シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月14日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 大道廃れて仁義あり、とは老子の一説だが、世の中が乱れてくると英雄論が何かと持ち出されるが、そもそも英雄などは後世でつくられた虚像なんであり、それはTVタレントの日常生活をみればわかることである。

 フーテンの寅さん演じる渥美清の日常生活に寅さんを求めるのは、視聴者の野暮な願望で、映像による洗脳の恐ろしさを物語る。水戸黄門のモデルとなった光圀の実像を語ったら、TVの水戸黄門がホンモノだといって譲らない老人もいたそうである。

 笑い話になればいいが、そのような洗脳が宗教がかってくると精神的になにかとおかしくなってくる。振り込め詐欺もこのような洗脳を基に恐怖感を植え付けることで成り立っている面もある。

 日本史のほとんどにそのような話が盛り沢山なのに少しでも気づけば洗脳は回避できる。

 そういうわけで、英雄といわれた龍馬のほとんどが創作で、また乃木大将もあまりに酷いので元帥になれなかった普通の軍人で、その前の軍神とされた西郷も、ほとんどが虚像であることを続けて紹介する。

 ★          ★           ★

 薩摩では、伊集院から嫁にきた俊は、西郷から近く戻るとの手紙で帰りを待っていた。しかし殿さまに問い詰められ反対されて、戻ってこられずになったとは知らないから、「私の事を嫌っていなさったからじゃろう」と親元へ戻って怨みごとをいってきた。

 「あの軽石め、何を怒っちょる」と西郷は藤田東湖の死で胸も頭も一杯で放っておいた。だから、俊は返事もこないのに、ますます立腹したらしい。自分では書いてよこせぬから実父から江戸へ離縁を求めてきた。西郷も、「仕方ごわせん」とあっさり承諾をなした。

 「次の将軍家には水戸の一橋慶喜をたてるよう画策せい」と、呼びつけられ命じられた。殿さまの鶴の一声である。庭番としては、「かしこまってごわす」とすぐ行動開始。しかし77万石でも薩摩は外様大名である。

父君斉昭公が、大奥へ入りこんでは女中の尻まくりなどやられたのがたたっている 」と教えた。「水戸は吝だ、金のせいだ」と有村はいった。

 (斉昭が征夷大将軍になる運動のために、水戸黄門を流行らしたらしいが、大奥に見透かされ反対されて、息子の慶喜ということになったようだが、それも反対されたようである。)

 「なんと申しましても難しゅうて・・・・」

 「うん、島津一族の安芸の娘篤子を近衛家養女にし大奥へ嫁がせ、薩摩の力で大奥の反対派は押さえるつもりだ。なら巧くゆこう」といわれ、「はあッ恐れ入りもうす」と西郷吉之助は手の内を洩らしてくれる殿様に、ただ感激しきった。

 安政四年四月、すべて実行に移して島津家の行列は西へ向かい京へよった。西郷は「梁川星厳、頼三樹三郎、月照」といった世の噂にのぼる人々を・・・庭番の役目として逢いにゆき接近し彼らの実状を見たまま殿ヘ、「意見書」の形式で、報告する仕事をした。

 5月24日に西郷吉之助が薩摩について間もなく、慶喜派の老中阿部正弘が39才で急死。こうなると大奥へ入った篤子の力で、どうもなるものではなかった。そこで西郷をよび、「この侭ではどうにもならぬ。身分は、庭方でも余の代理のつもりで江戸へ行け」と命令。

 「かしこまって・・・・」と11月1日に出発し、12月6日に江戸へつくと東湖は死んでいないから、西郷はやむなく橋本左内の許へ行った。「とても江戸では手も足も出せぬ。京へ行って次の将軍は慶喜を、といった勅を貰う」と橋本左内はずばり思いきって打ちあけた。しかし二人はつれだって京へきたが直接に動いては人目につく。

 そこで清水寺へゆき、「月照和尚おまえさまなら坊さまゆえ・・・・」と近衛家の連絡係とし勅命を乞わせた。もちろん握りきん玉ではない。三万両今でいえば三十億の現ナマがワイロに使われた。「日米条約のご聴許との交換に」と老中堀田正睦も、黒いピーナッツを貰って承諾をした。

 しかし 反対派の井伊の家来の長野主膳が、当時のロッキード事件の核心をつかんだ 。圧力に脅かされて貰った金を返して寝返りをうつ者が、あいついで出てきてしまった。 彦根の井伊はそれを手柄に紀伊の家茂派を統合し大老職になった

 「かくなる上は武力をもってしても・・・・」と、島津斉彬は覚悟をつけたが一藩だけではと、「これ西郷、そちは余の親類の筑前と山内容堂の土佐に味方するよう話しをつけてまいれ」と御沙汰。

 島津斉彬にしてみれば、先祖伝来からの、「九州独立」の悲願のため、お由良の孫を世子にしてまで藩内統一を計ってきたのだ。

 「なんとしてでも一戦に勝ち余の意中の者を将軍につけ、ゆくゆくは鹿児島を江戸に!」との意気ごみで出陣の仕度をふれさせた。

 処がである。 6月19日に、井伊大老は先制攻撃にでて、京で三万両がばらかれた時に格公卿に仲立ちした髪結や商人を一斉検挙した。そして下から証拠固めをし水戸京屋敷鵜飼父子から誰彼の容赦なく六角の獄へ下した。密勅よりも贈収賄罪として大疑獄にした 。

戒厳令をしいた 。

 橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎、長州から吉田松陰まで護送させてきたのである。「後で悔いを残すな」と井伊大老は、片っ端しから虐殺みたいに、どんどん斬らせた。

 「こりゃいかん和尚・・・おいどんと逃げもっそ」と、清水寺の月照の身を案じた西郷は、「殿の命令でした事ゆえ助けて貰えもうす。薩摩へ行くがよかでごわす」とせかした。

 「・・・・えっ殿さまが御自身で藩兵調練指揮さなさり倒れたのでごわすか」と西郷は驚いた。

 「二人とも江戸表より手配されていもうす」と斉彬が急死したので藩の役人は態度一変。たわらやとよぶ宿へ軟禁され見張りがつき、11月15日になると月照死刑が伝わってきた。

 月照の身を案じ京からそっとついてきた平野国臣が船を見つけて、「これに早く、おのり下さい」とのせた。「ここらには小さな島が多うごわす。身を匿すには何よりでよか」と西郷は元気をつけた。「和尚さん海ば逃げもっそ」と西郷はそっと宿の裏手から逃げた。京からの月照や平野国臣は知らないが、殿が亡くなった今は、お由良派の天下と、西郷はもう逃げる行先のないのを知っていた。

 だから沖合いまで舟が漕ぎでると月照へ、「おいどんは、おはんだけは死なせはしたかごわせん・・・・」と泣き声で耳許へささやいた。「・・・・えっ」月照が振りむいた処を西郷は、「ごめん」と抱えるように共へ海へ転げた。

 ザブンと大きな水柱がたって二人とも海原へ、まっ逆さまに落ちていった。平野は、「大変だ・・・・誰か来てくれ」と動揺して、近くにみえる漁舟へ大声だして救援を求めた。浮かんできた処を引き上げられると、大男の西郷は水だけ吐くと蘇生した。しかし月照はいくら手当てをしても息はもどらなかった。

 「生き返られては始末に困る。食いぶちに年六石を送ってやるから奄美大島へ行き、名前も、変えて暮せ」と西郷は厄介払いとなった。「菊池源吾」と名を与えられ、安政六年一月に、砂糖舟で島送りとなって一年がすぎた。島流しみたいな味気のない日々をすごし、「殿さま」手を合わせて亡き斉彬をしのび、「先生・・・・」と藤田東湖へよびかけたり、「橋本左内、梅田雲浜」と名を口にした。

 「ハァ島で育てば娘16恋ごころ・・・・」と仁王立ちして海を見つめている側へよってくる娘がいた。しかし33才の男ざかりではあるし、他には、何も身を打ちこむ事もない身なので、「ここんとこばうちこみもっそ・・・・」と下半身に気合をこめ汐風の中で猛りたった。

 「あんご」と呼ぶのが奄美大島のおごじょがなる島妻である。愛加那にしても、本島からきて何もせんでも米の仕送りのある男は魅力だったのだろう。じっと抱かれたままで「わがものと思えば軽し大男」と、小柄な娘はこらえ、決して重いとはいわずだった。

 浜木綿の咲く丘で愛加那を抱えていると、「大きな牛のごとあるでごわそ」と、身体全体か、それとも部分的をさすのか、漁師の子らが屈みこんでは指さしてはやしにきた。いくら開放的な島でも、これでは困る。やむなく愛子と名をかえ己が小屋へつれこんだ。

 「なんにもやることがなか・・・・」と日夜わかたず抱いていたが、気の優しい大男は「重かでごわしょう」と時には自分が下になって愛子を上にした。芭蕉葉の小屋だから、「まる見えだ、こま廻しみたいでごわそ」子供たちが面白がってよく覗きにきた。

 ★          ★           ★

 次回に続く。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015年04月14日 11時19分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: