シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年02月22日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 巷では、いつから決まったのか定かでないが、2月22日はニンニンニンで忍者の日となっているそうである。

 海外では、日本文化?として、忍者は有名だが、忍者とは何かと聞かれても、せいぜいアニメの忍者ハットリくんぐらいしか一般の日本人は思い浮かばないだろう。

 「YOUは何しにニッポンへ」という番組で、海外に人気の戸隠流の道場が紹介されていたのを知っている日本人もいるかもしれない。

 日本よりも海外で有名な「忍者」はある意味不思議な存在でもある。

 そこで、歴史的に、忍者を調べてみたいと思い、お馴染みの八切史観に頼ることにし、以下の話をみつけたので紹介する。ちなみに毎度のことながら、読みにくい文章なんで、読みやすく改変した。

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忍術論
http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1100

忍術の本家は

 「尊卑分脈」(書籍)では、山科家は天皇家と同じ藤原氏で、四条家の分派で中御門家成の六男実教を祖とし、その子教成は、母の二位丹後の局が夫の業房の他に後白河法皇の寵をも忝うし、よって法皇の別業山科の地を賜り、もってそれを氏となすとある。そして、実教より十四代目が言経となっている。

 ところが、山科という土地は、この伝承とは相違して、建長五年(1252)の、「近衛家所領目録」に、その山科が含まれていて、「散所」だから年貢もなく、雑色の行事というものが係りとなっている。

 この「散所」というのは、長和二年(1013)の「小右記」正月四日の条に初めて、「中将朝臣云、白馬朧近衛、称散所随身、前例不然也」と書かれてある。

 この文面の意味は、「白色の馬をひっぱってくるとは何事か。公家が白を忌むのを散所から随身した輩は知らぬのか。これは前例もないことだ」

 (大陸出の藤原氏の朝廷は黒を基調としていたから。白は、原住民の色。)

 つまり、「散所」とは「山所・産所」の当て字をするが、桓武帝が京へ都を定めた時、天孫系[この頃の八切氏は外来系・体制側といった意味合で天孫という言葉を使っているようです]に刃向かった原住民を捕まえ、収容した捕虜地域の別所(院内・院地)の分散収容所の事であり、 彼等は白山信仰で白旗を立てていた連中ゆえ、馬を探してこいといわれて白馬をもっていって叱られた 、というのが、この記事である。

 前述の江戸時代の延宝二年の坂内直頼の、「山城四季物語」の<七月二十四日六地蔵参りのこと>にも、「山科」の地名ははっきりあるし、「山科名跡志備要」には、「 山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹伐りの者住み、茶筅売り、唱門師支配 」と明記されている。

 また、この傍証となるものは、天正十三年正月十三日の言経卿の日記にも、「山科在所より細竹二百八十本持来」の一行が残されている。

 「尊卑分脈」というものは重要史料のごとく扱われているが、あまりにも作りものすぎて、その記載では、「山科に領地を賜った。そこの百姓が耕した米を年貢として受領していた」と間違えやすいが、 散所系の原住民というのは元々が遊牧民族系で、一切農耕はしていない

 初めは近衛家管轄で、後に山科家に渡ったとはいえ、そこからは細竹や燈芯の物納があって、それで換銭はできたが、飯米の年貢はなかったという事実が、この証明にもなる。

 「では、山科家の食糧はどうしていたか?」といえば、天正十一年八月二十一日、当時の京町奉行前田玄以に、山科家の執事である大沢右兵衛大夫が、「西梅津新地で賜っていた飯米三十石は、先代山科言継宛名義になっていたので、天正七年三月二日の死亡の節、御朱印の伺いを出したところ、上様(信長)は山科家でその侭に致すよう言われて、当主言経が相続していました。

 なのに、本能寺の変から五ヶ月目に筑前守殿(秀吉)に押さえられて一粒の米も入ってこないのです。食糧に事欠きますゆえよろしく、この段頼み奉ります」という抗議を出しているように、 飯米は山科以外の農耕地から収納していたのである 。

 もし「尊卑分脈」で説くように、山科家が天孫系(農耕)であったならば、月二斗五升の飯米さえ他から納入せねばならぬような土地を、なぜ押しつけられていたという事になる。

散所系の原住民は同族以外とは、「通婚同火の禁」を明治まで固守してきたという歴史がある 。また大江匡房の記録にもあるように、同族以外の者の支配はこれを絶対に受けていない。

 (原住民は同族以外とは結婚しなかった。)

 「大乗院文書」によると、筒井順慶の五代前の筒井順永というのが大和の国の大半をうち従えて勢威があがったとき、散所である五ヵ所の者に軍夫に出るよう命令したところ、「長禄三年(1459)六月十六日付」五ヵ所の者から、先例もない事であると訴えてこられた。

 そこで、室町奉行御所申次衆が、「筒井方へ従い申さずともよい」の採決をした旨の案文が今もある。[『柳生石舟斎』にも同じ記事があります]

 つまり、これまでの日本史では、「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、右に強力な戦国大名が現れれば弱小豪族は右傾し、左に出てくれば左傾し、たえず反復これを繰り返していたものである」とされているが、これは虚構であって、 散所系の者はたかだか軍夫供出ぐらいの事でも敢然としてこれを拒んでいる 。

 だから、もしも山科家が土地の者と同族でなかったら、竹を切り揃えて年貢代りにもって行くこともなかったろうと思える。

 さて、この時点より二十一年後の「親長卿記文明十二年九月」の条には、十一日 夜に入り所々物騒。土一揆蜂起。
十二日 土一揆蜂起、方々鬨の声聞ゆ。十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。とある。

 この土一揆に「蜂起」という文字があるのは、散所別所の原住民には「蜂屋」「鉢屋」の他に色々の文字をあてるHACHI(八の原住民)の蔑称があったからで、

 なお、これに関しては、「夜は京都の内外から大坂辺にまで彼等は横行して、押込み、辻斬、追い剥ぎといった忍びの夜討ちをして万民を苦しめ、富裕な者の財宝を片っ端から奪って分け合った。

 なにしろ官がこれを取り締まって警戒しても、元来、忍びに馴れた連中で、ここと思えば又あちら、燕のような早業で飛鳥の如く立回り、明るい時は岩屋の洞穴などに隠れて寝ているから捕えようもない。

 そこで毒をもって毒を制せよと、鉢屋支配という制度を作って同族の頭を定め郡郷を分配したところ効果あり、日本全国がその方式になった」という古記録さえある。

 つまり、山科も鉢屋支配の土地で、言経も権中納言の官位ではあるが、実は頭目の素性だったと推理してゆくと、彼が書上げた「喋書」なる系図が「忍法相伝」と伝わるのも、また無理からぬ事になる。

 また言経の父言継の日記には、「江州八田別所織田の庄出身」の肩書きのある信長の父織田信秀の許へゆき、勝幡城
で蹴鞠興行をなし、盆の料として銭の配分をし合ったという記載もあるのは前に書いたが、こういう事は普通の公卿はやっていない事である。

 さて、忍者も山科家が家元として伝えるだけのものだったら、当時の蹴鞠や香道なみに優雅なものとして今も受け継がれてきただろう。ところがこれを一変させられる時代がきた。

 (忍者は原住民出の反体制で、大陸出の外来体制側に対して窃盗などを行って生活していたようである。)

忍術の系譜

 だが、今日では忍術というとこれは、「甲賀」「伊賀」の二つに分けられて、「山科」などという分類は見つからない。

 なぜかというと、言経の書いたという忍法相伝は、皆目その片鱗も残っていないが、「甲賀は、その藤林保武の<万川集海>」「伊賀は、服部半蔵口伝の<忍秘伝>」の二つが今も伝わっているせいだろう。

 だが、 この二つの忍術書が、いかに荒唐無稽な物であるか 。

 それが別に指南書や解説書ではなく、 虚妄の一語につきることは 、平凡社刊、足立巻一著の「忍術」に詳述され、彼と尾崎秀樹、山田宗睦の三人の共著である三一書房刊の「忍法」では、二つの秘伝書たるや、「 天下泰平になって形式化された具象 」として「 徳川家の権力機構に組み込まれた伊賀者、甲賀者が生活保持のために家系強調、祖先及び忍術そのものを伝説化した 」と説明されている。

 そして、「万川集海」と双璧をなすものとして、「名取青竜軒」の「正忍記」も、挙げられている。

 それらの忍術書なるものは、入れ歯や含み綿による「変顔」および「変装」をまず説いて、これで「変幻化姿ノ始計ナリ」と強調している。

 つまり府中の三億円強奪事件のようにオートバイを白く塗り替え、白バイのごとく見せかけ自分自身も警官に変装し、車の下から白煙をふかせドロンドロンと消えるような詐術が、それらのモチーフとなっている。

