シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月09日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 最近の日本をみていると、どうも北朝鮮化しているようで恐ろしい。では前回の続き。

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 「イモくってプウー・・・・西郷どん臭うごわす」

 「はぁ気いばつけます」と小さくなるのへ「郡方の勤めは百姓からの年貢どりだ。ちょっと巧くやればイモでのうて米の飯くえるぞ」と同輩から言われても、西郷は首をふって、「百姓はそう苛められん」と断った。

 この年は12月から弘化と変わるが、シーボルト事件から17年たち、大塩平八郎の乱から8年たっているが飢饉が続き、薩摩も冷害。

 三年前からの天保の改革も失敗し老中水野は引退、阿部正弘が変わったが、やはり寒冷は続き百姓は年貢分さえ収穫できずだった。「・・・・ひもじか」と吉之助は唸った。子供のときには大食だったというが、次々と弟妹が生まれ前年には後の西郷従道となる信吾さえ生まれ、「弁当がこないな小っぽけな芋一つでは」と情けそうに腹をなぜたが、だからといって役得みたいに百姓家で飯も要求しかねた。

 「なにも正義漢ぶっとるじゃなか。おいどんは気がこもうて百姓によう言えんのじゃ」と見かねてヒエ飯を碗にもってきた百姓娘に吉之助は、大きな身体を小さくしていった。「飯がいらにや、こっちがよかごわすか」と娘は他の役人と同じかと前をまくった。

 「いけもっさん、腹が減っては戦はできんでごわす」とせっかくの馳走だが首をふった。そういう事をすると子供ができて、ますます食糧の事情が悪くなると本能的に拒んだ。「上の口も下の口もことわらっしゃるのは、たんと年貢かける気か」と娘は泣きかけた。

 「うん、困ったな」と吉之助もとまどった。「ひえ飯を振舞うて貰っては後が困ろうな、では使うてもへらぬ方・・・・」と掛かったが、「・・・重い、おし潰されもっそ」とかぼそい娘は西郷の巨軆の下で悲鳴をあげた。そこで、「やっぱりやめもっそ」とすたこら逃げた。



 次の見廻りのとき西郷はやさしく、娘の家の年貢を出せる範囲にまけてやった。

 「嘉永二年三月に江戸大火で伝馬町大牢がとき放しのままで高野長英が行方不明」と、まさか薩摩まで逃げてはくるまいに、郡方へ手配書が廻ってきた。西郷は高野など知らぬ。

 しかし禁止のオランダ学者だと教わると、「世の中が変だ」と想うようになった。が、薩摩も大変なことになった。殿の斉興には正妻の子の斉彬と、江戸の舟宿の娘お由良の産んだ久光がいた。跡目をどちらにするかで藩内は二分して対立していた。西郷は、「父が厄介になっている赤山さまが斉彬さま側ゆえ、おいどんも」と自分の立場をきめた。

 「まさか殿のお子を刃にかける事はできぬ」と久光が早死にするよう祈とうしたのが発覚。

 西郷家が出入りの赤山ら十四名へ切腹。遠島が九名閉門も十四名と大弾圧があった。「高崎くづれ」と呼ばれ大久保の父も遠島。伜の後の大久保利通も謹慎を命じられた。

 「わしもすんでのとこ引っ掛かる処だった」と父吉兵衛は青くなったが吉之助はすぐに、「親じどんの名代で」と赤山邸へ行った。「よかよか」と丁度いま切腹しかける処だったが、「まあ、よく見ちょれ」と腹へ突き刺した。が直ぐ死ねるものではないとのたうった。

 「あんな立派な方でも切腹では巧く死ねぬ」と24才の西郷吉之助は妙な悟りをひらいた。翌嘉永四年二月斉彬が43歳で当主になった。「鬼界が島へ流された大久保の父も許されて戻ってくる」と、当てにしていたが何の沙汰もない。どうなっとると吉之助は考えてしまった。

 「久光さまの母御とはいえ、かつては今の殿を亡き者にせんとしたゆえ、奸婦お由良の方は御成敗あってしかるべきではないか」と後の海江田になる有村俊斉は激昂し、「今なら叩っ斬っても罪にはなりもっさん」とまで口にしたが、皆が諫めて止めさせた。

 ようやく藩主になった斉彬にしてみれば、「家来が二派に分かれ、跡目争いの煩わしさは、もう沢山だ」と、静観していたきりだ。しかし西郷らは張り合いぬけしクサった。男は熱中して打ちこむ当てがなくなれば、「代わりに・・・・」と女をほしくなるものだ。

 「どうも、あれはおかしい年頃のせいかも」と父吉兵衛は気をきかして伊集院の俊子を「うちの嫁にと・・・・」貰いうける事にした。

 かぼそい娘だと重いといわれるかと案じ、「おいどはでかごわすか?」と西郷は前もって、器量よりも娘の体の尻を気にし尋ねた。



 余裕はなくとも嫁とリとなればイモ焼酎で宴をもうける。大久保や有村もきて酔った。西郷も花嫁はそのままで仲間と騒いだ。やがておひらきとなった。が、気の優しい彼は、

 「よかでごわしょか? 重たうなかか?」とそればっかりを気にして嫁をいたわった。

 「天は二物を与えたまわずとは、この事か」

 次の日の朝、初めて嫁の顔をみて唸った。西郷の巨躯を浮かせ盤石のごとく頑張り、「重い・・・・」と悲鳴をあげぬのは良いが、アバタだらけの面相は桜島の噴火で海面にブカブカしている軽石みたいな風情だったからだ。

 「おごじょは顔ではなか心さえ美しけりゃ、それで良かでごわそ」とあまりのブスに西郷が顔を尖らせるのへ父親は意見してきた。「ものは買う時には先によく見ろというが、嫁とりするときも下ばかり覗かんと、上の方も、よく検分してからにすれば」と悔いた。



 初めは時間つぶしの恰好で古帳面をめくっていたのだが、どうも帳尻が変だった。ためしに算盤を入れてみると計算が合わぬ。片っ端から調べてみれば呆れるばかり。

 「これでは百姓も無茶に取られて困ろうが、御国の方も大損をしている」と発憤した。

 「殿さまへ、かかる不正がまかり通っていますと上申書をかこう」と軽石の妻の顔をみたくない一心から意見書がきを始めだした。「・・・・あなたさま」と嫁が声をかけて来ても、「わしは役所では出来ぬ仕事を家へもち戻ってしとるんでごわすぞ」と寄せつけずだった。

 はたして殿のお目にとまるかどうかと吉之助は余り当てにしていなかったけれど、「来る参勤交替には供の数に入れる」と、郡方の書役へは破格の通達がきた。父吉兵衛は、「なんでじゃ」と不審がった。が当人は喜び、「わしの殿は読まれたのだ」と感激した。

 安政元年(1854)一月十六日、南国薩摩を後にし行列の江戸到着は三月六日だった。

 「中小姓」の身分に郡方書役から昇進した吉之助は、嫁の軽石顔を、みずにすむだけでも有難いと生れて初めての高輪藩邸へ入った。「やるぞ・・・・」とすっかり当人は張りきった。

 「庭番を命ずる」と沙汰されたのには驚き、「・・・・・えッ」と吉之助は聞き返した。なにしろ中小姓役で恰好よく出府したからである。「お庭番と申せば公儀でも伊賀者の賤役とされているが、殿はこまめに書いて差出す其方を見込まれたのだ」と上役からいわれた。 軽石の妻が厭やで連日のごとく書いて出した意見書で、西郷は江戸へ来られたのだ。

 「そうでごわすか・・・・」と確かにこまめに意見書はかいて出している。だから庭へ出られた時の殿の側へゆき、命令をされた通り探索し詳細報告書でだす役にされたのかと唸った。

 「まあ加冶屋町の者の身分では庭番であれ、殿に直接にお目もじができ御言葉を賜れるのは、実質的には将来の為によかごわす」と樺山三円のちの資之が慰めるより励ました。

 「そういうもんで・・・・」と先輩の言う事ゆえ、西郷吉之助も渋面を作ったが承知をした。己れの郡方役所の不正をあばいた内容よりも、丹念に書いて出したレポートの書きぶりだけが認められたのではスッキリしなかった。

 なのに殿から与えられた最初の仕事は、「水戸の藤田東湖や、前の橋本左内について知りたい。詳しく調べい」との任務だった。

 「行ってあうがよかでごわすが、一人では」と人見知りする西郷に樺山が付き添った。東湖の父は古着屋の小僧だったのを、水戸の斉昭が拾い士分に取り立てたと聞いていたが、「庭番として御奉公か。大きいですぐ見つかりますな」と身分を軽蔑せず優しくいった。

 身分をいやしまれるのでは・・・・と、大きな身体を縮めていた吉之助も酒を出されて、「まあ一緒にやりましょう」とすすめられて、「ハァっ」と受けている内に気がなごんだ。

 「君のような純情な青年はよい」といわれて、「おいどんも先生が好きです」と口に出した。

 一度あったきりにすぎなかったが三日がかりで、藤田東湖こそ天下一等の人物なり、と西郷は殿への報告書には賞めちぎった。しかし橋本左内のような才子肌とは西郷は合わなかったらしい。軽薄である。医の出ゆえ東光派の賤しい者と始めはこき下ろした。

 「越前の松平春獄と提携する」と殿がいい、やむなく西郷は橋本左内と会合が多くなり、「彼は当代まれにみる英才」と後には賞めるようになるが、当初は、橋本も西郷の事を「大男総みに知恵が廻りかねる愚直者」と帰った後で妻に話した程でかっていなかった。

 七月に入ると殿が急病、世子の虎寿丸も病気になった。幸い大人の方は助かったが、六才の若君は亡くなった。そこで西郷らは集まり、「お由良の方が殿父子を一緒に呪いにかけたのでごすぞ」と、国許へ使いを飛ばせた。

 「奸女斬るべし」と暇をと殿へ願いでた。そして殿はすぐ、「由良の子の久光の忠義を、虎寿の代わりに世子にする」と争いを防ぐために宣言した。

 「・・・・何しに薩摩へ行くか」と聞かれた。正直者の吉之助は問い詰められて答えた。「由良を斬って虎寿が生き返るか」と、単細胞めがと叱りつけられた。

 安政二年(1855)十月二日、東海大地震。大きな西郷吉之助が庭の泉水へドブーンと落ち、大きな水しぶきをあげ大騒ぎした。高輪の藩邸も傾き三田へ新築となった。江戸の大半がぺしゃんこに潰れてしまった。

 大地震で薩摩屋敷でも20名も圧死がでた。「えッ先生が・・・・」と樺山三円にきき西郷が濡れたまま水戸上屋敷のあった今の後楽園球場(東京ドーム)までゆくと惨状はここも同じであった。

 「東湖先生は母者を助けようとして代わりに、ご自身が天井の棟木の下敷きになられた」と聞いて西郷はワァワァ泣きに泣き通した。

 「遠山の金さんこと前町奉行の左衛門尉も、やはり棟木につぶされ山内家出入りの相政が駈けつけ助け出していたが圧死していた」と色々と話しが聞こえてきたが、西郷吉之助は「東湖先生に死なれては、わしも死にたい」と猛り狂うように引きこもり泣き喚いた。

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 次回に続く。





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Last updated  2015年04月14日 11時28分19秒
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