シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年11月05日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 オカルト(秘教学)ではカルマ論は避けて通れないので、自分でも飽き飽きするのだが、性懲りもなくまたカルマ論を紹介する。

 何度もいうが、そもそもカルマというのは、あるとか、ないとかの二元論では語れない一元論の話なんである。あるとかないとかいうのは二元論を根拠にあれこれ議論することで、二元論が土台になっている。

 つまりせいぜい認識できるかどうかの話になるだけなんである。つまり自我によるもので、自我が認識できなければ、ないし、できればあるわけだ! 

 つまり、その人の自我の認識の問題である。だからカルマといっても自我の認識度合いにより多種多様なんであるし、自我によって異なるのだから、他人が「カルマを取り去る」ことなど不可能なんである。せいぜいその他人の認識の浅はかさを物語るだけである。

 第一、「取り去る」という言い方がよくない。なくなることはなく、それでは二元論に陥ってしまうからである。カルマの因と果の2つが結ばれるから、一元論で、成就と呼ぶべきである。取り去ってしまったら、因の行き場所がなくなってしまい不変でなくなってしまう。

 なぜ一元論なのかというなら、宇宙の全ての命令は神からきているわけで、神なしには何者も存在しない。この「存在しない」というのは「ない」のではなく、「あるが、認識できない」ということである。だから、「カルマを取り去る」なんていうのは、字句通りにいうなら、認識を曇らせることになる。

 宇宙全体に行き渡る神の命令に背くのも自由で、そこから個人的な自我が生まれ、自分独自のカルマが生まれて分化していったわけだが、この分化もやがて個人のなかにカルマの成就として統合されていくわけである。つまり、神の一元性が、人間個人の一元性へと成就し、人間は自由を司る天使になることが預言されている。

 しかし、二元論に陥って自分で自分を束縛し、いつまでも不自由なままでいたい人は、堕天使になって再度認識を改めるために修行を繰り返すわけである。何度もいうが、天は自分で救う者を救うわけで、自分で認識し、自分で成就しないとカルマを成就し克服できないのである。だから、他者はただ成就を手助けできるだけである。

 また、カルマと同じように、信仰や祈願も信じる信じない、祈る祈らないと二元論で語られることが多いが、これも認識の問題である。祈るとは、自分の思い通りになりたいし、なってほしい、というのだから、自分がなんであるかを知らねばならないし、周囲に自分をアピールしないといけない。また信仰は、自分の拠り所を探すことだから、これも自分がなんであるかを知らねばならない。



 だから二元論で信じる信じない、祈る祈らない、とか言っても、自我の問題の解決には至らずに堂々巡りを繰り返すだけである。そのような、ある、ないの二元論を超えて、何度も輪廻転生を繰り返しても変わらない、不変な、永遠の存在が、自我であることを知らないと意味がないんである。

 そもそも人生を一回きりと思っている段階で、自我の拠り所を見失ってしまうだろう。「いまさえよければいい」というのでは、過去も未来もみえてこない。「いま」のなかに過去も未来も眠ってしまう。

 だから自我があってこそ、絶えず変化しながらも、変わらない存在、つまり唯一の存在に対する信仰と祈願がなくては、どんな信仰も祈願も砂上の楼閣で、取り越し苦労するだけなんである。

 キリストが荒野で悪魔に試されたときに「悪魔よ!主なる神を信じよ」と返答したが、主なる神とは一元性のことで一元性に回帰せよということである。二元論に陥ってはダメなんである。悪魔は二元論でしか生きられない。陰には陽で、陽には陰で、補完すべきである。

 そういう二元論に陥って堂々巡りしないために、シュタイナーの自由の哲学の紹介を続ける。

 ★          ★          ★

 今回からは、実在論と観念論がともに間違いであることを詳細に検討する。

 まず検討するのは、素朴実在論である。

素朴実在論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

 物事を単純に考える人は、自分の「知覚内容(観察の対象)」を観察する際に、なんらかの媒介を経ずに直接現われるので、その対象が、自分とは全く独立した存在と考える。そのような人は、樹木を見れば、その樹木が見えた通りの姿と色彩で、その場所に立っている、と信じている。(P79)



 このような素朴実在論への批判として、知覚像から主観が生じる仮説を挙げる人もいる。この説を押し進めると、「知覚行為なしにはいかなる対象も考えられない」という観念論にまで、必然的に辿りつくことになる。

 (この観念論は、量子力学で有名な観測論などが挙げられる。)

 この説の主張の代表者がバークレーである。バークレーの主張はとても興味深いものだが、ここでは省略する。ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」にも、このバークレーはとりあげられていた。

 さしあたり、知覚像を主観のものと捉える。「知覚内容」が主観を持つことを認めると、その「知覚内容」となった根底の対象には、客観性があるのか、という疑問が生じてくる。

 例えば、人体の感覚器がなければ、赤色や特定の音の知覚が不可能であることから、このような主観的な感覚器なしには、いかなる知覚対象も存在し得ない、と認めざるを得ない。これを突き詰めると、知覚行為なしにはいかなる知覚対象も考えられない、と認めざるを得ない。