 これは亨保十八年(1733)奥付の、「加藤作左衛門筆の忍秘伝」巻一の、「伊賀甲賀伝記」の導入部分に、「ソレ窃盗ノ始メハ漢高祖ノトキ軍法ト忍ト一度ニ始マリ、ソノ後ハ忍窃盗ヲ間トイウフノナリ」とあるように、「間者」つまりスパイは忍者であるし、「窃盗術こそ、これ忍術の精華なり」、つまり 泥棒の石川五衛門が忍術使いであってもおかしくはないというような説明になる 。

 そして、この伊賀流の「忍秘伝」巻ニは、「忍道具秘法」で「まき菱」「結び梯子」「水中下駄の浮踏」と、今も映画などでもっともらしく出てくるもので、トリック撮影で下駄で濠を渡る場景まで見せられている。

 巻三は、三十八項目からなる火器火薬。ノーベルが黒色火薬とニトログリセリンを結合させてダイナマイトを作った時より一世紀も前に、既に風爆火などもあったというが、「これは大秘事ゆえ、ここに書かず口伝」と、製法や内容は何も書いていない。

 巻四は、忍び込む潜入方法で、猿の皮をぬいぐるみになし、これを着ていくこと。もし田畑で通行人に出会ったら、両手を平行にのばし、案山子の真似をする秘伝などもある。

「万川集海」の方は朝鮮の兵書「間林精要」と、中国明の兵法書「武備志」そのままの内容であり、そして、それらの原典は何かというと、「列子」の黄帝篇、周王篇であるらしい 。

 「穆王の時、西から化人がきて水中火中をものともせず、金石の間をくぐり抜け山川をひっくり返し、町や村を動かし空を飛行した‥‥」といったものや、「方仙の道をなし(仙人の修行をし)、形をなくし消失させうるのは、これ鬼神のこと(業)による」とある「史記」の「封禅書」や、

 「文選」の「西京賦」に、「奇幻たちまちに起れば、万物その姿を異物に変え、刀を口中へ呑み代りに火をはく。雲霧が沓冥して辺りが暗くなれば、大地は割れて川となり、また一瞬にして水をなくして平坦な道となる魔可不思議‥‥」などと出ている「方術」「神仙術」が、

 鬼面、人を驚かす作用があるのをもって、それを空想戦術として兵書に執り入れて孫引きし、「万川集海」は、さももっともらしく形を整え、これを権威づけたのではあるまいか。

 さて、こうなると伝承される忍術または忍法には、形而上学的なものと、まるっきりその反対のものと、二つがあることがわかる。

 そして、「児雷也」のガマの妖術のごとく、天竺徳兵衛の大蛇のような妖怪ブームの先鞭をつけたものから、仁木弾正の鼠の忍術が芝居として当たり、尾上松之助の活動写真から立川文庫の猿飛佐助、霧隠才蔵にまで伝わり、戦後も五味[康祐]の「柳生武芸帖」、柴田[練三郎]の「赤い影法師」、司馬の「梟の城」とつながる忍術の系譜となるものは、どうしてもこれは外来系となる。

 忍術小説「飛び加藤」にしても、抜刀して花を切り落とすと樹の上に登っていた男の首が切り落とされて転がってくるのは、中国の「平妖伝」そっくりそのままであると、新人物往来社刊の本で水野美知が指摘しているのも、その裏付けであり、また、「猿飛佐助」が孫悟空の翻案なる事も周知されている。つまり、「万川集海」や「忍秘伝」に基盤をおく忍術というものは、印度波羅門から中国へ入ってきたものの換骨奪胎となる。

 とはいえ、人間誰しも何か事があった時、他人の物を盗もうといった受益目的でなく、自己嫌悪にかられて己れの存在を他から隠してしまいたい、消えてしまいたいといった願望を持つ。そうした時に、「手足を屈め、近所へより、うつむきに伏し、隠形(おんぎょう)の呪文を口中で唱えれば、これ観音隠れ又は鶉隠れといい瞬時にその身を消す」といった忍法蒸発の術を知っていたら、暮しよいというか、少しは生きていく事の助けにもなろう。

 なのに、そんな便利なものが、江戸初期から実存していたと研究家は云うが、その後は技術が開発されずに消滅してしまい、今では小説やテレビの中だけの虚像になってしまったというのは何故だろうかということになる。不思議な話しだが、これに関して本当の事は誰も言わない。何か秘密があるらしい。

