シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年08月10日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続きだが、一言述べると、私は八切史観から学んだことがある。専門家といえども十人に九人まではほぼインチキである。残りの1人がホンモノかどうかというのが世間の相場で、その1人の意見が何の反論もなく、無視された場合、その1人はホンモノといえる。

 悪魔にとっては都合の悪いことは反論せずに(反論できないので)無視するのである。自分も同じ貉なのに、人格否定までする悪魔もいる。悪魔だってときには正しいことを言うはずなのに、それでは悪魔自身が悪魔を否定することになる。

 では続き。

 ★         ★         ★

*14日午後11時ごろの時点で、阿南は森赳の惨殺事件を知らなかったかもしれない。しかし、15日零時ごろには、森惨殺事件を知っていたことは間違いない。「戦いは放棄された。あとは自分にまかせて欲しい」という若者たちへの阿南の言葉は、次の行動を暗示しているのではなかろうか。

 陸軍省に残って阿南を待っていた若き将校の期待に応えるべく阿南は「三宅坂の陸相官邸に帰って行った」のではなく、本当の意味での“決着”を三笠宮とつけるべく、 三笠宮の住む防空壕に車を向けたのである 。

 では、どのような話がかわされたのか。私は「『神聖悲劇』が森赳を惨殺した」の項で書いた阿南の自刃直前の言葉の続きを書かねばならない。ノンフィクションの手法を無視して、阿南の死霊をよび出し、その死霊をして私のペンに書かせよう。

~私は森中将が惨殺されたことを知った・・・。若手将校たちの無念の声を聞いた。「戦いは放棄された。あとは俺にまかせて欲しい」と若手将校たちに約束した。 なにがなんでもニセモノのクーデターだけはやめさせたかった

 三笠宮がすべてを動かしていた。俺は三宅坂の陸相官邸に向かうように見せかけて、運転手に「三笠宮のところに行け!」と言った。そこに畑中たちがいた。俺は怒鳴った。「どこへ行くのだ。そのピストルは何のために使うのだ・・・」と。

 それから俺は三笠宮に言った。「詔書の承認を受けるべく枢密院を開くべきだ。法を無視してどうなるのだ。東郷外相も鈴木首相も無視してかまわない、と言っている。平沼枢相の主張が理にかなっている・・・」と言ったんだ。

 三笠宮は承知しなかった。問答どころではなかった。三笠宮の妻が電話したのではなかったか。そこに木戸が入ってきた。木戸も三笠宮も法を無視してもかまわないというわけだ。

 俺は怒鳴った~「そうか、お前たちは俺たち軍人のせいにして、お前たちが戦争を仕掛けたのではないという神話を創り出すために、こんな汚い芝居を創ったのか・・・」と。

 三笠宮は怒りだした。ピストルを手にし、俺を撃とうとした。三笠宮の妻が俺と三笠宮の間に入ってきた。俺は背を向けた。そして三宅坂に帰っていたんだ・・・。

 俺は酒を飲み始めた。と銃声が聞こえた。「なんだ、あの銃声は・・・」と思った。

 そうか、今頃になって森が殺されたことを知らせようとするのか、なんという姑息な手段なんだ、畑中がピストルで殺したことになったのか、畑中よ椎崎よ古賀よ、お前たちに死ぬな、とあれほどいったのに・・・お前たちは欺されてしまった。

 それほどまでに軍人を悪人に仕立てて、平和天皇を演じたいのか・・・よし、天皇が袖を通したシャツを着て、天皇からもらった短刀で我が身を血だらけにしてやるぞ・・・国体護持だけが目的ではなかったのか・・・そこまで軍人たちを悪者にしなければならなかったのか・・・

*この「朝日新聞」に出た二重橋前を描写した文章はとても長い。藤田尚徳はそれを全文掲載している。ここでは一部分のみを記す。

 溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙。ああけふ昭和20年8月15日、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との大詔を拝し、大君の存します宮居のほとり、壕端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつ、またかみしめつ、道行く兵隊の姿を見ては胸かきむしられ、「作れ飛行機」の貼紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流し続けた私であった。

 <略>



 <略>

 新聞各社はおそらく14日夜遅く、終戦の詔書が出るのを知る。それまでは書くことができない。朝刊を昼すぎにするよう指示を受けた。それなのに、どうして、このような記事が正午の玉音放送の直後から出てくるのか、奇々怪々の始まり、始まり、である!

 直宮(じきのみや)や天皇族からデータを戴き、あの「天皇家の戦い」を書いた加瀬英明さえ、この記事にはあきれている。「文藝春秋」(2005年2月号)に、「捏造された『宮城前号泣記事』を加瀬英明は書いている。

 当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表2ページだった。当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前に刷りあがって、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。

 地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達することに決っていた。



*益田勝実は長州の国家老益田弾正(だんじょう)の一族である。彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる「てんのうはん」のことを書いている。続ける。

 天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。

 彼らが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、・・・激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。

 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は、謀殺されてしまった。

 もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。

 大室寅之祐は田布施町の生まれ。私は2006年10月、この田布施を訪れた。光市と柳井市に挟まれた寒村の風景がそこにあった。私は知人と大室寅之祐について学びはじめていた。私の手元に知人が作成した一枚の系図がある。簡単に記すと、伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎の門事件」を起こした難波八助(なんばはちすけ)は一族である。

 また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之祐の生家の近くに岸信介一族の生家もある。

 この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後の内務大臣安倍源基(げんき)も大室寅之祐の生家の近くである。これは偶然とはいえない何かがあるだろう。

*鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔は田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は上京して小泉又次郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。

 小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二代の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。

*イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末に活躍した。アーネスト・サトウは天皇になる前の大室寅之祐と会っていた可能性が大である。彼は上司のハリー・パークス公使から日本の政情を調べるよういわれ、鹿児島の苗代川に行く。

 ここは、慶長3年(1598年)、朝鮮から虜囚として連れてこられた43人の男女が、島平の浜辺に遺棄されたように、維新後、苗代川の住民は、創成期の近代日本のただ中に遺棄された。「東郷茂徳伝記」と同書の「解説」(萩原延壽のぶとし)に、この間の歴史の闇が詳述されている。

 いわば270余年のサイクルが廻って、この村のひとびとは、再び島平の浜辺に立ち、今度はあのとき他郷に連れ去られた同胞と同じように、母国の姓名を捨て、その言語を忘れ、その風俗を改めて、あたらしく移住してきた土地に同化しようとする。

 <略>

 東郷茂徳は明治15年(1882)12月10日、朴茂徳としてこの苗代川で生まれた。<略>なお、東郷という姓は鹿児島ではとくにめずらしいものではなく、朴家が「入籍」した東郷家と、提督東郷平八郎の家とは関係がない。
こうして、5歳の時から、朴茂徳は東郷茂徳を名乗るようになった。

 私はどうして終戦時の外相、東郷茂徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。

 その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。

西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである 。

 もう一つは、終戦内閣にどうして東郷茂徳が外相として迎えられたのか、というのが二つ目の理由である。

 それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷茂徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。

 さらにもう一つ、東郷茂徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠蔽する役を東郷茂徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。この財宝隠蔽工作は後述する。

 ★         ★         ★

 次回に続く。





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Last updated  2015年08月10日 14時03分52秒
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