シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

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家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します 。

 次郎三郎(後の家康)は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代(後の信康)を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。

 (家康人質説というのは、この家康が、元康の子信康をさらったことが誤って伝承したものと考えられる。)

 さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい=後の西郷の局、秀忠の母のいる、掛塚へ戻った。

 次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。

 「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。



 桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。

 つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額が、この間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。

 是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、使人送葬干此然是行、戎役未息墳墓唯為封而己、

 「旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略」

 龕  慶長十四年春三月

                   大將軍 翁  印

 さて、この中で問題になるのは 「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと 、直ぐそれに続いて、「 禅尼=源応尼がこのことで思い痛め心配した 」という一句である。

 家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この 祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠 であろう。



 さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。

 しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。

 どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。

竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している 。

天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定 だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた 雛人形二対 及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。

 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか? と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、 まだ二歳 だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。

 又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、 松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない 。

 (桐紋は後に秀吉のトレードマークとして有名になる。)

 だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、 松平元康の子の信康であることは間違いないであろう 。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸=信忠、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。

 つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「 岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ 」と信長が命名したものである。

 だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく、これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑であると、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。

 家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。

 (信長が悪者になっている。)

 だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。

信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである 。

 これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。

 そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「 これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している 。

 つまり 「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている 。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。

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 八切史観によると、通史では、松平元康の子信康(二歳)が、家康(八歳)となっており、6歳も歳をとっていることになり、6年の空白がある(後にも、通史のこの年齢が合わないことが頻繁にある)。

 また、通史の信長が、五徳のチクリで、家康に、信康と築山を謀反の疑いで殺させる、というのはいかに独断の信長でも無理がある。それが理由になって徳川がかえって武田側に寝返るか、謀反されるのがオチである。

 それに当時織田家と武田家の関係は信長の娘が信玄の子勝頼の嫁に入っているほど良好で、武田家への内通により謀反というのは織田家からは考えられない。むしろ、徳川家に対する武田家内通の松平家の謀反で、家康の松平の跡取り封じと考えた方が妥当である。

 また、八切氏によると、信玄の父信虎追放もでっちあげで、信虎は信玄の本名だという。

 なお、徳川家の有名な葵紋だが、朝廷からの桐紋の下賜を断って使っていたそうである。もし松平家が先祖なら同じ桐紋を使っていたので断る理由がないはずである。つまり徳川家は松平家とは違うということが家紋に現れている。次回に続く。





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Last updated  2015年04月30日 15時00分41秒
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