 こうした主張に異議を唱えるには、知覚内容と主観について深く考察していく必要がある。

 以上の主張に反対するなら、知覚内容が主観を決める、というような観念論から一旦離れる必要がある。そして、感覚器、つまり知覚機能から、どうやって知覚内容が生じるかがわかれば、この問題の本質が変わってくる。

 知覚機能による知覚内容の生じ方がわかれば、知覚行為の最中に、何が知覚内容として生じてくるかがわかり、知覚する前の知覚内容の中に既に存在するものを知ることができる。(P84)

 いま考察しているのは、「知覚機能と主観」についてであるが、この考察を、知覚対象から主観に目を転じる。(P84)

 外界の事物を知覚するとき、同時に自分自身も知覚する。外的な事物と一緒にそれを知覚する自分も知覚するのである。

 また、外界の事物を、例えば「木」を知覚した後、外界の知覚を失っても、しばらくその木の像は残り、その像が知覚内容として自我に取り込まれる。その知覚内容は、「私の木のイメージ」と呼べる。

 つまり、事物を知覚するだけでなく、自分自身も知覚している。自分自身についての知覚は、知覚内容として失うことはなく、常に存在する。また別の知覚内容を持つ際にも、自分自身という知覚内容は常に現れるが、特定の対象の知覚に専念するときは、自分自身についての知覚を度外視し、この対象についての知覚内容だけに関心を向けている。

 しかし、その後、そこに自分自身についての知覚内容が加わる。その時には、対象の知覚だけでなく、その木を見ている自分も知覚する。また、木の観察中に、自分の中に生じるイメージも同時に知覚する。その木が、視野から消えても、自我の意識の中には、知覚行為の名残として、木の像が残る。

 この木の像は、少し前の木を観察していた自我と結びつき、自我は木によりイメージ豊かになった。木の観察により新しい要素を自我のなかに取り込んだ。この新しい要素を「私の木のイメージ」と呼ぶ。

 自我が知覚するなかで、このイメージを体験しなければ、決してこの私的なイメージを語れるはずがなく、知覚内容は記憶として残ることなく、現われては消えてゆく儚いものとなり、自我は、ただ、黙って、眼の前を通り過ぎるのを見守るしかない。

 しかし自我が知覚するとき、そして、その知覚内容と共に自我が新しいイメージを取り込み変化するのを認めるときはじめて、自我は、観察対象と、自我の変化とを関係づけ、イメージが生じたことを認識できる。(P84-85)

 人間は外界の事物を知覚すると共に、このような「イメージ」を自我の中にも知覚する。

 そして、外の対象を「外界」と呼び、自分自身についての知覚内容を「内面(精神)」と呼び、その両者を区別できるようになる。その両者の関係を混同することで、近代の哲学は大いなる誤謬を導いた。

 先のバークレーの主張と混同しやすいが、近代の観念論は、この「知覚しなければ外界は存在しない」だけでなく、知覚できるのはイメージ(表面)だけで、「物そのもの(中身)」を(分解せずに)そのまま知ることはできない、という錯誤を導いてきた。この観念論は、カントに代表される。

 人間は、外界の対象の中に色や音を知覚するのと同じように、自我の中にイメージを知覚する。自我のなかにイメージを知覚することではじめて、自我が向かい合う対象を外界と呼び、イメージとなった知覚内容を、内面(精神)と呼んで区別できる。

 内面のイメージと外界の対象との関係を混同することで近代の哲学は最大の誤謬に陥った。内面の変化を知覚すること、すなわち自我の変化が経験として前面に出て、この変化を惹き起こした外界の対象は消されてしまった。そして次のような表現がなされてきた。

 「人間が知覚するものは対象そのものではなく、そのイメージ(表象)でしかない。例えば、机を観察の対象とすると、机そのものを知ることはできない。机を知覚することで生じた自分の中の変化だけしか知ることができない。」(P84-85)

 しかし、素朴実在論を批判するこのような「観念論」は、自分自身(自我)についての知覚は、素朴実在論になっている。つまり、「自分自身についての知覚は、客観的に通用する事実と考えている」。だから、この観念論は、自己矛盾に陥っていることになる。

 素朴実在論をあまりにも単純と批判する観念論の誤りは、イメージ(表象)のみが知覚内容と規定しながら、自分自身についての知覚内容は、批判対象の素朴実在論を受け容れている自己矛盾にある。

 観念論は、知覚内容がイメージ(表象)であることを証明しようとするが、単純にも、自分自身についての知覚だけは、客観的に通用する事実と捉え、素朴実在論になっている自己矛盾に気づかない。何よりも酷いことに、その自己矛盾に陥っている、自分自身についての知覚内容を度外視するあまり、外界と内面という二つの観察領域を混同していることに気づいていないのである。(P94)

 以上の点から次のことが明らかになる。

 --このような内面に安住したままの観念論では、何を探究しようとも、観念論の主張する「知覚内容がイメージであること」を証明できないし、「知覚内容が主観性を決める」という主張のために、その知覚内容の客観性も否定できない。(P95)

 ★          ★          ★

 体験し、認識を深めることが人生の醍醐味であるから、過酷な人生を送ることこそ永遠不変の生命を手に入れる機会となる。悪銭身に付かずである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2014年11月05日 12時28分29秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: