シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年03月18日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 暦は春なのに、アタマだけが春のアホバカが巷で騒いでいるが、世間は相変わらずお寒い。世間がお寒いのは失政にあり、アホノミクズのせいである、という話を紹介する。

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日本の歴史上、もっとも過酷な税制
http://my.shadowcity.jp/

 江戸時代には、税金というのはほぼ「稲作」だけに課せられていた。四公六民という言葉があって、収穫高の4割をお上に納めるんだが、元になる検地は古いデータのままだったので、場合によっては200年も前の耕作面積で決まる。日本中あちこちに「ナントカ新田」という地名があるが、アレは新たに開拓された田んぼで、年貢を払ってないw また、コメ以外の換金作物や自給作物も税金払ってない。

 ※その地に自生できるような芋や雑穀を多く植えて貯蔵しておけば、飢饉など起こりません。しかし、人間は、現金収入を求め、儲けにならない仕事は嫌うものです。

 津軽の飢饉は、豊作を予想して貯蔵米を売って大儲けした時に、冷夏がきて食料不足になりました。農民は金貨を握って死にました。

 コメはカネになるので、税金として収めた以外の全量を売ってしまい、水利が悪い土地で作る年貢とは無関係の蕎麦とか麦とかを食っていたのが農民です。つうか、そもそも農業というのは売春と同じで「モトシカカランヌー」ですw

 原価はほぼゼロw 江戸時代じゃ、農機具も知れたもんだし、肥料だってウンコw そこら辺を考慮すると、江戸時代農民の租税負担率というのはせいぜい20パーセント台です。売上げの、ではない、利益のw 商人、職人は、ほぼゼロ。徳川幕府は異常に小さい政府です。

安倍首相「消費増税なければ、アベノミクスはうまくいっていた」「失敗であった」
 2016年に入り、世界同時株安など世界経済の縮小がささやかれている。そして、それは日本の消費税増税にも大きな影響を与えつつある。

 周知の通り、安倍晋三政権は17年4月から、消費税を現行の8%から10%に引き上げる予定だ。これは、14年4月の5%から8%への増税に続く流れである。

 しかし、8%に引き上げたことによって、日本経済は消費が落ち込み、安倍首相自身も「消費税を8%にしなかったら、アベノミクスはもっとうまくいっていただろう」という旨の発言をしている。

 また、首相の側近である菅義偉官房長官も、最近は消費税増税について否定的な言動が目立つ。

 筆者が伝え聞くところによれば、首相官邸側は「できる限り、消費税増税はしたくない」と考えているようだ。前述したように、前回の増税によって日本の景気回復が遅れ、アベノミクスの先行きが不安定になりつつあることは間違いないため、官邸側の判断もうなずける。

 そして、安倍首相と日本銀行が目標としている物価上昇率2%には、現時点で到達できていないどころか、逆にデフレがいまだに改善されていない状況だ。

 15年4月、安倍首相は「来年の2月までに物価目標2%を達成できないのであれば、アベノミクスは失敗であったと言わざるを得ない」という旨の発言をしている。

消費税5パーセントと8パーセントでどう違うのか? わずか3パーセントの違いではない。ほとんどの商売で、利益なんてモノは数パーセントしかないんです。自分が儲けた以上のカネをお上に納めるというのは、四公六民どころじゃない、日本の歴史上、もっとも過酷な税制だ。まだ、仕入れたモノを売ってるんだったらいいんだが、ウチの商売では「仕入れ」というのがほとんどない。

 人件費が売上げの7割以上を占める。ウチの仕事は公共性が高く、利幅が薄い。利益より大きい消費税w そら、経済が死滅しますw

 そんな事より、豆州楽市の蕎麦です。乾麺としては究極の贅沢さで作りました。サロマ湖を望む丘で作られた蕎麦の別嬪蕎麦、日本一寒い地域である多度志の黒蕎麦と田舎蕎麦、もちろんツナギの小麦粉も国産、塩も希少な天日塩と、贅沢の極みです。

