シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年10月31日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 オカルトでは、5月と11月のはじめは悪魔の活動が活発になる時期といわれている。いまでいうメーデーとハロウインの季節である。以前、このブログでも紹介したが、5月は魔女で有名で、11月は恐らく魔王で有名な季節なんだろう。

 いずれにしろ、人間のなかにもある闇が深まる季節なんである。だからこそ、叡智の光が必要で、蝋燭の火などは、叡智の象徴なんである。だから魔界にすむ悪魔の生態を解明するには絶好の時期ともいえる。

 いつも訪問させていただいている播州武侯祠遍照院さまのブログでもハロウインについて紹介しているが、ドルイド僧は古代の秘儀参入者で霊能力者なんで多くの迷信はドルイド教に端を発していると思われる。

 だからといってドルイド僧が悪魔を崇拝していたわけではなく、後世の唯物論に染まりつつあった連中が後からこじつけたものだとシュタイナーは述べている。 

 ドルイド僧たちは、将来キリストが人類を救いにくるために一人の人間イエスに受肉することを秘密糧に伝達していただけであるという。その伝達を地上の支配者の悪魔たちに利用されたのだというから、現代の偽ユダヤ悪魔のダマスゴミと構図は同じで、悪魔崇拝に利用されたわけである。

 さて「悪魔崇拝」や「偶像崇拝」といわれてもピンとこない人が多いから、「悪魔崇拝」や「偶像崇拝」なんて難しい言葉を使わずに、「良心に従え」といった方がわかりやすい。

 人間は何度も生まれては体験し、死んできたなかで、変わらぬ不変の法則というものがあり、それが良心となっていることを無意識のなかで理解しているはずだからである。

 中心とはどこからみても同じものであるから不変なんである。この不変の法則がカルマの法則であることは何度も紹介してきた。

 よくカルマを「罰」と勘違いしている人が多いのだが、まぁ罰当たりのことばかりしている人にはカルマは罰とみえるのは当然なのだが、本当の意味では、カルマとは因果のことで、仏教では因縁のことである。



 だから、よくカルマを避けるなんていう罰の意味で使う人は本来の意味を間違って使っているわけで、本当はカルマを避けることなど不可能なんである。そもそもカルマという言葉の意味は、「業」で「行い」なのだから、現代の物理学に喩えれば、「運動」のことである。だからエネルギー保存則のことである。

 だからもし、「カルマを避ける」なんて字句通りに考えるなら、エネルギーが保存しないわけで、エネルギーがもらえないので、死んでしまうわけです。消滅ですよ。用語を使うにはその実体を正確に理解しないと意味がありません。唯物論に染まると、字句通りにしか考えられないから訳がわからなくなり、独善的に使用して、そのうち精神分裂病になるわけです。

 カルマが不変なのは、ヤハウエ神が「我は我に帰するものなり」とモーゼに言ったように、カルマの因果が因が果に帰する唯一の存在という意味で、因=果の因を果に足らしめる唯一の存在だからで、神がカルマの法則そのものであることを意味している。だから、悪魔も神がつくったものなので、いずれ悪魔も同じ神の子の人間を通じて神に返るわけである。

 さて、悪魔崇拝のメーソンでよく知られたピラミッドの頂上にある目は、悪魔の目とも言われているが、本当は、万物を見通す目のことで、オカルトでは、人間の自我のことである。

 自我は中心となるべき無次元の点なので、どこからみても同じものでなければならないが、ではなぜ悪魔の目と呼ばれるようになったのだろうか?

 前回、シュタイナーの笑いと涙の話を紹介したなかで、人間にとって、笑いや涙の感情を発することは正しく、救いだが、それらの感情に依存してしまうのは間違いで、救いようがないことを述べた。

 つまり、簡単にいえば、自力はよいが、他力はダメということなんである。だから、神を崇拝するのはダメで、自分のなかに神をみつけるのは良いのである。

 ピラミッドの目の象徴図を崇拝するのはダメで、その象徴図を基に自分のなかに神をみつけるのは良いということなんである。

 キリストがいったように、「天は自ら救う者を救う」ということなんである。救いを他に求めるのではなく、自分が救うのである。救いの力は人間のなかに眠っているわけで、自然治癒力なんかがわかりやすい。

 だから宗教を学んだら、それを自分に適用するのはよいけど、教団や教師になって他を利用しようとするのはダメでニセモノというわけなんである。

 正しいと思ったら、まず自分がやって見本を示せ、ということなんである。他を道具として利用しようとするな、ということである。人間の誰にもそういう神のごとき力を授かっているのだから、使いなさい、というわけである。



 さて、シュタイナーの笑いと涙の話の紹介を続ける。

 ★       ★        ★ 

 人間は徐々に自我の進化を導く指導者になるべきである。

 笑いや涙を理解できれば、それらが、自我である精神の現われと捉えられるはずである。というのも、笑うことで、人間の精神が解放され、涙を流すことで、精神の喪失感を埋め合わせ、慰められ、元気になるからである。

 そもそも、笑いとは何なのか? という疑問は次のように答えられる。



 同様に、涙は、外界との結びつきを失ったとき、それに代わる同様の結びつきを求め苦闘する際の精神の表現で、涙を流すことで自我を強めるとき、実際、自分に次のように言い聞かしている。

 「私のためにこの世はあると同時にこの世は私を必要としている。というのも、この世とのつながりを失うことに私がこんなにも耐えられないのだから。」

 さて最後に、笑いによる自我の解放の代表例について述べる。

 つまり、この世のあらゆる下劣で邪悪なものからのゾロアスター(ツァラトゥストラ)の自我の超越が、その微笑みを見た地上の生命体全てが狂喜し、また邪悪な存在が逃げ出したという「ゾロアスター(ツァラトゥストラ)スマイル」のなかに表現されたことがわかる。

 このゾロアスター(ツァラトゥストラ)の微笑みは、邪悪な存在を窒息死させるかのような自我の超越を、世界史のなかに象徴的に表現する。

 そしてまた、「私は、この世の存在に値しない。もうこの世とは関わりたくない」というような絶望の場面に自我がぶち当たった後、「私のためにこの世はあり、この世は私を必要とする。」という事実を肯定させるような力が魂の中に沸き起こって来るなら、このような感情は「涙が溢れて、地球が再び我を抱く。」というゲーテの言葉に癒される。

 この言葉は次のような確信を認めたものである。

 「人間は地球から締め出されるようなことはない、涙の中にさえ、この世との密接な結びつきを、この結びつきを失ったように見える瞬間こそ、この結びつきが大切であることを主張する。」

 この主張の正当性はこの世の深い秘密の中に隠されている。顔を流れる涙から、この世との結びつきを知り、また顔に浮かぶ微笑みから、下劣な存在からの解放を知る。

 ★       ★        ★

 笑いと涙により人間の自我は進化し、地球との絆を深め、悪魔をも愛することで神にかえる力とすることができる。

 人間が笑う時それは同時に神が笑う時で、人間が泣く時それは同時に神が泣く時で、人間と共に神がある証拠である。 





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Last updated  2014年10月31日 17時00分18秒
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