそも崇拝することで利益が還元されるというのも怪しい考えで、それでは不公平や不公正を奨励するようなもんである。神様がそのような利己主義的なことをするわけがない。仮に神様が利己主義で崇拝しない人に罰を与えるのなら、はじめから崇拝行為そのものや崇拝しない人をつくらなければいいだけである。

 第一、特定の人に利益を誘導してしまえば、法則自体が不変でなくなってしまうわけで、船や飛行機をみてもわかるように、一部に負荷がかかりすぎると、全体が傾いて沈没や墜落という失態を招いてしまうわけである。メーソンで有名なピラミッドだって頭でっかちになれば、ダルマ落としのように潰れてしまうわけである。

 要するに一部を依怙贔屓すると全体のバランスが崩れるのである。

 つまり全ての構造物には均衡点が必要なんである。宇宙の均衡点をつくっているのが宇宙の中心のカルマの法則である。それは人間が日常で振る舞う笑いと涙からわかることである。



 ★        ★        ★

 人智学にとっては、古代の宗教的な文献は不可欠ではない。大災害などによって、これら全ての記録が紛失しても、人智学の探求から、全ての記録の根本に横たわるアカシャ年代記を自分で発見する方法がわかっている。

 しかし、アカシャ年代記から事実を確認した後で、紛れもなく同じ事実を、古代の文献などに描かれた象徴的な絵画や言葉などで描写されているのを発見したとき、その記録に対する理解が大いに深まる。その記録は、後に人智学の探求者により発見されることを想定した預言者に端を発しているようにみえる。

 つまり、当時の精神の探求者が、現代の精神の探求者と何千年のときを超えて出会うことになる。

 このような人智学の知識から、これらの記録に対する真実の探究の姿勢が獲得できる。人智学から、どのようにして神が人間に生命の息を吹き込んだか、またこの神の御業によって人間が自分のなかに住む自我(神)を将来見つけられるようにしたのか、などがわかるとき、旧約聖書などに記録された出来事が人間の本性についての真実であることを、笑いや涙の理解を基準にして探求できる。

 あまり手を拡げないようにして、簡単にもう一点触れておきたい。笑いについて次のような反論があるかもしれない。

 「笑いは、アストラル体の膨張といったが、それは間違いで、例えば、くすぐられる、などの外からの行為からも笑いが起こる。その行為に付随して、笑いの精神的な要因が生じるのではないのか? この例と、あなた(シュタイナー)の想像性豊かなアストラル体の膨張との整合性をどう図るのか?」

 この反論への応えは次のようなものである。

 「くすぐられる場合にもアストラル体の膨張が起こるが、ただし、物質との接触という低レベルで起こる。例えば、自分で足の裏をくすぐっても、予め、その行為がわかっているので、笑うことはない。しかし、他人にくすぐられれば、その行為が未知なため、人体への侵入として捉え、理性では理解できないので、拒絶するはずである。

 その侵入から、自我は自分を解放し自由にするために、アストラル体を膨張させ、超越しようとするだろう。くすぐるというような不適切な接触から自我を自由にするために、アストラル体は膨張し笑いを表現する。

 だから、笑いは、くすぐられるという攻撃から、自我を基本的なレベルで救出していることになる。



 冗談は論理的には理解できないもので、精神の単なる混乱状態ではなく、遊びの類で、自由に関係を打ち立てるものである。冗談を言うことで、即座に、その遊びの主導権を握ることが実感でき、自我を自由にし、その冗談の的となっている対象から超越できる。

 この解放、すなわち外界の対象から自我を超越させることは、笑いでは常に発見できることである。

 しかし、笑いで生じる外界に対する自我の超越が、外界との関係を正しくする場合もあれば、間違う場合もある。いずれにしろ、人間は笑いを通して自我を解放しようとする。だから、また自我の超越が間違いである場合、笑いは、対象を理解したくないか、理解できないために生じる。

 そのとき、笑いは、対象から生じるのではなく、自我の理解の限界から生じていることになる。このような笑いは、理解が未発達な人間が、未知の存在を理解できないために生じる。

 例えば、もし、自我の理解が未発達な故に、他人のなかに、自分と似た見慣れた通俗的な性質を見つけられないとき、恐らく、その他人を理解しようと思わないので、笑うことで、自我を自由に解放し、それが容易に習慣となってしまう。



 このような人々には、日常的な考えから外れたものは理解する努力に価しないという態度が流行りとなってしまう。だから、日頃出会う様々な対象に対して優越感を感じ、見下し蔑んだ薄ら笑いを浮かべるようになる。

 (例えば、昔の公家の風習が残る京都人などの下品に対する見下した笑いなど。ジャパニーズスマイルもこの類。)

 この間違った笑いをする人々からわかるように、笑いが自由の感情をいつも正しく表現しているわけではなく、間違うこともある。しかし、その間違いが笑いの根底にある事実を揺るがすわけではない。

 また笑いが、対象を理解しようとしない表現であるという事実を意図的に利用することもできる。例えば、話し手が話す言葉の内容を、聞き手が賛同するかどうかに関わらず、聞き手が理解したくない形で話すことで笑いをとることができる。

 つまり、聞き手の魂には見馴れないように、聞き手のレベルに比べて、あまりに低レベルな形で(下品に)話すことで笑いをとれる。実際、笑わせることで、核心に触れずに、話題の周辺の取るに足らない部分を話すことで、聞き手が話題の核心から逸れるのを手助けすることになる。

 このようにいつも笑いをとることを考えている話し手がいる。彼らの次のような発言が印象的である。

 「議論に勝つには、笑いをとり、笑った人たちを味方につける必要がある。というのも、笑った人たちを味方にすれば、議論に勝つのが容易になるからだ!」

 実は、このような話し手の内面は、不誠実さからなっている。というのも、笑いをとろうとする人は、話の内容を理解させることよりも、話の内容に触れずに聞き手の自我を満足させるのを意図して話すからで、詐欺師だからである。

 つまり、なんらかの問題を提示するに際し、その問題の核心に触れずに、その周辺の取るに足らない低レベルな話に引き下げ、聞き手が理解したがらずに、笑いをとる形で問題を提示するなら、聞き手が問題の核心に触れることなく、聞き手の虚栄心を満足させることに成功する。

 だから、このような笑いをとるのに夢中な話し手は、不誠実で嘘つきで、詐欺師の可能性が高い。

 笑いと同様に、涙に結びついた慰めや癒しの感情を誘発することで、涙を流した人を味方につけることもできる。例えば、想像のなかで生じる喪失感を利用する場合などである。

 大切な経験や思い出から喪失感が生じるとき(あの時は良かったという思い出など)、それらをもはや取り戻せないのを知りつつも、その渇望に耽ることがあるが、このとき、アストラル体を収縮させることで、自我を強めるのを感じる。この種の感情への依存は実際には利己主義を促進させる。

 この種の感情への依存は酷く乱用される可能性がある。というのも、笑いや涙に伴う苦しみや悲しみ、嘲笑や蔑みなどの全てが自我の解放や強化に関係するからである。だから、このような感情への依存が生じると、利己主義の促進が目的となり、利己主義を促進することで、人と人との結びつきが破壊されがちになる。

 (感情への依存はよくないが、無感情はもっと悪い。)

 別の連続講義の中で、自我が感覚魂、悟性魂、そして意識魂に働きかけるだけでなく、その働きを通して自我を益々強化し、成就(霊我の獲得)に近づくことを見てきた。このことから、笑いや涙が自我の教育と力を強化する手段であることが容易にわかる。

 だから、笑いや涙などの魂の表現力を刺激する演劇などの創作が人間を進化させる教育の1つであることは確かである。

 実際に悲劇的なドラマなどに共感すると、アストラル体を収縮させ、自我を強化するために、魂のなかにある愛の経験を高めるような影響が及ぼされる。また喜劇をみて笑うと、アストラル体を膨張させ、喜劇のなかの愚行や滑稽さから自我を自由に超越(避難)させる。

 以上から、演劇などの芸術作品を通して、人間の魂の体験として与えられる悲劇や喜劇が人間の進化に結びついていることがわかる。

 人間の本性を笑いや涙のような喜怒哀楽の細部にまで観察できれば、毎日の経験が、(神の意識を基にした)自我の振る舞いから生まれる、という偉大な事実の理解へと導くことがわかる。例えば、芸術的な作品は、人生とは笑いと涙の間を行き来するシーソー(振り子)のゲームのようなものであることを教えてくれる。

 自我はこのような喜怒哀楽の中でのみ進化できる。もしこのシーソー(振り子)が完全に止まってしまったら、自我は自分を強化できずに、魂も発達できず、感情を失い、魂は死んでしまうだろう。人間が進化する上で、自我が笑いを通して自由になり、また涙を通して自らの愛を追求できるのは正しいことで、救いなのである。

 確かに、笑いと涙という2つの極の間にバランスを見つけないといけない。それは自我がこのバランスの上でのみ安定を得るからで、狂喜と絶望の間を行き来しているなかでは不安定だからである(情緒不安定)。

 つまり自我は、一方の極と同じく他方の極へも振れる可能性をもちながら、その均衡点でのみ安定をみつける。

 (シュタイナーは自我が安定する均衡点をキリスト原理と呼んでいる。つまり自我がカルマの法則と一致する宇宙の中心点である。)

 ★        ★        ★

 偶像崇拝は人間から喜怒哀楽を奪い、畏れしかあたえない。畏れとは人を奴隷化し、感情を無くさせ、魂を殺すものである。偶像崇拝は人間を神から切り離させる行為なんである。内なる神(良心)を殺してはいけない。 

 人間の内の中心点に神がいるのだから!





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Last updated  2014年10月30日 14時38分49秒
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