シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年11月19日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 巷に溢れるニセモノの悪魔崇拝では、ソクラテスの無知の知の意味を知ることはほとんど不可能だろう。ニセモノの学者たちは、霊魂のことを何も語らないから、ソクラテスの無知の知が、単なる無知の自覚という陳腐な唯物論に陥ってしまうのである。

 ソクラテスの無知の知の意味については、このブログでも何度も紹介してきたが、いまだに曲解が罷り通っているので再度紹介する。

 無知の知の意味を読み解くには、ソクラテスの語る知をまず考えないといけない。ソクラテスが何を語ったのか、深く考える必要があるのはいうまでもない。

 ソクラテスはこの物質界についての知を述べたのではない。以前、古代インドの象の話で紹介したように、この物質界では、真実は自分が置かれた立場に依存し、相対的にしかみえないわけで、つまり多種多様の解釈が生まれてしまうわけである。

 簡単に言えば、自分しかみえず、他の誰かが何をみているかは自分からはみえないわけである。つまり自分の知は、自分の立場でしか有効でないということになる。この原則を現代人は無視してしまっているのが大間違いなんである。

 この相対的な知を仏教では「分別知」と呼ぶわけである。この分別知を主張すればするほど間違いを犯していくわけである。ここでも以前紹介したプラトンの洞窟のイデア論の影を実体と思いこむことを思い出させる。

 つまり、ソクラテスはそのような相対的な知識をいくら蓄積しようとも、真実に到達することはないことを述べたのである。そのことを、「神(真実)は常に唯一(物質的に1つという意味ではない)であり、分けられない」と表現した。暗黙糧に、偶像崇拝ではなく、主なる(唯一の)神を信仰することを説いた。

 これを「神は自分にはわからない存在」という風に曲解しているアホバカ学者もいる。神との対話を重視したソクラテスが、自分には神がわからないというはずがないだろう。

 つまり神とは全てを一つに結びつける存在という意味で、だから、決して相対的に現れるものでなく、唯一絶対的に現れるものなのだ、というわけである。だから、この相対的な世界である物質界を超えない限りは、本当の知の神には出会わないということになる。



 そういうアホバカの連中は地獄が大好きなんで、キリストも十字架刑にかけて殺してしまうわけである。自分が偉いと思っているアホバカたちなんで仕方ないといえば仕方ない。教師を排除してしまうアホバカ学生の傲慢なエゴのなせる業である。この連中は悪魔に魂を売ってしまっているので、もはや人間の進化を遂げることはないだろう。

 しかし、頭でっかちの行く末は、ついには、その重い頭を支えられなくなり、頭の重さ故に自ら崩れていくことは、自明だろう。机上の空論を振りかざしながら、物質界を徘徊し、恐竜のように環境を壊しながら、同時に自分の住居を破壊し、自分自身も破壊してしまうわけである。それは暴飲暴食をして肉体を損なうアホバカをみれば一目瞭然である。全ては執着心のなせる業である。

 例えば、つい最近嘘つき解散発言したアホバカ政権は破壊しかできないから、ついに解散して崩壊してしまうわけである。不正塗れで、不正で着飾る裸の王様といったところである。再度また不正選挙をやるつもりだろうか? アホバカにつける薬はない。

 アホバカは破壊しかできず、創造ができないから、何をしても無駄で自分を壊して病院に逃げるだけである。創造というのは貧困や苦悩の経験のなかで生まれるから、貧困や苦悩の経験を最も嫌うアホバカには国家運営など土台無理な話だからである。

 生みの苦しみというのを知らないのだ!

 アホバカに苦労は、猫に小判というわけである。この小判とは永遠の生命のことである。病気や死があるからこそ、永遠の生命を自らでつくることが可能になるわけである。神とは無から全てをつくりあげる能力の持ち主だから、人間は神の子なので、誰でもこの能力が眠っているのである。

 そのようなことを全く理解しないアホバカに警告するためにシュタイナーの話を続ける。 

 ☆        ☆        ☆

 死をもって終わる病気は人間にとってどのような意味があるのか?

 という治癒とはまた別の疑問が生まれる。

 死に至る病気とは、ある意味、治癒とは正反対の、つまり、内人間と外人間の間で不調和になったバランスを回復できない、つまり、現世では、内人間と外人間の間にある境界線を越えて正しい方法で橋を架けることができない、ということを意味している。



 健康な肉体は寝る前とほぼ同じなので、朝起きると、割とすんなり霊魂を受け入れるが、損傷を受けた体は異なるので、霊魂を受け入れないことがある。だから、結局、肉体が、霊魂を受け入れられなくなると、人間は死ぬことになる。人間は肉体を放棄しなければならないが、それはもはや再び、肉体との調和を確立できないからである。

 (死はいわば離婚みたいなものである。ここにまた長寿の秘密がある。霊魂が創造性に富むほど、柔軟で協調性が高いほど、肉体との調和が確立できる。長寿の人は精神にゆとりがあり、あまりコダワリがないことに気づく。)

 人間は病気の経験を、外的な肉体には何の利益もないまま、眠ることで霊界に持ち込むが、肉体に損傷を受け、死に至った結果として、肉体がもはや霊魂を受け入れられないという、この死の経験から生まれる果実(叡智)が、今度は死から次の転生まで霊界で新しい人体をつくる準備を充実したものにする。

 だから、また死で終わる病気にも感謝しなければならない。

 何故なら、それを教訓とし、死から次の転生まで霊界で、死で終わった病気の経験から今度はその病気を克服できる人体をつくるために、その死の経験を基にして霊魂の治癒力を結集し、充実した人体構築を準備する機会を得るからである。



 だから、病気が死で終わるか、治癒するかは、霊魂の成長(治癒力、調和力)いかんなのである。

 確かに死と治癒とでは180度異なる側面を示すが、いずれにしろ、霊魂の治癒力を強化することに変わりはないので、治癒する病気への感謝は勿論のこと、死で終わる病気にも感謝すべきである。

 死で終わる病気にも感謝すべきなのは、死から次の転生の霊界でのより高次の進化段階に進むには、死が学びの上で大きな経験となり、今度は死に至る病気を克服できるように新しい人体を構築するときには、その経験が生かされるからである。

 そして、死で終わった病気の経験から、次に転生したとき、前世での失敗の要因や有害な側面をも回避できるようになるだろう。つまり、治癒する病気は人間の内の精神や(自然)治癒力の発達(進化)に影響し、死で終わる病気は人間の外界での活動(生命)力の発達(進化)に影響する。

 従って、必然的に2つの異なった観点が生まれるが、次のように考えるのは人智学の観点から大間違いである。

 死で終わる病気が感謝すべきもので、死で終わった病気(の経験)が次の転生での失敗や有害なものを回避させるなら、病気は死で終わらせるべきで、治療する必要がないのではないか!

 このような考えは、人智学から得られる事実に反している。何故なら、このような考えは単なる抽象論で、つまり、現在すべきことをしないで、結果だけを求める、いわば種を植えずに実をとろうとする空理空論だからである。

 というのも人智学からわかる事実とは、何もせずに利益だけ得ようとするような抽象論のマヤカシではなく、様々な観点(立場)からみることではじめて到達できる高次の真実に関するからである。

 だから、生きている間は、できる限りの方法で治療を試みる義務がある。治療に最善を尽くし、できるだけ生き続けるという使命は人間の覚醒意識に根ざすもので、それでも死が生じてしまうことにも感謝すべきという観点は、通常の覚醒意識の中にはない、潜在(無)意識のためである。

 (覚醒意識のなかで死を選択してはいけないということ。安楽死などは認められないということ。)

 死で終わる病気への感謝は、物質界を超越できてはじめて勝ち取れる観点なのである。

 (死後の世界をみれない者が、死後や死を語ることなど不可能で、生きることよりももっと苦痛な地獄に行くかもしれないからである。)

 病気を死で終わらせることは、「神の観点」に立ってはじめて正当化できるが、人間の観点からは治癒のために最善を尽くすのが正当である。また死で終わる病気全てを同レベルで評価できない。

 だから、当面、これら2つの全く異なる観点に折り合いをつけることはできず、双方が平行して発達(進化)していく他はない。いかなる抽象論での調和も現段階では役に立たずにかえって大きな過ちを犯すだけである。

 人智学はこれら2つの全く異なる観点からくる真実の両側面の認識に向けて前進していかねばならない。

 「治療は善で、義務である」のは(物質界で経験を積むために生きる上で)正しいが、同時に、「病気の結末として死が生じるのも善で、死は人間を宇宙全体の進化に導く」というのも(霊界で経験を能力や叡智に変え、次の転生の準備にかかる上で)また正しい。

 これら2つの言葉は互いに矛盾しているが、両方とも超感覚(霊)的な物質界を超える知識により認識できる絶対的な真実を包含している。

 遥か未来ではじめて調和できる2つの進化の流れが、正にいま物質界で生き、経験する人間の生活の中に、2つの矛盾した流れとして入っていくとき、型にはまった抽象的な考えが何の役にも立たずに間違いを犯すことを人間に気づかせ、人生をより広い霊界からの観点から眺める必要性を人間に理解させる。

 この2つの流れのなかにある矛盾が、物質界での経験と物質界を超えた霊界の真実についてのより深い知識から解き明かされるときはじめて、この矛盾が、人間の知性を制限するものでなく、生命を調和に向けて進化させ、人間という生命体が生き、経験を積むことで徐々に生きた経験からホンモノの知性へと導かれることを病気などを通じてはっきりと理解すべきである。

 ☆        ☆        ☆

 人間が物質界を生き経験することで、神々もまた進化するのである。人間の知性に神々が宿るのがその証拠である。ニセモノの知でなく、ソクラテスが説いたホンモノの神々の叡智は、いま人間が物質界に生き続けるということで得られるのである。

 貧困であろうが、プライドを失おうが、苦悩で塗れた地獄であろうが、生き続けることが人間という生命体の弱さでもありまた強さでもあるのだ! とにかく生き続けることが、柔よく剛を制すである。





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Last updated  2014年11月20日 22時38分26秒
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