シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年01月08日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 江戸時代とは異なり、明治以降、薩長明治政府による棄民政策により、被差別民は兵役や、海外への開拓要員として送られ、人々の移動が盛んになったので、前回紹介した有名人の姓でもわかるように、八切氏の姓の法則は崩れてきたとはいえるが、地方にいけば同性の村落がまだまだあるので、都会よりもむしろ、田舎で通用する法則といえるだろう。

 現代のようなネットが普及していない時代では、第一の情報といえば、姓で出身地と身分を見分けたわけで、戦国時代では、武将の馬印や兜などの装飾にも用いたそうである。

 八切氏によると、前回紹介した4つの主な姓には、その姓に特有の色があり、源氏は白、平氏は赤、藤原氏は黒、橘氏は黄であるという。他にも、藤原氏に討伐される前の原住民系は、山に逃げ込んで金を採掘し金細工を得意としたので、山金と俗称され、金が使われるそうである。

 例えば、信長の馬印は金塗りの唐傘で、秀吉のは金の逆さ瓢箪に金の切裂と金の軍配に朱の吹き流し、家康は金のふくべに金の切裂、および銀の繰半月と金扇と、いずれも金を使っているから、原住民系ということがわかる。

 これらは公式文書には載らない隠された暗黙のルールだったらしく、戦場では敵味方を区別するのに役立ったそうである。

 余談だが、昔は、金よりも銀の方が価値が高かったので、金閣寺は金箔張りだが、銀閣寺は銀箔張りではない。「沈黙は金、雄弁は銀」という諺があるが、八切氏によると、古代ローマ時代のセネカの言葉が原点らしく、セネカは雄弁家だったので、雄弁に価値があるといいたかったことが明らかだが、この国にくると、藤原氏に意見するな、つまりお上の言うことにたてつくなと、沈黙に価値を置くように洗脳され、現代のこの国の国際舞台での外交下手につながっている。

 さて、姓の話の紹介を続ける。

 ★         ★         ★

絆を生んだ姓

 もちろん、この姓の法則には種本などはありません。いうなれば前人未踏の研究です。

 それゆえ再度、整理してみましょう。

 姓は、横に結びつく。

 例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横(母音)で結びついて一つの集団。民族を形成していたということです。

 これは、江戸時代までは、姓氏の横(母音)のつながりが、「同姓」と呼称され、相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例で解明できます。

(1)ア姓列の場合

 <四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう>

 姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛とある。そこでまず、ア姓列の増山姓を新設し、正利に名乗らせた。



 さて、このア姓列では、カ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類扱いに、と台命で決められたのが、「カは加藤右衛門佐忠」「サは酒井讃岐守忠勝」「ハは林羅山」という具合で埋められています。

 そして、増山が西尾城主になる迄の間、幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃守尚政であって、初めに五十人扶持を贈られ、そしてナの成瀬隼人正正虎が江戸邸を贈っている。

 「正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す」とあるように、同姓列が面倒をみることに決まっていて、その生母が青木と離別後再嫁したのも「ナの七沢清宗」という姓の家であった。

 が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけはア姓列から外れ、「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。



(2)イ姓列の場合

 <小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書≪享保十一年伊藤甚右衛門指出書≫から例を引用してみましょう>

 大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、イの池田武蔵守の家来のミの水島助佐衛門が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使いがきた。処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろと返事した。

 そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。

 そこで首を落とされる手続きとなったが、「二の西尾主水正」陣屋に駆けこみ、訴えした処、武者奉行「ミの水野但馬」が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。

 その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にてミの三浦主膳の仲立ちで、イの井伊掃部頭へ小姓奉公した。

 やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。

 だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。

 そこで、キの木股仁太夫、シの清水次郎助、チの千葉五郎太ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、ヒの日野右膳の娘を妻とし、新しくミの水島流指南の一家を設立することがようやくできたのである。

 といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イ姓列をひっくるめて「同姓」と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。

 首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。

 また、イ姓列のつながりが強固な例として、室町時代の守護職をあげておきましょう。

   イ 今川氏=駿河   伊勢氏=伊勢   一色氏=丹後

   キ 吉良氏=三河   木曾氏=信濃   菊地氏=肥前

   シ 斯波氏=尾張   島津氏=薩摩   

   チ 千葉氏=上総   長曽我部氏=土佐

   二 仁科氏=信濃   蜷川氏=丹波

   ヒ=オ姓列 日野氏=摂津   土岐氏=美濃

   ミ 三好氏=阿波   三浦氏=下総

 といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。

 拝火教の末裔が多い関係で ヒは炎のホと結びつきますので、オ姓列にも入ります 。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。北はオ姓列、白はア姓列に昔は入れていたからです。

 (3)ウ姓列は藤原氏が平家みたいにみな本姓を同じくさせてしまい、エ姓列は元禄以降改姓されて例証をひきようがないので、最後に、オ姓列の場合。

 <これには、江戸時代の儒学者荻生徂徠の例をあげてみましょう>

 荻生徂徠は、参州=三河、のちの愛知県の出身。曾祖父惣右衛門は「オの大給城」内に産まれ天正十七年没。

 祖父元甫は医師の「オの緒方元鑑」の弟子となり、寛永十四年五月十日没。

 父の荻生方庵法眼は、「コの小島助左衛門」の娘を嫁とし、私をもうけしものにて候。

 母の弟六右衛門は、「ソの十河長保」の口きき、肝いりにて、「トの鳥居助衛門」方に養子にゆき候

 尚、次の母の弟の又市は、常陸野田にて、「ノの野田」姓を有する農家に入婿仕り、「ホの堀井」家へ縁組仕し伯父冨右衛門は、上総国の「ヒ(=オ姓列)の檜沢村」に罷在候。尚ほ、同地、「モの森村」百姓罷成る兵助もてまえの伯父にて候。

 従弟に当る者「ヨの横井式部」様御家中、並びに、「オの小笠原将監」様御家来にあり候。

 正徳元年(一七一一年)卯年、荻生惣右衛門(花押)生年卯四十六歳

 と、檜沢のヒは前述のごとくホと同じですから、やはりオ姓列にのっていることを、徂徠の流れをくむ門人が書き綴っているのを見ましても明白であることが判ります。

 こうして十八世紀までの例証でこの法則を明らかにしてきましたが、十九世紀以後は、各自の家にある過去帳=死者の名前や戒名、命日などを書きしるしておく帳面などで調べてみても、それぞれやはり一切がすぐ判るでしょう。不思議でしょうが本当なのですから・・・・・

ア姓列とオ姓列は緊密系列

 これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の「ホの鳳来寺」に巣くっていた猿女部族の「オの小野」姓の女比丘たちを動員して、「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、徳川姓の他に、(成り代わった)松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。

 したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。

 ですから、両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もし父方がア姓列の一つなら、母方の旧姓も同じか、必ずオ姓列の一つのどれかであるわけです。

 これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。

 <たとえば「忠臣蔵」を例にとってみましょう>

 元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。

 つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。

 ところが、このとき朝鮮(済州島)系の生母の於玉(親仏派)の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。この結果が翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹(斬首)したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみますと、

 <細川越中邸にて屠腹の者> 大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。

 <松平隠岐守邸にて屠腹の者> 小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。

 <水野監物邸にて屠腹の者> 奥田貞右衛門。

 この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六,奥野源五、小山源五右衛門でもオのつく姓の者は十六名もいるのです。

 僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。だからこそ討入も決行できたのでしょう。

 つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。

関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる

 これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく「イカン」が「アカン」となるように変わるのは前述しましたが、発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。

 つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。

<イ姓列>の中のヒ及びシの白とキの北は例外として扱うこと

 これは原住系に多い拝火教の関係で、第二横列のヒが火であり、炎に通じるゆえ、ハヒフヘホの第五列系とみなされるのです。またシが白の場合に限って、シロと読んでも、これはハクの音をとり、ア姓列の扱いになります。白山信仰のためになったのです。キの中の北のつく姓も、東北の北を意味する字ですから、原住系の者の姓ということになり他のキとは別になるのです。

 この例証を近代にとってみましょう。作家の故三島由紀夫氏は、森田必勝、古賀浩靖、小賀正義、小川正洋君らと共に、市ヶ谷の自衛隊基地に乗り込み自決しました。

 この三島由紀夫氏の本姓は平岡ですから、ヒはホに入り、オ姓列となります。

 三島由紀夫(本姓 平岡→オ姓列)
 森田必勝 古賀浩靖 小賀正義 小川正洋

 と一目りょう然といった形で同一のオ姓列に入ってしまいます。つまり、まさしく同族の血の流れのかたい団結行動だったといえるのではないでしょうか。

女ならでは世も明けぬ国の日本列島

 それでは、かつて六世紀や七世紀から始った敵対する二つの民族の争い、すなわち、大陸から渡来してきた民族と日本に前から住んでいた民族が、どのように、反撥を増長させたのか、を考えてみる必要がどうしてもありましょう。

 しかしこのことに正確に答えるには、日本の原住民史をまず解明するしかないようです。

 西暦4世紀までの日本列島は、「女ならでは世も明けぬ国」といわれるような「女尊男卑の社会」で、シャ(アマ)ニズムとよばれる呪術をもつ神子「みこ」によって一集落ごとに海に近い山に分かれて住んでいました。

 (シャーマニズムは、「シャマン」というツングース語の呪術師を起源としているが、文字を分解すると、シャー-アマからなり、シャーはペルシャ語の「王」で、英語のサーを彷彿とさせる。

 アマは、古代エジプトのアマンで「天」という意味だが、日本では海女となっているように、女性神を意味する。だからアマテラスは古代神道では、女性神といわれる。ちなみに、シャマンをそのまま日本語にすると、王天=天王、つまり天皇になる。

 様「さま」は、このシャマンからきているのではないかとも思われる。

 だから原住民の神に、進駐軍の大将が成り代わったわけで、GHQのマッカーサーが神にみえたのは、古代史の焼き直しと考えられる。)

 耶馬台、耶馬台壱のヒミコらも火の御子で、そうした「ヤマノカミ」の一人だったのです。これを引き続いて統合しかけたのを天の朝といいます。

 ところが、そこへ沿海州満州方面から、「元」をのちには建国するヂンギス汗の先祖みたいなのが、北鮮の羅津あたりから裏日本へ入ってきたらしく、これが世にいう、「騎馬民族」で、馬に跨っている男にはかなわず、シャアマニズムの女の御子でも痺れてしまったのでしょう。

 この2つの民族がやがて結合してしまったのは、騎馬民族の崇神帝の孫の景行帝と、天の朝の八坂姫が婚姻されたのでも判ります。詳しくは私の『日本原住民史』にも書いてありますけれど、やがて仁徳王朝の世になりますと、北鮮系の高句麗などと仲の悪い南鮮系の百済系ゆえ、それまでの天の朝系と騎馬民族系は共に反体制的な立場におかれてしまうのです。

 そして天の朝の最後の女帝を、故意にイのつく伊勢のイのつく五十鈴川の畔へ移し、「さわらぬ神に祟りなし」と、怨念を恐れ、祀ったのです。

 ところが中国に隋を滅ぼした唐の国が勃興してきました。これが百済や高句麗を滅ぼして、いわばそれらの国の植民地であったと想像される当時の日本列島へもやがて進駐してきたのです。

 その頃は風光明媚で穏やかな日本が、彼らの目にはこの世の「桃源境」と見えたのでしょう。そこで渡来した彼らは、「桃源」を名乗り、これが「藤原」となったのは前にも述べました。

 そうなると、それまでの百済系は、もはや戻りたくても祖国はないので、進駐軍にまっ先に降参してしまい、この民族を日本史では、「帰化人」として扱いますが、それは、日本列島に立派な日本国があって、亡命してきて保護されたというのではないと考えるべきでしょう。

 つまり百済系民族は、交替した権力者の藤原氏に対して帰化させて貰っただけのことです。

 ですから百済系は兵となり工人となったり、農耕民族ともなりました。

 つまり藤原体制が確立して、陽成帝を、藤原基経が廃立してしまった時点において、征服者と被征服者に分けてしまえば、百済系もやはり原住系の中に入るのであります。しかし、それでも実際は、飛鳥朝や奈良朝を築いていた百済系はまだまだ隠れた勢力をもっていました。

 この時代の歴史に登場する「偉大な、日本臣民の鑑」とされる和気清麻呂を、例に引いてみましょう。

 この日本臣民の鑑の和気清麻呂の和気姓を詳細に調べていきますと、≪続日本紀≫や≪新撰姓氏録≫では、百済国純陀太子の子孫が和気姓なり、となっているのです。

 また、≪日本書記≫には、百済王族斯我君の裔となっているのです。そして、≪延喜式≫による平野祭神のうち、韓国系の和気氏の今木神が、<祝詞式>には「皇大御神」に変化する、とさえ明記されてあります。

 そして、この恒武帝の御代というのは、妃はみな百済王の姫教法、百済の永継姫と韓国系の女性ですし、後の嵯峨帝の御妃も、百済の姫の貴命であったとでています。

 また、坂上田村磨や菅原道真の祖の菅原朝臣真道も、みな明白な百済系なのです。のち和気氏はイとは違うヰを用いるイの姓に変わりますのも、やはり藤原氏の圧迫によるからでありましょう。

結び合う姓、反撥し合う姓

 さて、西暦七八〇年。オルレアンならぬ秋田から和製ジャンヌダルクのアタマロが立ちあがったのです。ときに三月三日、桃の花で馬の鞍を飾った彼女は、白山神の白旗を振り、白酒を飲み、藤原氏の坊主を宣教師とする軍勢に押しまくられて逃げてきた日本原住系の諸民族の男をば叱咤激励し反撃を開始しました。

 このことは、≪日本書記≫に、三月二十二日ついに仏経側の東北司令官の百済系の武人紀広純がこれに敗死した。ということで負け戦が記録されています。

 さて、彼女は西へ西へと軍を進め。「神の啓示のもと討てや進め」と、剣をふるって陣頭にたち、箱根の山を越えて進撃したのです。

 この、破竹の勢いで攻めこんでくる黒髪の女軍を防ぎかねた藤原氏の仏教政権は、ここに富士山頂をもって境界線となし、清見潟一帯に東と西に朝鮮の三十八度線みたいなラインを作り、日本列島を二分したのです。

 このときに、大陸からの者の姓を、津、葛井、船方氏というように統合したのです。

 これがつまり、ウ姓列と渡来大陸人=藤原船舶系の姓氏は統一されました。

 <したがって、例えば(ウ)植木、(ク)久里、(ス)須藤、(ツ)津田、(ヌ)沼井、(フ)舟橋、(ム)村上、(ユ)湯川、といった姓は、パリパリの男尊女卑の大陸からの人種で、男性も髭が少なくて美男系が多いのはこのためです>

 つまり、西は、大陸からの外来の人種による「男尊女卑国」。

 東は、日本原住民族による「女尊男卑国」とに分かれたのです。

 藤原政権が山背の国の天険の長岡へ、大戦中の松代本営のごとく疎開した八世紀のことであります。

 さて、このため西側は、それまで動員してきた大陸人の外、新渡来の今来漢人らをも加えた大陸人を≪日本書記≫には、「弓月君、百二十県の人民及び軍夫を従えて来たる」とありますが、その他にも、進駐してきた人々に、宇佐、黒木、菅原、舟橋などといった姓を与え、これを後に「天武帝八色の姓」とも総括しています。

 これに対して、東の土着原住日本系は、イ、アール、サン、スウなる唐の算数を用いるのを潔しとせず、各々の出身地別に並べた民族の地名をとって、数字の代わりとし、それを姓にしたのが、原住側の姓の起源です。