 (人頭税もあったはずだが、被差別民なので、記録には残っていない。明治維新で記録は焼失したそうである。西郷の肖像画や写真が残っていないのも、西南の役とされる中央明治政府からの薩摩独立運動で、焼失したそうである。)



 間違いは間違いと素直に認めるべきである。アホノミクズの失敗ははじめからわかっていることで、それはアホが利己主義のエゴイストで、現場の言うことを聞かずにイエスマンばかりを集めて独裁しているからである。

 三人寄れば文殊の知恵、といわれるが、同じ三馬鹿が集まっても、子ども以下でしかないのは、皆揃って我儘し放題で、我儘を抑えて、お互いの意見の良いところを聞こうとしないからである。

 自分が正しいと思うのは最も身の程を知らないアホバカである。正しいと思ってはいても、自分の意見を越える意見を常に求めていなければいけない。

 巷を賑わせた例の「女性は二人以上産め云々」と言った校長の発言もそうで、少子化の昨今についての問題提起とするなら、その内容は、一歩譲って正論かもしれないが、いかに正論でも、個性がほとんどまだ確立していない未成年に、校長の権威をもって押し付けるのはやりすぎで、大間違いであり、女性の自由が叫ばれている昨今では、これまでは正論とされた意見であっても、現代の大人の女性たちと大いに議論する余地がある。

 ともかくも、自分の意見を相手に押し付ける、というのは間違いである。世間に意見する以上は反論を認めないと駄目である。異なった意見がでてはじめて、意見が生きてくる。



 結局のところ、意見が正しいかどうかというよりも、エゴ、我儘がないかどうかの問題である。どんな意見でも受け入れる意見なのか、自分の意見しか認めようとしないのか、の問題である。口先では立派なことを言っていても、やっていることが下品なら、詐欺師である。

 またその後をみていると、教育委員会は校長の上だから、校長がその命令を聞かない、というのはそれこそ我儘で違反だろう。そういうことを言う時点で失格である。職を辞してから言論の自由で徹底抗戦すればいい。

 意見というのは日々発展しないとおかしい。

 あの法螺吹きの勝海舟でさえ、横井小楠は、今日はこれこれの意見だけれども、明日になったら、また違う意見になるかもしれないと勝にいったそうで、勝はそのことを大いに褒めている。意見が日々変わるのは当然のことである。だから意見を押し付けるというのは進歩しないことになる。

 そういうわけで、何が大事かといえば、足るを知らないから、意見を押し付けるアホバカをする。

 自分の意見というのは、基本的に自分の自我でしか成り立たない。自分の自我以上の意見はでない。だから、自分の自我がどれほど他の人の自我と協調関係にあるかで、自分の意見が意味をもってくる。

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足るを知る者は富む
http://kotowaza-allguide.com/ta/tarushirumonotomu.html

 【読み】 たるをしるものはとむ

 【意味】 足るを知る者は富むとは、満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで、幸福であるということ。

 【足るを知る者は富むの解説】

 【注釈】 人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。

『老子』に「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り(満足することを知っている者は富者であり、努力している者は志ある者であると言える)」とあるのに基づく。

 【出典】 『老子』

 【類義】 足るを知るは第一の富なり/富は足るを知るにあり

 【英語】 Content is the philosopher's stone, that turns all it touches into gold.(満足は触れるものすべてを金に変える『賢者の石』である)

 Content is a kingdom.(満足は王国なり)

 【用例】 「足るを知る者は富むで、彼女はいつでも幸せそうに微笑んで日々を送っている

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 ホンモノの富とは足るを知ることである。ついでに老子を完全に誤解して紹介している悪例を紹介する。『「足るを知る」に騙されていませんか』と表題にしながら、この解説者が曲解し、それに一番騙されている。 

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「足るを知る」に騙されていませんか
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100514/214426/?rt=nocnt

 最近、老荘思想が若者の間で流行っている、という記事を目にして「草食系もここまで来たのか」とちょっと驚いたことがあります。今までも「足るを知る」といった言葉を下敷にした書籍の広告を、よくマスコミで目にするなあとは思っていたのですが…。

 しかし、こうした風潮は、危うい面があるのではないかと筆者などは感じています。なぜか、といいますと、そもそも「足るを知る」という考え方は、時々の権力者や強い立場にいる人間に向けた訓戒に他ならないからです。

 (「時々の権力者や強い立場にいる人間に向けた訓戒に他ならないからです」は決めつけである。)

 この言葉を聞いて、「そうだよな、求めてばかりはいけないな」と感じられる人は、そもそも「もう満足してもいいや」と思えるだけの何かを、すでに持っている人なのです。ちょっと極端な例を使いますと、“派遣切り”にあって、明日眠る家もない人に向かって、

 「足るを知ることが、重要だよ」

 と説いたとします。聞いた人が「そうだよな」と納得するかといいますと、「ふざけるな」と怒って、ぶん殴られるのがオチではないでしょうか。

 (老子は俗世間のどうでもいいやりとりを説いているのではない。大体、上述のコントみたいな会話など成立するのか? 老子はもっと根底にある精神世界の道徳を説いている)

 要は、この言葉に共感する人が多いというのは、今の日本人がなんだかんだいっても、振り返って満足できる何かを持っている人が多いという証なのです。かつて『清貧の思想』という本が大ベストセラーになりましたが、時あたかもバブル景気の余韻が濃厚に残る1992年。これも、みなが貧しければ「清貧」なんて、流行りようがないという話とまったく同じになるわけです。

 とはいえ、ちょっと考え方を変えれば幸せを感じられるなんて、良い話じゃないか、と思えるかもしれません。しかし、ここには大きな問題があります。まず、いま手にしているものだけで下手に自足しようとすると、結局それを使いつぶして終わってしまうだけになりがち、というのが第一点。

 (自足の足るではない。満足の足るである。)

 第二点めは、この言葉を下手に弱い立場の人間が旨としてしまうと、結果的に強い立場の者ばかりが利益を得てしまいがちだ、ということです。

 (足るは弱い立場に甘んじろ、我慢しろ、という意味ではない。文章の解釈が小学生並である。むしろ立場を超えろという意味。)

 つまり、一般庶民や、貧しい人たちのなかに「足るを知る」「止まるを知る」を旨とする人が増えていけばいくほど、「持てる者」の立場が安泰になっていくのです。なぜなら、「取って変わってやろう」とか「あいつばかり富や名誉に恵まれるのは許せない」といった庶民の嫉妬心や向上心を緩和してくれる役割を、この教えは果たしてくれるからです。そして、『老子』はまさしくこうした効果を狙った古典でした。

 あまりにも老荘思想の世間的イメージ――白ひげをはやしたお年寄りが大自然に佇むといった――とかけ離れてしまっているので、驚かれる方もいるかもしれません。しかし

 《老子の思想は、往々にして弱者を擁護し、敗北者を慰める趣旨と考えられている。しかし、それはまったくの誤解であって、むしろ強者、あるいは強者たらんとする人に対する訓戒を第一義とするものである》『老子入門』楠山春樹 講談社学術文庫

 という指摘もあるように、こと『老子』の立ち位置に関する限り、こうした解釈は研究者の間では特に珍しいものではありません。

 (アホ抜かせ。このような研究者は何を研究しているのかな? もっと勉強してほしいもんである。)

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 物質世界に染まっているから、以上のような間違った解釈になってしまう。老子を単なる老人の戯言と一緒にしているから始末に負えない。

 「老」とは確かに歳を取るという意味もあるが、前にも紹介したように、この老はタオと読むように、尊敬の言葉で「知恵者」という意味で、未熟に対する完成した人格者の意味で、老熟の賢者であり、若者に説教するような老害ではない。

 あらゆるところに曲解があるので、いちいち指摘するのも面倒だが、「足る」は自給自足の「足る」ではなく、満足の「足る」であって、「自分を知る」という意味で使われている。

 上述の解説をいいように解釈すると、悟っていなくても悟っている振りをした方が得である、という風になってしまう。こんなのは大きな間違いで、悟りもしないのに悟った振りをしてはならない。足るを知らないのに、足るを知った振りをするのは大問題である。

 だから、正しく解釈すれば、金持ちは満足を知らないから精神的に貧者であるし、権力者は権力の怖さ、盲目さを知らないから精神的に鈍重である、ということにもなる。何も物質面だけを語ったわけではなく、実際に、古代中国は物質面では現代よりも遥かに貧しかったわけで、そんなことは環境を考えれば一目瞭然である。

 だからむしろ物質面というより精神面を語ったことである。金持ちとか、権力とか、勝ち負けとか、そういう副次的な枝葉末節のことではない。全くもって軽薄な解釈なんで、このような軽薄なアホバカにならないために、シュタイナーの話を続けて紹介する。

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 -弟子のクッテネルがお送りします。

http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-956.html

≪復活と再臨(3)(改変)≫

★肉体は《鏡》

 しかし、そもそも、我々は《自我》さえあれば、死後も個人の意識を保てるのだから、キリストは、自我を直接理想の状態に導く方法をとってもよいのではないか、という疑問もわきます。

 何故、我々は転生の度に消え去ってしまう《肉体》を、時間をかけてコツコツと霊体(ファントム)に純化させなければならないのでしょうか。高橋氏の解説の続きは、まさにそんな疑問から始まります。

 「例えば、仏教では、肉体にこだわる自体、意味をもちません。

 むしろそういう執着から離れて、肉体などいくら滅んでも構わない、自分の関心はそんな所には無いと思った方が、もっと人生の本質を見れる、と教えます。

 (…中略…)

 大切なのは魂で、肉体などはどうでもよいと言うのなら、肉体が復活しようがしまいが、大して意味の無いことになります。
 ……………………………………………………………………………

 シュタイナーがホンモノのキリスト教を復活論の中に見て、パウロのキリスト教を大切にしようとしたのは、肉体が重要なのを知っていたからです。

 (…中略…)

 もちろん 人格にとって大事なのは、肉体ではなく、自我です。けれどもその自我は、肉体がないと発達しません 。

 (…中略…)

 肉体とは、第一に自我にとって《鏡》の機能を持つからです。肉体は《鏡》なので、自我にとって重要なのです。

 自我に、個人を認識させる鏡であるため、肉体は、外界の周囲の環境と調和的に発達していなければいけません。

 シュタイナーの言う鏡とは、次のようなことです。

 私達が廊下を歩いているとします。真っ暗闇の中です。歩いている実感はあるのですが、…正面にある《鏡》の前まで来た時も、自分の姿はまだ映りません。

 しかし、《照明》が当たり、自分の姿が映し出される瞬間、眼の前の《鏡》に自分の姿が現れます。自分が居る事が、《鏡》を通じて分かるのです。

 シュタイナーは、肉体とはそのような鏡だと言うのです。

 …鏡が歪んでいたり、壊れていたりしたら、その前に立った私達は、自分を正しく見ることができません。

 しかし、鏡が無くても、私は存在しています。肉体は、鏡にすぎないのです。

 そして《照明》とは《意識の働き》のことです。

 (…中略…)

 《鏡》が眼の前にあるからこそ、《照明》によって、自分が見えるのですが、《鏡》が壊れようが無くなろうが、自分は居るのです。

 ただ映し出されていないだけなのです。

 (…中略…)

 人間の自我は、肉体という鏡を通さないと、自分を見れないので、肉体は自我にとっては、自分を見せてくれる鏡で何物にも代えがたい大切な道具なのです。

 自我にとって、その道具と自分の関係があまりにも深く、一体感を持って体験されるので、肉体が消えてしまったら、自分の意識も消えてしまい、自分がわからなくなってしまうのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載

 つまり肉体という《鏡》がなければ、自我は、自身の存在や、発展や進化を認識できず、従ってキリストから送られた3つの心を実践する機会も持てないのです。

 それはすなわち、《光のかけら》の育成が進まないことを意味します。

 さらに、鏡である《肉体》も出来る限り《最良の状態》に近づけてゆかなければなりません。

 鏡である肉体が歪んだ状態、例えば利己的な欲望の光ばかりに反応して、自我を偏らせ、誇大化して移す《鏡》になってしまえば、その一方でキリストの3つの心を実践する機会は減り、細胞から《霊体(ファントム)》への創り変えは進みません。

★ファントムを歪ますもの

 前夜でお話ししたように、肉体という《鏡》の理想の設計図がファントムです。しかし現代では、それを形成する力が次第に衰えて、崩壊し、どうしようもない段階にまで来ているようです。

 それでは《我々の自我をどのようにすべきか》について、高橋氏は、自我を《ひたすら見つめるのに徹する》ことでカルマを解消すべきである、と述べています。

 カルマの働きとは、人間関係の中で、自分でもわからないうちに発生する《これがしたい、したくない》《これは好きだ、嫌いだ》《あの人が恋しい、憎い》という想い(欲望)を起こさせる集合体です。

 これは第133夜で述べたとおり、アストラル体の働きによるものです。

 そして、肉体は実際の体験を、自我に《認識》させ、エーテル体はその体験を《追想し、記録する》ことで、自我に《働きかける側》として作用しています。

 一方、我々は、前世でのカルマを解消するために転生しており、《自我》は、体験の《主体》です。たとえ、その体験が辛くても、自我を、自我に認識させるために、主体から、ひたすら《受容側》にたつべき役割を負っています。

 ところが、我々の日常の自我は、それらの体験、記憶、カルマから発生する体験を受け入れるのが辛く、拒否しがちになり、体験の受け手から、しばしば主体の《働きかける側》に変わってしまいます。

 (自我の成長のために、人生には受け入れがたい苦悩が用意されているので、予め目隠しされている。

 母体に宿る前の霊魂は、自分の人生を予め見るのだが、あまりに受け入れがたいと、人生に失望し、母体に宿りたくなくなり、そのため未熟児や障害児となる場合もある。)

 そのような場合、自己に有利な局面のみを見つけようとしがちになり、自らの欲望の奉仕者になり、限りなく権威的に、限りなく利己的に、限りなく嫉妬心を燃やすことになるわけです。

 (アホバカたちである。自分とは反対側にいる人を無視し、拒絶するようなアホバカ。)

 高橋氏は続く解説で、我々が、睡眠中に、このような自我の働きの結果が、決定的な違いとなって、当人のファントムに反映してくる、と説明しています。

 「個人という存在の覚醒時に、この世を生きるために、ひたすら自我を見る立場に徹せられれば、自己を客観視できる自我が確立でき、自我の故郷でもある霊界の道徳性に従って、真善美の観点を保てるのですが、日々の生活で生じる誘惑に負けて、観察を止め、自我を客観視できなくなり、欲望の主体になってしまいますと、自我とアストラル体とを混同してしまい、アストラル体の奴隷の役割を演じるのに終始してしまうのです。 

 対照的に、睡眠時の自我は、覚醒時に観察した自らのアストラル体、エーテル体、肉体の行為の印象を、毎夜肉体に記録する役割を負っています。

 ですから、その印象が、覚醒時に霊界の道徳の観点に立っていた結果ならば、毎夜ファントムに創造力を送り込めるのですが、そうでない場合は、自分が巻き込まれてしまったカルマや記憶や現実の不健全で邪な感情や思考を記録するのです。

 その結果、ファントムは、だんだん醜い、歪んだ、はかない、もろいものに変えられていくのです。

 (だから病気となって現れる。病は気から)

 これは、我々にとっては、非常に深刻な問題です。

 何か一つの体験を持つ度に、自我がそれを直視し、そして、夜眠っている時に、寝ている自分の肉体に、その印象を記録するのですから。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載

 小生を含め、多くの人にとって《他人より恵まれた生活》を目指し、次々と利己的な物質を生み出している現代にあっては、ファントムを歪ませない生き方は、相当難しいでしょう。

 そして、その《邪な感情》が湧き起こる度、それらが顔や肢体に記録されてゆくと考えると、キリストが我々に手本として示した、肉体の浄化など《遥か遠くの夢》の話に思えてきます。

 しかし、我々はそのために転生を繰り返しているのです。例え亀のような歩みしかできなくても、毎日少しずつ完成に近づけてゆくしかありません。

 そのために、第156夜でお話ししたように、自分の行動が、自分でも気づかぬうちに利己的になっていないか、常に反省しながら生きてゆくしかなさそうです。

★シュタイナーの宇宙観

 以上がシュタイナーの説く、我々の復活の《科学的》な解説です。

 恐らく、上述の話を聞いて、彼を知る解説者の多くが、現代科学とはかけ離れた《空想》のようにみえ、彼から離れていったように思われます。

 正直に言って、第147夜以降のシュタイナーの言葉を、霊界の知識なしにスンナリ理解できる人は、シュタイナーの生まれ変わりか、よほどの変人ではないか、と思います。

 この書の解説者である高橋氏も、空想のようにみえるのを当然とした上で、その『あとがき』を、以下のように書いています。

 「本書で展開される壮大な宇宙観、人間観は、途方も無い作り話のようにも読み取れるが、今我々が、限られた何十年かを地上で生きるために生まれて来た意味、我々が《人間である》という意味を改めて考えてみると、

 本書のどの頁からも、生々しい現実の息吹が感じられ無くもない。

 (…中略…)

 本書の内容を、《真実として受け容れられるかどうか》

   というよりも、

 《自分の中にイメージとして再現できるかどうか》

 を、読者に問いかけている。

 このイメージには不思議な力があって、一度作られたら、一種の《浄福感》のような余韻を、読者の心に残してくれる。

 ここで、そのイメージを大雑把にまとめてみると、

 (1)人類は大宇宙と共に進化を遂げていく。

 (2)人間の個体数は限られており、無限に生じるものでは無いので、人類の進化の過程には、同一の個性が何度も繰り返し参加している。

 (3)進化には人間だけでは無く、人間よりも高次の存在たちも関わり続けている。

 (4)人間の個性の秘密には、太陽と地球との宇宙的な関係が含まれている。

  ということである。

 その、太陽の霊=生命の働きを代表するものを、シュタイナーは《キリスト》と呼んだ。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp415-416《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載

 第160夜でお話ししたように、シュタイナーは、聖書に書かれたキリストの秘跡の数々を地上で生じた《事実》として捉える必要性を強調しました。

 例えば、それは、空海が最澄に伝授を拒んだ《密教》のようなもので、頭の中の理屈で捉えるものでは無く、直観で捉えるものかも知れません。

 (私見だが、最澄は生真面目だが、ちょっと俗物で権威主義的にみえる。現代の学者のように唯物的で、密教を教えると逆に馬鹿にしそう。というか、密教に通じていれば、空海が拒むことを予期しないと駄目である。

 教えるなら、空海の方から、教えているはずである。恐らく、毎夜、最澄の枕元=夢の中に訪れていたはずである。最澄はそれに気づかなかったのだろう。)

 直観などと言うと、一般には空想のように捉えられがちですが、今までお話ししてきたように、我々の《思考》も、一種の霊の存在とすれば、直観が大切にも言えます。

 直観が強いほど、我々は直観通りの浄化の過程を着実に進むことができるのです。逆に《そんな馬鹿な》と思ってしまえば、ほとんど効果は得られないのです。

 さて、シュタイナーは、未来のもう1つの秘跡である、完成された《見えない肉体=エーテル体》を持ったキリストが、どのように再度我々の前に現れるのかについても言及しています。

 次回第163夜からは、その《再臨》についての話です。

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 自分が正しいという意見こそ自分勝手な意見である。大人だからといって若者よりも正しい意見をいえるとは限らない。校長でも他者の意見を聞かずに、自分の意見を押し付けるのは馬鹿である。





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Last updated  2016年03月23日 14時58分40秒
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