シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年03月02日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 海の向こう側では悪魔とアホバカが躍進中だが、トランプの将来像ともいえる、この国の節度を知らないアホバカが相変わらずヒトラー並に暴走中である、という話をお馴染みのサイトから紹介する。

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安倍を牢屋に閉じ込めろ
http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8933.html

 子供の未来応援国民運動だそうだが、2億円使って大々的に宣伝して、集まったのが1949万だそうでw WEBサイト構築に3000万だそうだが、300万だろw どこが2700万も抜いたんだ? つうか、広告代理店に2億流しただけだろw 口封じでw なので、マスコミは悪口書きませんw

 民主党の蓮舫代表代行は2日の参院予算委員会で、安倍晋三首相が掲げる「1億総活躍社会」の一環である子供の貧困対策をめぐる予算に無駄があるとして「仕分け」した。

 民主党政権時代、予算の無駄を鋭く切り捨てた「仕分けの女王」の面目躍如か。

 仕分け対象に取り上げられたのは、政府が昨年10月に創設した「子供の未来応援基金」。民間に子供の貧困対策費の寄付を呼びかける仕組みだが、集まった総額は1949万円(2月末時点)にとどまっている。

 蓮舫氏は、基金を含む政府の「子供の未来応援国民運動」の広報宣伝費として約2億円の国費が支出されていることをやり玉に挙げ、「この2億円を応援基金に入れればよかったじゃないか」と追及した。



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 しかしインチキばかりして良心が咎めないのかね。というか良心すら残っていないのだろうね。無神論者はこれだから恐ろしい。無神論者は、天罰も、地獄も唯物論なので存在しない、と思っているんだろうね。

 筋肉バカといえば、前に、この国の俗に筋肉バカと呼ばれている歪な体育教育について紹介したが、では3S政策のGHQの御膝元ともいえるスポーツ先進国といわれている米国ではどうなのかネット検索してみると、以下の話をみつけたので、紹介する。

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シカゴ発・アメリカ郊外生活
http://www.edu-press.jp/column/09/05.html

“夏はプロ野球選手、冬はアメフト選手”を生み出す 、 アメリカの体育事情 【vol.5】

 「体育」と聞いて、あなたはまず何を思い浮かべますか?

 私の頭に浮かんだのは、跳び箱、マット運動、鉄棒、100(50)メートル走、水泳、リレー、体力測定、ソフトボール・・・と、見事に小学校の授業で受けた種目・競技ばかり。これだけ思い返せるということは、見方を変えればいかに授業が充実していたかを物語っています。



しかしその反面、「逆上がりができない」「25メートル泳げない」というだけで、自分は運動ができない子なんだと深く劣等感を植えつけられてしまい、スポーツそのものが嫌いになってしまった子どもたちも少なくないのではないでしょうか 。

 今回は、スポーツ大国と呼ばれるアメリカでその“体育”がどのように行われているのかを、日本と比較しながらお伝えしようと思います。アメリカといっても州や都市によってまったく内容が異なりますので、ここでは「イリノイ・シカゴ界隈の公立校」という前提でお読みください。

小学校体育は遊びの延長線上

アメリカに転校した日本人の子どもたち(やその親)が一番にショックを受けるのが、実は“体育”の授業だった、というのはよく耳にする話です

 アメリカの体育(PE:Physical Educationの略)の授業は、 日本のように各種目・競技を掘り下げて目標達成のために“練習”するのではなく、ひたすらゲームやかけっこ、ダンスといった“遊び”のような内容であることが多く、また特別に体操着に着替えることもなく授業は毎日あるので、まるで休み時間の延長のようなもの 。

日本の小学校で“カリキュラム”を経験した子どもにとっては、アメリカの体育の授業はまるでゲーム大会のように感じる、というのもうなずけます 。

 (スコットランドも似たようなものらしい。)

 しかしその一方で、 子どもたちにとっては「○○できなければいけない」という強迫観念から解放され、苦手意識にさいなまれることなく自由にのびのびと好きなことができるところが、アメリカの体育の利点だといえます 。

“戦い”の要素がうすい、あっさり運動会

「運動会」もあるにはありますが、きわめてさっぱりしたもの。日本人の親から見れば「ぶっつけ本番のゲーム大会みたい」だそう 。

 もちろん、「運動会の予行演習」など、あるはずもありません(笑)。また、紅白に分かれて戦ったり、個人のかけっこ競争などもありません。

アメリカは多人種国家。生まれつき体格が違う異人種の子どもたちを競争させること自体に意味がないのでしょう。それよりも、体を一緒に動かして競技に参加し、楽しむことが第一と考えているのです 。

 会場のあちこちでは綱引き、三輪車リレー、障害物競走、ウォーターバルーンの投げ合いなどの各競技がバラバラに繰り広げられ、アナウンスや音楽もありません。しかも、 家族は自由参加のためほとんど見に来ないので、我が子をビデオ撮りするために会社を休む親もいません (笑)

ありとあらゆる競技を体験し、学ぶ中学~高校

 しかし、この“ゆるい体育”も小学校卒業まで。 ジュニアハイ(中学校)になると環境は一変します。授業内容は本格的になり、バレーボール、ドッヂボール、フォールドホッケー、フットサル、中距離走などさまざまな競技をやりながら、それらのルールなども学ぶようになります 。

これは他州の例ですが、体育の授業で「マイナーなスポーツをしよう月間」が設けられ、ゴルフ、フリスビー、アーチェリー、ボウリングなどを月替わりにやった学校もあるとか 。

 さらに面白いところでは、ウェストバージニア州の全公立学校が体育のフィットネスの授業に、かの有名なダンスゲーム『Dance Dance Revolution』 (DDR) を導入した、という話もあります。

 必修科目でDDRとは、まだ“ゆるさ”が抜けていないような気もしますが(笑)、DDRで子どもの肥満が解消されたという報告もあり学校側はいたって大真面目なようです。

クラブ活動が始まるのも中学からですが、アメリカの学校の部活動は日本のそれとは大きく異なります 。日本では転部しない限り卒業まで同じ部で過ごしますが、アメリカではシーズンごとに競技が替わるのです。例えば、春~夏は陸上競技やテニス、秋~冬はバスケットやサッカーなどという具合。シーズンオフには、個人で地元のチームに入るなりして、活動します。

 部活の種類は実に多種多様で、アメフト、サッカー、クロスカントリー、ゴルフ、スイミング、バレーボール、バスケットボール、ボウリング、体操、レスリング、バドミントン、野球、ラクロス、ソフトボール、テニス、陸上競技、ウォーターポロなどなど。

 ひとつの分野に限らず、幅広くより多くの可能性を見つけるチャンスが与えられているという点では、とても贅沢でうらやましい気がします。

このフレキシブルさが、“夏はMLB(プロ野球)の選手、冬はNFL(プロ・フットボール)の選手”を生み出す土壌になっているのかもしれません 。

即戦力のみ入部が許される。シビアな“トライアウト制”と学業との両立

学校以外でも地域のリトルリーグで腕を磨く

しかし、このクラブには誰もが入れるというわけではありません 。 入部するにはまず、「トライアウト」と呼ばれるいわゆる“入部試験”を受けてパスしなければならず、これに落ちると入部すら許されないのです 。

 超マイナーな部なら定員不足のため初心者でも入部できるチャンスもありますが、アメフトや野球など人気のクラブともなると、初心者での入部はまず不可能。

“完全実力主義”の厳しい壁が立ちはだかります 。

逆に言うと、初めにふるいにかけられるので年功序列は存在しません。先輩が絶対的権力を握り、一年生は掃除係と素振り、球拾いのみ、などということもありえないわけです。実力さえあれば、一年生でも即戦力として対等に扱われます 。

 (日本のような先輩のシゴキというのはないようだ。)

アメリカの体育における「平等」は、日本のように“力を平等に発揮すること”ではなく、“力を発揮する場を平等に与えられること”だと聞いたことがありますが 、言い得て妙。まさにそこが日米の根本的な違いといえるでしょう。平等に与えられたチャンスを勝ち抜いた者に、努力次第でさらなるチャンスが訪れるのです。

 そうはいっても部活はあくまでも部活。決して学業を疎かにしてはいけないのが厳しい掟。めでたくトライアウトに合格して意中のクラブに入部し活動中であったとしても、 学業で規定以下の悪い成績をもらうと即刻退部を命ぜられます 。

 (日本の場合、スポーツ推薦などがある)

 たとえそれが、主力選手だったとしても一切酌量の余地なし。決められたことは例外なく守り、守らせる。この徹底ぶりが、意外と聞き分けのいい(諦めの早い?)アメリカ人の根本を築いているのかも、などと思ってしまいます。

すべては親の熱意とバックアップがあってこそ

 親たちも「臨時コーチ」として子どものチームを手伝う。 中には兄弟のチームをかけもちしているほどの熱心な父親も。

 人気の部に入りたいけれど経験がない、そんなときはどうすればいいのでしょうか?

 その方法のひとつは、「地元のスポーツクラブに早くから通って練習を積んでおく」。これに関しては、第1回目でご紹介した「Park District(パーク・ディストリクト:PD」が主催する各種スポーツ教室が大きな役割を果たしています。

 ふたつ目は、「親が子のために個人コーチを雇う」。いわゆる“スポーツの家庭教師”ですが、もちろんどの家庭でもできる方法ではありません。競技の専門コーチはアメリカでは“ドル箱”職業。学校や個人をかけもちしている人気コーチもいるそうですから、いかにスポーツが子どもの将来にとって大事な位置づけにあるかかがうかがえます。

 子どもたちの才能と努力のみならず、親たちの熱意と金銭的バックアップがなければ、同じ出発点に立つことすらできない。これもいかにもアメリカらしいといえばらしいところでしょうか。

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 というように、米国には日本のように教員と生徒、先輩と後輩というような上下関係がないのが大きな特徴といえる。

 それと特に重要な違いは、日本の場合、体育教員のほとんどが、だんだん減ってきたとはいえ、生活指導員にもなっている点である。体育会系のノリからもわかるが、日本では上下関係が、子どものときから、主に体育教員により教えられることにある。

 私は学校で教員にはぶたれたことはないが、父親には何かというと、四六時中ぶたれたり、怒られていたので、そのためか、家庭内では兄弟喧嘩ばかりしていた。

 というとやんちゃのように聞こえるだろうが、弱虫でからかわれやすく、すぐに泣く虐められっ子だったから、体育の先生よりも、先輩の方が怖かった。

 だから、校則も破ることはなく、学校の体育教員に反発心はほとんどなく、体育に不満なのは持久走位で、むしろ中学の野球部の上下関係のほうが嫌だった。正直いうと、日本の部活は陰湿で、小学校のときは興味本位で剣道も習ったが、面が臭くて重くて、打たれると頭が痛くて、全く面白くなく、野球の方が何倍も面白かったので、すぐにやめてしまった記憶がある。

 剣道を休んで野球にいってたら、そのことで見せしめのような、村八分をされたのがいまでも記憶に残っている。この一件で剣道が大嫌いになったのは間違いない。日本には閉鎖的な変な仲間意識があり、同じ部活を続けないと駄目というような狭い器量が指導者にみられるのは問題に思える。

 だから、いまでも剣道なんか糞としか思わない。だから高校では柔道を選択したが、柔道もそんなに面白いとは思わなかった。というのも、剣道や柔道は他のスポーツを見下しているところがある。その道で一生飯を食っていくというのならまだしも、子どものときの部活やクラブ活動から、閉鎖的なのは非常に問題に思える。

 同じスポーツなのだから、比較するのがおかしいのだが、剣道や柔道は確かに日本独特かもしれないが、だからといって他のスポーツを見下すのはよくない。剣道や柔道はスポーツとは違うという意見があるかもしれない。

 しかし、武道は精神鍛錬のためにやるのだから、武道の観点からも、他の競技を見下すのは問題である。私見だが、実際、剣道や柔道は武道ではなくスポーツであると思う。それは巷を賑わせた柔道家の不祥事でも明らかである。精神鍛錬のためのものなら、不祥事など起こるはずもない。

 しかも、柔道も、剣道も実践では役に立たないことが明らかだからスポーツなのである。

 そもそも運動の種目によって差別するのが精神的に幼稚であるように思える。どうも、日本の体育には、歪な上下関係、下が上の駒や手足になるというような奴隷制度の風習が残っているように思える。

 師弟関係の上下とも違う。師弟関係とは、師の理想を乗り越える弟子をつくるための上下関係で、上下がいずれ入れ替わることを想定したものである。孔子が説いたように、老いては子に従えのための子育てである。

 時代が変われば価値観も180度変わるのだから、変わらない何かを子に託さないといけない。それには後の新しい時代にも通用する古い時代の真実に辿りつくことである。真実を追求する姿勢だけはいつの時代も変わらない。真実は神であって、常に不変だからである。

 しかし、真実は一つではない。人の数、生命の数だけ存在し、常に時代が変わると共に真実も様相を変える。しかし本質は変わらない。だから常に真実を追求する姿勢、努力が重要となる。

 先見力は真実追求からしか生まれない。先見力のないアホバカが現状にしがみつく。

 政治家に先見力は必須だが、教員も同じだろうが、そういう話を以下に紹介する。しかしアホバカくらい反面教師となるべきアホバカも貴重とはいえる。

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 ---ここからはその引用です---

人生の五計
http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-jinsei-no-5-kei-kyoushi-kenshou.html

南宋・朱新仲の教訓

■「身計」

○「教師憲章」と身計の覚悟

 そこで、今度は学生の反対側の教師について、ついでに「教師憲章」も挙げておこうと思う。

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「教師憲章」

 1、教育は職業的・社会的成功を目的とする手段ではなく、 真の人間を造ることを使命とする 。

 (どんな生命もどんな人も生かす慈悲をもつ人間)

 2、子弟が将来いかなる地位に就いても人から信用せられ、いかなる仕事に当たっても容易に習熟する用意のできておる、そういう人間を造ることが教育の主眼である。

 (インチキや嘘をつかない。)

 3、将来を担う子弟が、明日の行路を誤たず、信念と勇気をもって進むために要するものは、単なる知識・理論や技術ではなく、人間の歴史的・恒久的な原理であり、典型である。

 (真実を追求する姿勢が大事)

 4、 教師は漫(みだ)りに人を教える者ではなく、まず自ら善く学ぶ者でなければならぬ 。

 (常に先頭に立って学ぶ姿勢が大事)

 5、 教師は一宗一派の理論や信仰を偏執して、之を子弟に鼓吹してはならない 。

 (宗教の教祖のようなアホバカになってはダメ)

 6、教師は学校と教壇をなおざりにして、政治的・社会的活動をしてはならない。

 (俗物になってはダメ)

 7、現代が経験している科学・技術・産業における諸革命と相応する理性的・精神的・道義的革命が達成されねば、この文明は救われない。この「革命への参加」は、教師において、いかなる階級の奪権闘争でもなく、 もっと内面的・霊的な創造でなければならぬ 。

 (誰とでも仲良くやっていける道徳や、物質界を超えた精神性の向上が必要。)

 ---

 真の人間を造るということはどういうことか。

 どんな地位についても、人から信用される。どんな仕事にあっても、何も初めからできる必要はない。いつでも謙虚に、熱心にそれを学ぶ。学べば必ず人間は習熟することができますから、いかなる仕事にあたっても、容易に習熟するところの心構えのできておる、そういう人間を造ることが教育の主眼になります。

 これは、実はケンブリッジやオックスフォードの大学の校是・教育の方針であります。私がそれに共鳴して、いささか言葉を変えただけのことであります。

 (西洋文化も昔は使い捨てではなかった)

 最初からちゃんとできあがった、知識でも技術でも何でも、できあがったものをこしらえて出すというのではない。そんなことできるわけがない。まだ学生なんだ、青年なんだから、どこへもっていっても人が信用する、何をさせてもすぐできるようになるというだけの心構え、態度、つまり用意、それができておる人間を造る。

 これが教育者の学生・生徒に対する大原理であります。

 そこで、やや内容に入って、「将来を担う子弟が、明日の行路を誤たず、信念と勇気をもって進むために要するものは、単なる知識・理論や技術ではなく、人間の歴史的・恒久的な原理であり、典型である」ということを説明しましょう。

 つまり原理原則、その模範的人物、典型、これが必要なんです。そこで、例えば戦後日本の教育に大いなる変革と打撃を与えたアメリカをとって考えても、アメリカの識者がみんなこれを言うておる。

 例えば、職業教育がある。商業、工業、農業、いろいろな職業に役に立つ人間をつくる職業教育は大事なことである。しかし、この職業教育は教育の本体でないということは、これもまた定論である。むしろ、この職業教育を施そうと思えば思うほど、職業教育の終始を通じ、あるいは職業教育の前提に人間教育というものが要る。

人間の心構えや態度、生活を正しくする 。 

 そういう教育をしながら、あるいはそのできた者にして、初めて職業教育ができる。 教育そのものが職業教育だなんて思ったら大きな間違いであって、それは結局、職業を破壊することが識者の通論になっているのであります 。

 (人格が悪いのは何をやっても破壊行為にしかならないのはアホバカをみればわかる。)

 例えば、年齢わずかに三十にして、しかも総合大学の学長になったハッチンスという人がいる。さすがのアメリカでもこの人事は少し型破りすぎるというので、人々は非常に危ぶんだ。しかし、このハッチンス学長は堂々とその使命を果たして、今やアメリカ教育界で非常に畏敬されておる元老です。

 この人が堂々とそのことを言った。そして、学生には、どんな教育たるとを問わず、常に根本において、 人類の偉大な哲人や根本経典の書を読ませなければならないこと 、これが一番教育の根本問題だと力説しておる。

 ここに挙げた「学生憲章」にしても、「教師憲章」にしても、これは単なる私の意見を書いたのではなくて、教育勅語ではないけれど、古今に通じて誤らず、東西に施しても悖(もと)らざる、つまり、古今東西に徴して選定したもので、私個人の独断・臆説(おくせつ)ではないから、安心してもらいたい。

 次は、「教師は漫(みだ)りに人を教える者ではなく、まず自ら善く学ぶ者でなければならぬ」ということ。『礼記(らいき)』の中に学記という項目があります。

 その中に「教学半」という言葉がある。「教うるは学ぶの半(なか)ばなり」と読んでもいいし、「教と学とは半ばす」と読んでもいい。教えることは学ぶことです。

人に教えることは自ら学ぶことで、自ら学ばずして教えることはできないが、実際に教えることぐらい学問になることはない 。自分で分かっているつもりでも人に話してごらんなさい。終いに自分で何を言っているのか分からなくなる。

 私は相当に弁論の立つ友人と一緒に講演に行ったことがある。何やら難しい問題を持ち出して、しゃべりだしたのはいいのだけれど、終いに自分で自分の言ったことが分からなくなってしまった。

 正直な人で、ユーモラスな人なんですが、「ああ、何だか、僕は今日何を言うてるんだか、分からなくなった。もうやめた」と言うて、三十分ほどでやめたら、みんなが拍手大喝采をしたことがある。

 後で今日くらい面白かったことはないと言って、みんな非常に感動しておった。

 そこいらあたりに真理がある。何も上手に、頭よく、手際よくまとめてしゃべるのが芸じゃない。常識で、通俗に考えるのと、真理はまた別である。

要するに、「真(まこと)」がほとばしらなければいけない 。

教師は、まず学士、学ぶ人、学人であって、初めて教師になる 。「 教師は一宗一派の理論や信仰を偏執して、之を子弟に鼓吹してはならない」これは言うまでもないことです 。

 (〇〇教の教祖になってはダメ)

教師とは人間を教えるのであるから、人間の個性、その才能に応じて、これを育てなければいけない 。

 (生徒、学生の将来を見通せる先見力が必要)

 上杉鷹山(ようざん)の師として名高い細井平洲(へいしゅう)先生ばかりでなく、その他、幾人もの聖賢たちが言っておるが、教育の仕事は自分の好きな菊や蘭を作るのと違って、 いろいろな農作物を作るのと同じことだ 。

 米だ、麦だ、菜っ葉だ、大根だ、カブだ、ニンジンだと、それぞれ立派に育ててやるのが農業の仕事だけれど、教育はそういうものだと言うておる。 

 だから、教師は自分を修めるのとは違う。生徒に対して、学生に対しては、一宗一派の理論や信仰を偏執して、それによって自らを作っておる時に、その自らの真(まこと)、生命であるのが一宗であろうが一派であろうが、それを通じて語ることはよろしい。

 (生徒や学生の信仰心を重んじる。)

 少しも遠慮すべきことではない。しかし、一宗一派の理論や信仰に偏って、偏執して、それをもって他を排斥して、そしてそれを吹き込むことは、これは無理であり、不自然であり、いわゆるダイバーシティ(多様性=神界)に偏向するものである。

自分が松の木が好きだからといって、みんなに松の木を植えろという。桜や杉の木を植えた者がいたら、それを罵倒する。これほど良くないものはない 。

 日教組のように、マルクス主義階級闘争論なんていうものを鼓吹することは、断じて、大いなる間違いである。「教師は学校と教壇をなおざりにして、政治的・社会的活動をしてはならない」。

 それが嫌なら教師をやめて、そして活動すべきである。「分」というものを知らないのは、今日の学生の、まして大学の教授諸君の悪いところだ。国立大学教授、学長が国家の最高機関である議会、国会によって、しかも、 とにかく合法的に議決された国法を、気に入らんから俺は守らんというのでは、これは明らかに憲法から言うても罪人になる 。

 (今日では日教組というより、ジコウ周辺のウヨク教師やソウカ教師が問題である。アメリカに押し付けられたから、憲法を守らないなんていうアホバカは論外である。)

そんなことは、法学、法律学をやるまでもなく自明なことであり、人間の当然の常識であるが、それが分からないという不思議な堕落、不思議な世の中に日本はなってしまっておる 。 それを、また文部省も議会も内閣も何も言わん。まったくこれは無法、無規律の世の中であります 。

 (日教組をあんなに非難していた連中が同じことをしているのだから、日教組はジコウの師匠でこの国は終わっている。)

 「現代が経験している科学・技術・産業における諸革命と相応する理性的・精神的・道義的革命が達成されねば、この文明は救われない。この「革命への参加」は、教師において、いかなる階級の奪権闘争でもなく、 もっと内面的・霊的な創造でなければならぬ 」

 この指摘は現在諸国を通じて、おおよそ権威あると言われておる人々に異存のないことであろうと思う。その革命への参加、この文明を救う、本当の革命への参加は教師において、いかなる階級の奪権闘争でもない。ソ連や中共やチェコやいたるところでやっておる闘争ではない。

 革命と称する闘争なんかではない。 もっと内面的、霊的な創造でなければならない 。革命とはそういう事業でなければならない。

 (闘争ではなく、悟りでないと駄目! 要するに自己改革)

 これが私の信ずるところであり、また、私の理性と広範な現代の書、学問を通じて肯定せねばならんところの結論であります。

 志のあるものが、それぞれの場において、自ら信ずるところを実践するよりほかに世の中を良くする道はないのであります。

 (自らの真実探究から真実を明らかにすること。)

 伝教大師のいわゆる「一灯一隅を照らす」と言う、自ら一灯となって、自らの座しておる一隅を照らす。師友会が長年一つのモットーとして提唱してきたものであります。ようやくこの頃、同志によって各地に、各場所において、これが大変力行(りつこう)せられるようになって、「一灯行」が、いわゆる百灯、千灯、万灯行になってきたのであります。 

 今朝、ちょっと新聞を見ておったら、今東光師が、あれは天台宗であるが、これからは一灯行だと言っておられた。 我々の天台宗はこれから大いに一灯行をやる、天台大師、伝教大師の一灯行をやるんだと大見栄をきっておる。

 誠にけっこうであって、今東光師でもいい、やってくれるなら、大いにやってもらいたいものだと思う。そういうことを累積していくよりほかに、正しい意味の革命は起こりません。それが行われない、実践されないときには、どうしても日本はある期間、ある程度混乱と破壊を免れんと思う。

 (アホノミクズで日本社会が崩壊している。)

これは民族として、国民としては自業自得と言われても仕方がない 。

 甘受するほかない。甘んじて受けるしかない。 

 これはいわゆる贖罪行というやつだ。国民(官僚)が犯した罪、汚れを祓うために、止むを得ん。そう度胸を据えて、分を尽くすということであります。これが「身計」の最後の覚悟であります。

  ---引用はここまでです---

 ★         ★         ★ 

 安岡氏の教えは非常にためになるのだが、ともするとその教えを実践していないアホバカが、それをダシにして宗教の教祖かのように崇め奉り、反対意見を見下すようなアホバカを増殖させる弊害ももっているので、十分に注意すべきである。

 劇薬というべきものなので取扱い注意すべきである。特に、自分達も同じ貉ということを隠すために、日教組を弾圧するのに使われたりするのが、地獄行きの昨今のネトウヨらを操る広告代理店の悪行で、師の顔に泥を塗る危うい利用である。

 良い教えというのは猫に小判で、アホバカには下手すると劇薬になる。だから、良い師というのは矢鱈と弟子をとらないものである。

 アホバカな弟子は、師の教えを悪利用するからである。弟子のために、日蓮や空海はかなり穢れた存在になっている。仏陀の教えと逆のことする昨今のこの国の仏教をみれば、仏陀も地獄にいっているかもしれない。

 師を地獄に落としておいて、自分だけ救われようなんていうのは師を売るような背徳者である。





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Last updated  2016年03月03日 14時55分24秒
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