 つまり、秋田のアタマロが女将でしたから第一列軍団はア族。

 次は白山神の本山の加賀の国から来たのが第二のカ族、これは加賀の金沢ですが、今は石川県にされています。サは、酒田のある今の山形県の部隊。

 といったように、アカサタナの出身地別に兵を順番に並べて「番号ッ」と号令をかけると、一、二、三、四の代りに、「ア、カ、サ、タ、ナ」とやっていたのが、アイウエオの起源でありまして、関西では十進法だったのですが関東では、「五人組」とか「隊伍」とか「伍長」と五を一つの単位にしたのもこのわけであります。

 アイウエオ順のまん中にウクスツヌのウ姓列が入るのも、原住民系が、藤原体制を倒し捕虜にするための呪いだったのかもしれません。ですから西では貨幣も、「銀何十何匁」とやはり今と同じ十進法なのに、関東ではウ姓列を捕虜に仕損ねた怨念か、ウ姓列が抜けて、四つなので、世界でも珍しい四進法をもっていました。つまり、一両は四分で、一分は四朱という明治まで守られた勘定法です。

 さて、どこの国でも一民族一文字といわれ、その文字は形式化された華文字はあっても、一通りしかないものなのです。なのに、日本だけは、まったく違う真名書(漢字)、平仮名、片仮名の三通りがあります。もちろん判りきった事ですが、「本字」と呼ばれていた漢字は、唐の国から入ってきたものです。

 それでは平仮名はといえば、これは印度文字からの転化とも、契丹文字の変型ともいわれています。

 しかし片仮名だけは、何処から入ってきた文字というようなことはいわれていません。

 (カタカナと古ヘブライ文字が似ているという説がある。)

 それどころか、片仮名を使った場合は、「金釘流をかく」とまで昔は蔑まれたものです。そして江戸時代のごときは、片仮名は白文とよばれる漢文への補助の送り仮名としてしか正式に用いられず、全く無視されてきたのであります。

 しかし純日本系の団結を叫び、唐より輸入の銅金の茶杓子や茶匙を排撃し、素朴な日本の竹による道具によって、 「わびの茶」を提唱しだした千宗易たちは、敢えて片仮名だけを用いて憚りませんでした

 なにしろ秀吉に殺された宗易のものだけでなく、やはり鼻を削られ耳をむしり取られて殺されたその門下の山上宗二の書き残したものや、本職が皮はぎだった松屋久政の「茶会記」なども、みな片仮名で綴られているのです。つまりこれをみても、 片仮名こそ日本原住民系の文字であったことの裏付けでしょう

 姓を文字で現わせば、それさえ漢字、平仮名、片仮名と三通りもあるように、日本民族は複合し入りまじっているのです。

 このように、姓には、「互いに固く同盟しあう姓」「不倶戴天の敵ともいえる反撥しあう姓」「あまり衝突し合わない無難な姓」というような、区別があって、ある法則で決まっていることが、これまで多くの実例や歴史考証によって、どうにかお判りいただけたことと思います。

 しかしここで注意したいことは幕末までは、たとえば、土佐国のように掛川城主山内一豊が入部して、殿様がヤ姓になると、その領内地名から新しい家臣の姓までがア姓列になってしまう土地柄などがあり、備前のように池田新太郎が殿様になると、イ姓列で家臣や住民の姓を統一してしまう地帯もあるのですから、幕末までの先祖が何処にいたかも一考を要します。

 しかし、寺にある墓でも判別はつきます。旧幕時代まで神徒系は火葬で、神棚に骨壷を祀って、墓石はなかったから、もし江戸期の年号の墓があれば仏教徒系のイ姓列かウ姓列型。

 「先祖代々の墓」というのが明治以降に建てられていたなら、その家系はかつては、非仏教徒派だったと思えば間違いないのです。何故かといえば、明治になって、急にひとまとめにして先祖代々を一つの墓にして祀ったということは、急にお寺さん側へ転宗したことを意味しているからです。

 ★         ★         ★

 何でも商売にする仏教徒のインチキ日本史に洗脳されてはいけない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016年01月09日 21時06分55秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: