シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年07月17日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 お馴染みのネットゲリラさんのサイトで、面白い話をみつけた。上司や担任だったら”メンドクサイ”と思う日本史の人物ランキング で、織田信長が1位だという。出鱈目な大河ドラマなどでワンマン上司や独裁者的イメージが先行しているせいだろう。

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上司が織田信長だったら
http://my.shadowcity.jp/2015/07/post-7482.html

 上司や教師だったらイヤな有名人、というんだが、一位の織田信長は、まあ、判らないでもないんだが、戦国時代の大名なんて、多かれ少ながれ、みんな凶暴だったり陰険だったり、ロクなもんじゃないですね。乱世なので、性格の悪いヤツしか生き残れないしw

 1位織田信長 45.0%
 2位徳川綱吉 14.2%
 3位豊臣秀吉 11.2%
 4位卑弥呼 10.6%

 6位明智光秀 8.0%
 7位聖徳太子 7.0%
 8位弁慶 5.4%
 9位徳川家康 5.0%
 10位石田三成 4.8%
 10位千利休 4.8%

 12位蘇我入鹿 4.4%
 12位吉良上野介 4.4%
 14位藤原道長 4.2%
 15位伊達政宗 4.0%
 15位安倍晴明 4.0%


 つうか、昔すぎて、ホントはどんな人物だったのか、判んないだろうと思うんだがw 蘇我入鹿とか安倍晴明とか、おいら会った事もないしw 判断のしようがない。

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 しかし、同じ話のコメント欄に、以下のように、上司にしたいランキングでも信長は1位になっている。

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 上司にしたいランキング


 2位 坂本龍馬 
 2位 西郷隆盛 
 4位 山本五十六 
 5位 徳川家康 
 6位 伊達政宗 
 7位 勝 海舟 
 7位 上杉謙信 
 9位 吉田松陰 
 9位 豊臣秀吉 
 9位 石田三成 

 ほとんど一緒でワロタ

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 上司にしたいランキングで上位にくるのは後に創作された美談が浸透しているせいだろう。私も八切史観を知る前は、全く洗脳されていた。特に司馬小説の洗脳力の高さは洗脳が解けたいまだからこそ改めてよくわかる。巷での司馬感染力は増大で司馬教ともいえる歴史人物教の影響が強い。

 しかし司馬教でも、唯一の事実とも思える乃木希典の人物像については割と正確に無能者という烙印を押している。この人物観は、八切史観でも同じで、長州の体面のために、大将に祀りあげられたそうだが、あまりに酷いので、八切氏は現地の酒場で酔って女性を殺傷したのを直にみたと述べているが、戦況が芳しくなく児玉が現地にわざわざ出向いて指揮したという話は当時有名だったようである。最後も切腹ではなく毒殺されたようである。

 日露戦争が、ロシアよりも遥かに多い犠牲者を出しながら日帝が勝ったことになったのは、ニセモノユダヤがロシア帝を廃し、油田の利権と、仲間を送り込み、彼らが考えた共産主義による独裁支配を築きたかったせいだろう。

 信長の人物像がメインなんで、乃木の人物像にはこれ以上は触れない。

 さて、現代の信長のイメージの源流は信長公記からのもののようだが、八切史観では随分と異なる。恐妻家で、部下に気を使う、親分肌の人物像である。

 信長の残忍なイメージは仏教徒が後世つくった創作のようである。八切史観からわかるが、信長は土着神道の部落民出身だったので、大陸からきた藤原氏の仏教朝廷を敵視し、反仏で、仏教徒には比叡山焼き打ちなどかなり酷いことをしている。

 信長にいわせれば、仏教徒が部落民を奴隷にし、弾圧してきたことの仕返しだったようである。天下統一とは、部落民の解放で、仏教徒と神道を対等にする目論見があったようである。しかしイエズス会の裏切りにあい、仏教徒の利権維持のために信長は爆殺される。八切史観によれば、信長の後を引き継いだ、秀吉は朝廷を中国=唐に返上しようとしていたという。

 つまりざっくりと日本史を語れば、昔は中国の属国で、いまは米国の属国というわけなんである。信長、秀吉、家康が英雄として語られるのは、日本を独立させようとしたからであり、大陸からの差別をなくそうとしたからである。信長は挫折し、秀吉は一代まで、家康は東西に分かれて公武合体で体裁を整え妥協したわけである。

 西が仏教で東が土着神道、体面を取り繕うがために、神道系の救いの理念が入り、東は薬師寺仏教となったわけである。しかし済州島出の綱吉のときに再び薬師寺の部落民弾圧になり、神仏混合で属国として仏教に組み込まれる。

 部落民のその鬱憤が、吉宗の享保の改革での幕府の一部民営化により部落民の隔離から信長の楽市楽座のような自由な移動を生み、幕末に部落民による討幕運動へとつながる。

 つまり、信長は日本原住部落民にとっては解放者であり神のような存在だが、この国を大陸の属国として支配していた仏教徒にとっては利権の破壊者であり悪魔のような存在になる。

 その対照的な見方が、上司にしたい、したくないランキングナンバー1に信長を押し上げたのだろう。

 では八切史観での信長を参考のために紹介する。

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【織田信長像】

 信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば 近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである 。

 そして 織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである 。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい 。

 「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。

 つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦をおおいに宣伝したが、この時(桶狭間)についていったのは 山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない 。

大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている 。こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう。

 という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈である。 だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である 。

なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい 。

これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた 。

だからその為、(家康の)高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである 。

 さて(今川から)分捕った五百挺の銃を持ち帰り、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。毎年連戦連敗。

みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、井之口城を占領した 。

 (家督相続と、この美濃占領で信長は、妻に頭があがらず恐妻家となる)

 (墨俣築城の話も)岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、木下籐吉郎が防いだだけの話しである。ここは以前にも墨俣砦として記してある。

 こんな事も歴史屋さん達は判らなく、講談の儘なのが現状である。明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、 家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させる と、 東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した 。その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。

 余談になるが、 那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる 。それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも 天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである 。

 (信長の兵は兵農分離と教えられるが、嘘で、はじめから兵農分離の部落民の兵だったから、稲刈りに関わらずにいつも働けたし、出自も不明である。戸籍は仏教徒が農奴を管理するためのもの。つまり仏教徒の戦は、坊主が後方にいて、農奴を最前線に出したわけである。

 だからはじめから戦意などなく、褒美が多い方に寝返ったわけである。今も昔も戦争の身分に代わりなしといえる。だから、農奴も、信長の兵も原住部落民なんで、お互いに示し合せもできた。馬印が暗号になった。ヤラセの戦も多い。)

 播州赤穂の森城主が、今で言えば、体育のために木刀の指南を召し抱えたのが、治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ 浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた 。

この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が強制移住させられたことがある 。関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。

 此処が今では 「塩尻峠」の地名で残っていて トラック便の中継地点になっている。つまり 天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである 。

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 次回に続く。





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Last updated  2015年07月17日 15時37分37秒
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