なぜ忍術は消えたか

 これまでの説では滅亡した第一の理由を、「江戸期に入って天下泰平になると、需要がなくなったからである」としている。

 しかし、戦国期で彼等は、それ程強力な戦闘部隊だったかというと、そうでもないようだ。

 伊賀出身の菊岡如幻の「伊乱記」によれば、「 天正九年、織田信長の長子信忠の伊賀攻めにあって、僅か二十日にて伊賀の者は僧侶男女の別なく殺戮されつくした 」とある。

甲賀の方も慶長五年、関ヶ原合戦の始まる前、百九十名の者が伏見城へ立てこもったが、火遁水遁の術もだめだったのか、伏見は落城し彼等の大半も戦死してしまっている 。

 しかし、これではまずいからと、甲賀者が裏切ったゆえの落城ともいう。だが、殆どが死んだのは事実である。つまり 彼等が強かったとか、戦いに役立ったという例証はあまりないのである 。

 「永禄五年に家康が今川方の蒲郡城を攻めた時、甲賀の伴太郎左ら八十名の忍びの者を呼び、これらを城内へ潜入させたところ、城櫓に放火し城将鵜殿長持の首を太郎左の弟である伴与七郎がとり、鵜殿の二人の伜は、太郎左の伜の伴資継が生け捕りにした」という勇ましい武勇談が一つだけはある。

 しかし、これは、「改正三河後風土記」所載のものなのである。ところが、この本は元禄時代の、沢田源内とよばれた近江の百姓上がりで筆のたった男の贋本で、 史料でも何でもない事 は、既に江戸時代から「大系図中断抄」などで暴露されている。

 ただ、「淡海故縁」に長享元年(1487)足利九代将軍足利義尚と戦った六角高頼の先陣に加わった甲賀者五十三名が、夜襲をかけて足利勢を追い払った手柄話が出ているが、「重篇応仁記」には、これとは全く反対で、甲賀者が先に逃げたと出ている。

 そして、四年後の延徳三年には、甲賀の連中が命からがら逃げて、六角方は完敗している。 とても忍びの者の連中が戦に強かったとは義理にもいえない 。

 だから、家康が後に伊賀者を召し抱えた時も安直で、二百人が込みで千貫だった。一貫を一石に換算すると、平均一人五石、というのが伊賀同心の給与体刑で、一升の米を二百円とすれば年俸十万円。月にすれば八千五百円。いくら官舎があって食するだけにしても、これでは生活難だったろう。

 しかし総評も官公労組もなかった当時なので、やむなく彼等伊賀者が値上げ要求のデモとしてプラカード代りに書かれたものが、今も伝わる宣伝の忍術書ではなかろうか。

 また 甲賀者にしても初めから最低の伊賀者以下の扱いだった 。

だから江戸期になって戦争がなくなり、需要が跡絶えたから、忍術そのものがドロンドロンと消えていったというもっともらしい説は、初期の彼等甲賀伊賀の者らの人足以下の待遇をみても、どうも単なるこじつけ以外のなにものでもないことになる 。

 「戦国の忍者は戦乱がなくなると失業同然、殆どが帰農、あるいは神札配りや薬売りとなり、忍術も無用となって秘密が不用となり、その秘密社会も崩壊。その時期が『万川集海』の書かれた時点にあたり、それまで秘事口伝によった忍術が集大成され著述化されたのも、また秘密の消滅を意味する」と足立巻一はこう結論をつける。

 しかし、 農耕民族とは「天孫系と、それに融和した民族」の事で、「神札配りや薬売りは非農耕の原住民系のもの」という区別が明治六年まで厳然としていたのだから、誰もが勝手に帰農できたり、薬屋になれるわけのものではなく、これを同一視するのはまずいような気がする 。

 それに忍術が消えた最大の理由は、全然また違うのである。

 「万川集海」の末尾二巻にも、「火器は忍術の根元である」と書かれ、のろし火薬(狼糞、もぐさ、硝石、硫黄)卯花月夜(肥松硝石等による黄色照明剤)義経炬火(水銀を利用した不滅たいまつ)をはじめ四十種の火薬を用いたものが、「これが忍術だ」といわんばかりに、いろんな製法や使用法が列記されている。

「天文十二年種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がいる。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来の雑賀鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである 。

 信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競ったように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。

 ところが、日本史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるもの、と誤認したのか、これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石欲しさに、言葉もわからぬまま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までが、「信仰篤き切支丹大名」にしてしまう。

 秀吉の時代には印刷機が持ち込まれ辞書も作られたが、信長が殺されるまでは、代用に採用したイルマン(イエズス会の修道者のうち,司祭職にある者をパードレpadre といい,パードレを補佐する者をイルマンといった)でさえも「ドチリナ・キリシタン(近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本である。当時のポルトガル語でDoctrina Christã)」の一言しか知ったいなかったのはフロイス日本史にも明記されているし、この間の事情は私(八切氏)の「魔女」に当時のイエズス派の内幕が詳細に出ている。

 さて、 徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオランダ船のみに限定した 。ということは、 硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一切認めぬ禁制をとったことになる 。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。

 だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんとか天下泰平が続いたのである。

 「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯えたためでも何でもなく、 硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治目的による偽装だったにすぎない 。

 (奴隷を売って武器を手に入れる奴隷貿易を禁じる意味もあった。)

金の切れ目が縁の切れ目というが、治安上硝石の一般の売買を禁じてしまったから、鉄砲や大砲と同様に、忍術も火薬が入手できなくては、もはや策の施しようもなく、「ありし日の思い出」に訣別の形見として各忍術書を残してドロドロ消え去ったのが真相らしい 。

 (忍者は軍事専門家だったようである。)

悲しき忍術

 さて、故子母沢寛の随筆に、ある高名な親分が、「かたぎの百姓衆に迷惑をかけてはいかぬ」と口癖に子分共をいましめ、村の百姓家のある所を通るときは、羽織を脱いで履物も手にとって腰を屈めて通り抜けた‥‥「実るほど頭の下がる稲穂かな」というが、やくざでも昔は、えらい親分にはこういう謙虚さがあったものである。といったような話しがある。

 勿論、現在でもやくざはいるが、人口比例からゆくと、やはりどうしても非やくざの方が圧倒的に多い。だから案外やくざを怖れる心理的傾向もまだ一般にあるからして、そこで、そうか、昔のやくざはそんなにエチケットを守っていたのか。なら恐くはなかったなと、こういうものを読んだ人はすこぶる優越感を抱き満足もしたらしい。

 しかし、なぜその親分がそうした態度をとったかという理由は、「その親分の人間形成の慎み深さ」程度の浅い読みでしか見ていては判るものではない。

 まるで、普段いかさま賭博ばかりして百姓を苛めているから、その罪滅ぼしに頭を下げ気兼ねしているようにも、これではみられてしまう。

 そして、徳川政権が農業国家の方針をたて、士農工商の順位を作ったから、百姓はえらかったのかとも誤解される。

 しかし、それだからといって商工業者が、裸足で村内を通行したとはきかない。すると、何故「やくざ」だけが遠慮しなければならなかったのか。彼等が賭博行為に劣等感や羞恥をもっていたものとみるべきか。といった命題に突き当たらざるをえない。

 さて、話しは戻るが、火薬が一般に入手困難になった時点において、ほろびゆく技術の種明しに書かれた「万川集海」や紀州新楠流の「正忍記」が、ただ文字を羅列したに過ぎない荒唐無稽にしろ、その根底において中国・朝鮮の兵書や烈士の孫引きであるのとが一目瞭然とすると、

 「単にデフォルメされた話しであったにせよ、忍術とは外来した舶来のものであったか」の疑問がはっきりしてきて、それでは、「山科言経の書いたような原住系の忍術とは、そもそも何か」ということになる。この疑問は押えようもない。

 が、それを解明するためには、明治五年に施行された、いわゆる壬申戸籍が手掛かりとなる。

 従来から「たみ・百姓」と言われはするが、これは決して「たみ=百姓」ではない。

 併称される 「たみ」なるものは、「非農業人口の原住系」を指すものである ことが、その新しい戸籍では明確にされた。

 つまり明治五年に、これまでの百姓はその檀那寺の人別帖にて人口を把握されていたが、「たみ」の方は皆目不明なので、これも一斉に戸籍を作ったのがそれであるから、これによって 従来の仏教人口二千万が一躍四千万に増加したという事実。ここに問題がある 。

百姓の人口に等しい原住系が幕末まで竹を切り茶筅造りぐらいの無職渡世や博奕打ちで、農家の収穫に寄食していたのではたまらない 。

 そこでまず、 土佐の百姓から蹶起した吉村寅太郎の天誅組が口火を切って、これが明治革命になってゆくのだが、それ以前においても、原住系へ天孫系(農耕民族)の白眼視は相当にひどかった 。

 関白一条兼良の「尺素(いきそ)往来」にも、「白河の鉾が洛中に入ると山科ら六地蔵の党との印地打ちが、例年のごとく起るかも知れぬから、侍所の者達が警戒に河原へ繰り出した」とあるし、また「平家物語」巻十五にも、「堀川の商人や町冠者ばらの向かえつぶて勇し、乞食法師と合戦のさまをいつか習うべきか」

 また、「古今夷曲集」ニ夏の部には、「印地にし、深入りしつつ深手すは、負うは不覚な深草の者 久清」の詠草もある。

印地とは院地の事で、京周辺の原住系の捕虜収容所の名残り。地方の別所・散所と同じだが、ここへ天孫系の者が投石してゆくのが「印地打ち」という石合戦 。

原住系もやられてばかりはいられぬからと、山科やその他の院地の連中は、石ころの多い河原を、御所の機動隊の来る前に占領し迎え打つようになった 。

 が、天孫系も勇ましく堀川の商人までが突撃し、御所の深草少将の家来も深入りしすぎて逆にやられた‥‥といったところが、この詠草の訴える意味であろう。

 さて、今日でも伊賀上野の百々地砦は、上野市から向かって南西と、その反対の北西から入る道しかないが、「界外(かいげ)」という部落が双方に残っている。

ということは、つまり講談の忍術名人百々地三太夫のいた地帯は、一般の土地とは違い、そこはかつて「界外」とばれていた別天地の場所であり、印地であり別所の原住系の民の収容隔離所だったとわかる 。

 そこで彼等は羽を持っていない限り、橋のない川を渡って他へ出かける時は、百姓から投石され撲殺される危険を覚悟で、界外から外へ出なければならない。

だから百姓の目をかすめるために獣の皮を着てゆけとか、見つかりかけたら案山子に化けろなどという悲しい技術がそこに生れ、これが忍法の極意ともされるのである 。

 だが、「印地打ち」として外部から天孫系の百姓に狙われる事は江戸期にはなくなった。なぜかというと生活の知恵で、 要領のよい者は代官所役人の下働きとなって御用風をふかせたり、牢役人となって、これまでとは逆に百姓を苛め返したからである 。

 しかし、大多数の者はやはり百姓に見つかったら苛められ半殺しにされる弱い立場にあったのであろう。

 つまり、その伝統から[原住系俘囚の伝統といった意味で、八切説ではやくざ(本可打ち)も、その出自は原住系とみる]無職渡世のやくざというのは百姓に遠慮しきっていたのである。親分が羽織をとり尻ばしょりし、裸足で村を通るのは謙虚でも礼儀でもなく、「長年迫害されてきた原住民系の劣等感」による悲しき習性ではなかったろうか。

 [いわゆる武士階級も、元来が懐柔された夷、俘囚が出身であり、当初は公家には頭が上がらなかったものですが]

 つまりテレビや小説の攻撃的忍術は、中国や朝鮮の兵書からの借り物で荒唐無稽だが、 日本の本当の忍術というのは自己防衛のため、殺されまいと必死にあえぎながら考えだされた原住系の民の知恵ではなかったろうかといえる 。

 占領アメリカ兵に数奇屋橋から川へ放りこまれて溺死した人間の出た頃、我々はどう振舞っていたか‥‥満州で日本女性は引上げまで、なぜ皆坊主頭になり、顔に墨をつけていたか‥‥あれこそ日本人の忍術であり、おそらく山科言経がしたためた「忍法相伝」も、そうした自己韜晦の自嘲というか、自虐めいたものではなかったろうか。

 淋しくなったついでに書くが、「続応仁私記」に「 堀を深く掘り直して、その前面にひしをまく 」という個所がある。 湖や沼に生える黒い菱の実の事である 。 これは四方に棘が出ているのが一番固く、それは山梨県によく生えていたから、これを攻撃よう武器として甲斐から武威を振るった武田信玄は「四つ目菱」の旗を陣頭に立てた 。

昔は馬も藁沓、人間も素足か草履ゆえ、そうしたものをまかれては踏み抜きし足裏を痛めるから近寄れなかったからである 。

 さて、「記録御用所古文書」に入っている和田八郎定教の事を書いた「和田兵談」に、「 甲賀に住いしとき郷人の襲撃をおそれ、こがの実をまく定めありしとか、今も邸囲りにこがの生垣を二重にもうく 」とある。

こがとはからたち、くこの実のことをいう 。 これが語源で「こがもの」「甲賀者」となるのであり 、 伊賀の方はというと、「丹波は山栗の産多し、いがを集め俵に入れて運ぶ 」と、丹波亀山内藤党の古文書にあるように、武田勢と同じで、伊勢加太山の山栗の毬(いが)を今の界外あたりにまき、苛めに来る百姓の来襲を防いで、界外の中でひっそり世を忍んできたのが、家康に拾われるまでの、まことの伊賀者の歴史ということになるだろう。

 そして、 それが、「忍んで生きてゆく技術」つまり「忍術の本質」ではなかったろうか ‥‥

 これまでの面白い幻想を破ってしまった事をお詫びする。

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 以上の話から、忍術は、原住民の暮らしの知恵とでもいうべきものだったことがわかる。世を忍ぶ生き方、というか、本音は決して表に出さないし、表には出ずに黒子役に徹するというのが、忍術であることがわかる。

 これとは対照的に、架空の忍術はどことなく魔術を思わせるから、海外では人気なんだろう。忍術とは一見異なるが、同じようでもあるシュタイナーの話を続けて紹介する。

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 これまで述べてきたことから、すなわち、人体内や自然界での対極性からわかりますが、植物炭の反対に位置するのは光の生成なのです。この事実を、以下の人体=地球の図で示してみます。

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 鉱物化=硬化、または土形成=固体化の先に、地球があり(図参照)、地球は大気(気体)に囲まれ、大気の上方には熱の覆いとでもみなせる熱の層があり、つまり、地球から離れていく進路をとるなら、地上の鉱物とは全く別の熱の状態に到達することがわかるでしょうが、この熱の状態は、地上の熱の状態とは異なるので、そこに達すれば驚愕するでしょう。

 地球から少し離れた熱層の下の大気層では、地上で気体が果たす役割と似た役割を果たしているのですが、この大気層と反対側の熱層の上空には、大気層の対極があり、大気の役割とは逆の役割を果たしています。

 この層では、気体が消滅させられ、気体の状態が破棄され、この層から地上に光が送られてくるのです(図参照)。

 この地上の光が太陽からやってくると唯物的に考えるのは全くの間違いです。この見方は物理学者と天文学者のかなり厄介な幻想にすぎません。

 地上の光は上述の熱層の上からやってきます。光は、地上で植物が生長するように、この層で生まれ成長するのです(図参照)。

 ですから、結論として次のように言ってよいでしょう。人間が体内でオリジナルの光を生み出せる根拠は、地球の上空の、この光を生成する層を起源とし、その層を人体にもつことにあるのです。

 この地球外の起源が全植物に作用し、人間にも作用しますが、ただ、植物には、外から作用しますが、人間には、人体からも、つまり内からも作用するのです。

 さて、大気層よりも少し地球に接近すると、どのような状態になるのか、また、人体の気体層よりも、表面に接近するとどうなるのでしょうか。

 気体から出て、地上の固体に接近すると、液体、水状に至ります。

 ですから、大気(気体)層の下に液体層を想定できます。この液体層も対極の対を外側に持つのですが、それは気体層の上の熱層の上の光生成層の更に上位にあります。

 そして、そこでは、液体層で起こることとは対極的に、反対のことが起こっています。その場所では、先の光生成層で、光が成長するのと同じように、ある意味、何かが成長しています。

 この場所で成長するのは、いわゆる化学力であり、化学力が、地球へと作用を及ぼしてくるのです(図参照)。ですから、地上の物質の変化といった化学力の働きを、顕微鏡などで、物質のなかに探究することは全く無意味なのです。化学力は、この層から地球に向かってやってくるからです。

 勿論、人体内にも、この層をもつのです。人体は1つの化学装置をもっているのです。

 人体は、上空の化学力の起源となる層をいくらか持っています。そして、この化学層は、非常に強力に制限されています。つまり、この化学力は肝臓にのみ制限されているのです。

 肝臓が展開する独特の働き、つまり化学力を研究してみてください。

 肝臓が、血液の性質を吸収する一方で、胆汁の分泌を通じて、他方で、血液の調合のために、調整的な働きを及ぼしていることを包括的に研究してみてください。

 この肝臓の全体に渡る活動を眺め、肝臓の内部まで、究極的に研究したなら、真の化学が認められるでしょう。

 いま現在の唯物的な化学では、何と言っても、地球上では、その真実の姿をみつけるのは全く不可能だからです。唯物的な化学は実際、人間の外にある上空の化学層の鏡像と見なさなければなりません。肝臓の驚くべき働き全てを研究することで、地上を越えた化学層も研究できるのです。

 植物炭をアルカリの、例えばカリウムなどで、炭化カリウムとするなら、植物炭の特性を外界から、人体内へと持ち込ませることができ、その結果として生じる作用を人体内に引き起こすこともできるのです。

 アルカリ化により、人体内の奥深く、肝臓にまで影響を及ぼせるのに対し、植物炭のみに関わる作用は、腎臓から排泄経路を辿ります。だから、植物炭をアルカリ化することで、アルカリ性と、肝臓との間に、明白な相互作用を認めることができるでしょう。

 アルカリ性全般を研究するなら、炭化が動物化と関係するのと同様、アルカリ化、アルカリの傾向が、人体の植物化と、植物を外に出すのと関係するのに気づくでしょう。

 さて以前、硬化の過程を指摘しましたが、この過程は、人体内の働きを、外界の自然の働きから探り出そうとするときに重要な経過でした。

 この指摘した過程は、牡蠣が殻をつくる過程で、短縮すると、牡蠣殻過程と呼べます。

 そこで、炭素とカリウムの化合から更に前進して、カルシウムとの化合に到達できます。ただし、炭素とカルシウムとが同時に働くだけでは、牡蠣の殻に、燐の力を同時に働かせるのと、変わりないでしょう。

 牡蠣殻過程では、炭素とカルシウムの働きだけではない、更に別の海の力とも呼べる環境に働く力が隠されているのです。

 さて、この牡蠣殻過程を観察すると、実際、また人間と外界の自然との間の関係のなかに入っていくことになります。液体の層から、更に下の地上へと向かうと(図参照)、土の固体化、つまり硬化、鉱物化とでも呼べる層に到達します。

 「土」、つまり、「火」、「空気(風)」、「水」というような表現が、今日、本当の意味を隠されて、別の意味で使用されていなければ、このような表現が、愚かな古代人たちが、土や火や、空気や水について語っていた表現である、という風にみなされなければ、土、水、空気、火という表現で述べるのにそんなに物怖じする必要はないでしょう。

 このような表現の本当の意味を少なくとも暗示できるでしょう。

 さて、地面の固体の土の生成も、これまでの層と同じく、外の遥かな宇宙に他方の極となる対をもっています。そして、この他方の極こそが、生命をつくる層であり、実際に地上に生命を与えている根源なのです。

 この層には事実、生命力があるのです。この生命力は、化学力より更に遠くから地上にやってきて、外界の自然では地球の内部の、つまり土の固体内部で、完全に殺され、死滅させられているのです。

 次のような話に関心があるかもしれないので、付け加えておきます。もし、地中で生命力が殺されなければ、この地球は、生命の活発な活動の影響下で、絶え間なく腫瘍化し、膨張してしまうでしょう。

 もしも、この腫瘍化による膨張に、地球外から、それを抑制する経過が、つまり水星から地球に向かって行使される水銀過程という経過が対置されなければ、そうなってしまうでしょう。

 このような事実を少し考えてみるだけでも重要です。

 膨張を固体化することで抑制する元素とも呼べる、土の固体生成を、牡蠣の殻のなかに、牡蠣の膨張の抑制として見ることができます。牡蠣の殻が、固体生成を超えて膨張してしまうのを妨げているのは、牡蠣の殻が海、つまり水となおも関係し、土の固体生成として、膨張を抑制し、その前段階に自らを固定していることによるのです。

 (人体の腫瘍の周囲が石灰化するのもこれと同じ。)

 ミミズにはこれができません。ミミズは殻を持たないからです。けれどもミミズも同じ力をもっています。従って、ミミズがいなければ、地中には固体が生成しなかっただろう、というのは全く正しいのです。

 ミミズは、本質的に、土の固体生成の進行に関与しています。ミミズたちの世界が、牡蠣の殻つくりの過程と同様に、地球の膨張を抑制し、地球の固体の土を生成しているのです。ミミズは、牡蠣と同じ力で、牡蠣の殻をつくるのではなく、耕土他などの土の固体をつくるのです。

 ★         ★         ★ 

 腫瘍化、膨張しないように、忍法、ミミズヘンゲ、牡蠣ヘンゲでござい。





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Last updated  2016年02月23日 14時11分37秒
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